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心変わり

作者: 憂木冷



 川の流れるのをじっと見ていた。

 しばしば私は、時というものを忘れる。腕時計が何食わぬ面もちで、針を進めているのだ。ずっと視界に入っていたはずの月が、気付けば川の向かいに建つ赤い屋根の家の真上から、右上の方へずれている。そこで私は、自分も、あの月も、同じ時間の中にあるのだと言うことを思い出す。

 私は川に問いたかった。なぜそんなにも、寄り添って流れ続けることができるのか。手には取れない水の粒と粒が。いくつもの粒が。絶えず、隙間なく寄り添い流れる。

 世界にたったひとつだけ、永久機関と呼べるものがあるとするなら、それはこの大地と海と空を巡る水なんじゃないか。私は科学に明るくないから、曖昧な知識でそんなことを思う。

 スマートフォンの画面を点灯させる。

 画面上で指をスライドさせると、さっき使った時にホーム画面に戻すのを忘れたのか、メールの文章が表示された。

 交際記念日の前日に着たその内容を見て、やっぱり永久なんてないのだろう、と思う。

 画面を戻し忘れたというより、少しでも早く、電源を切りたかったのかもしれない。

「切れたのは人間関係だけど」

 思ったより低く聞こえた自分の声は、川の水に溶けて消えた。

 声というのはひとりの時ほど、自分の耳にはよく聞こえる。

 メールの本文には、「もう会うのはやめましょう。さようなら」とあった。私はその文章から、どんな感情を読みとっていいのかわからない。

 このメールが届くまで、私と彼女は交際関係にあった。だというのに、不思議なことに、私はこの、俳句ほどの文字数の文章を読んだだけで、彼女と他人になった気分でいる。

 彼女はいったい、どんな気持ちでこの文章を送ったのだろう。

 怒らせたか。

 呆れされたか。

 思い返す限り、取り立てるような出来事はないように思えたが、そんな重要な事を気に止めていないからこそ、私は振られてしまったのかもしれない。

 反省はしていた。しかし謝る気持ちはどこからも湧き出てこない。

 それは私が、すぐに頭を下げる人間に嫌悪を感じてしまうからというのもあるかもしれないが、それ以上に不満もあるからだ。

 どうして彼女は、限界まで何も言ってくれなかったのだ。

 と。

 私には、彼女が今、どんな感情を私に抱いているのか想像する事しかできない。これはもし、ちゃんと相対して会話をしていても同じ事かもしれない。

 ヒトの気持ちなのだから。

 わかると言えば綺麗事だし、わからないと言えば無神経だ。

 ただ、こんなメールを送って来るのだから、私は彼女を怒らせたのだろう、という想像はできる。私はあまり気配りの上手い方ではないから、些細な出来事で彼女に不満を持たせていたのかもしれない。それでも、そんなことは彼女も知ってくれているはずだった。どうしてもヒトとの付き合いが上手くやれないと悩んでいるときにも、アドバイスをくれたし、冗談で重い気を取り払ってくれた。

 それなのに、なぜ突然こうなるのだろうか。

 突然別れるになるのだろうか。

 深い呼吸の後に長いため息があふれる。

 肩の緊張が少しだけ抜けた。

 私は下流へと歩いた。

 綺麗に並べられたコンクリートブロックの歩道が、息苦しそうに見える。そのブロックの内ひとつが引っこ抜かれて外れても、全体の構成に影響はないはずだ。それなのに、コンクリートブロックは、ひとつひとつがあたかも重要な役割を果たしているかのように、みっちりと四方八方敷き詰められて繋がっている。関係とは相対的だが、ひとつのものの存在は絶対的なはずだ。

 繋がりがあってもなくても、関係があってもなくても、そこにあるという事実は、絶対に変わらない。

 孤独になって歩く川沿いの道は、気楽で心地が良かった。

 誰かに認められたり、多くのヒトに覚えられていなくても、ここに居る私は、私でしかない。

 つま先に当たった小石が、欄干の下を抜けてちゃぽんと川に波紋を作った。

 思えば以前から彼女には、自分の気持ちをため込んでしまうところがあった。どんなに不満があっても、憤りを感じても、それを我慢する。相手は、注意も怒られもしないから、同じ事を繰り返してしまう。その結果、我慢し切れなくなって、一気に極端な行動に出てしまうのだ。

 それは彼女の悪い癖だ。

 私も彼女の同僚や友人に対する愚痴や悪口に付き合った事がある。しかし、私に言った不満を決して本人には言わずに、会えば笑って話をする。

 誰かに話したことで、不満を抱いている本人にも伝わったような気分になってしまうのだろうか。

 自分の気持ちを誰かに話すことで満足してしまう気持ちは、私にも理解できるが、だからといって、ある日突然我慢できなくなって決別なんていいうのは、少し大人気がない。

 お互いにわかっているつもりになっていて、分かり合った気になっていて、その実、重要な部分は理解し合えていなかったと言うことか。

 何というか、失望を隠せない。

 彼女がそんな大人げない人間だと言うことにも、そのことに今まで気付かないでいたという事にも。所詮私たちは、わかりあえずに、勘違いしあって過ごしてきただけで、大した関係も信頼も築けてはいなかったということだ。なにしろ、たった一通のメールで崩壊してしまう程度の関係なのだから。

 私たちは、あの流れる川の水の粒子や、コンクリートブロックのひとつひとつと同じだ。

 窮屈な思いをして、必死に繋いだ周りとの繋がりは、本人にとってのみ重大で、本当はただの大きな流れの一部でしかなく、簡単に外れるし、外れたからといって別段問題にもならない。

 それがマイナスの関係ならむしろ外れた方がいい。

 私はすでに、こんな大人げなく、何の宣言もなくいきなりヒトの感情を揺さぶるようなメールを送ってくる、卑怯な彼女と、今までどのようにしてコミュニケーションを取っていたのか上手く思い出すことができないでいる。

 私の作る人間関係はすべて、大きな社会を作る為の、ほんの少しの化学反応みたいなもので、ひとつの場所に――ひとりの人間にこだわる必要はない。相手も関係の終了を望み、私もそんな彼女に大いに失望を覚え、軽蔑の心さえ芽生えた。それなら無理をする理由なんてどこにもない。

 私は、もう一度川沿いの欄干にもたれ掛かり、スマートフォンを表示した。メールのアプリを終了させる。時間を見ると、二十三時五十九分から、ゼロが四つに変わった。

 ちょうどその時、メールが届く。

 夜闇の下をくぐり抜ける真っ黒い川が、スマートフォンの液晶画面の明かりを際立たせる。閉じたばかりのメールアプリを再び開くと、送信者はまた彼女だった。

 件名は、「交際記念日ドッキリ」だった。

 本文は、なかなか返信をしてこない私を心配するような内容で、「今年もよろしく」と締めくくられている。

 私は「あー」と、マイクのテストでもするように、できるだけ平らな声を出す。

 彼女はいつも、私を喜ばせてくれるためにいろいろな事を計画してくれる。黒い川が責め立てるように、私の中に彼女との楽しい思い出を流し込んで来る。

 しばらく時をどこかに忘れて来たかのように動けなかった。

 私は、たかが数文字の文章を読んだだけで、安易に彼女を見限ろうとしていた自分を心の底から軽蔑した。



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