1――鬼ごっこに横槍を
「ケイコ・トノエらしき女性の姿はないか……」
左腕を包帯で吊るした青年が苦々しい声色で呟く。
暗緑色の改造外套に、筋肉質な痩躯を隠す怪我人だ。髪は地味な砂色で、顔立ちも没個性的。それ故、閉じた左目を縦断する醜い傷痕が悪目立ちしていた。
「追っ手は粘着質な上に非道で知られる、ハザウェル暗部の処理班。なるべくお近付きになりたくない手合いだ。確証抜きの横槍は躊躇われる」
雨風の騒音に紛れそうな声量で言葉が続く。
現在の天候は暴風雨。
雨に叩かれ風に煽られ、しかも青年の居場所は崖に生じたわずかな窪み。急勾配の斜面で、迂闊に足を滑らせたらどうなるかは想像に難くない。
常人なら足が竦む危険な状況下で、彼は暢気に天を仰いだ。
「キキョウ。諜報担当のクロ隊長として、その辺どうなんだ?」
「逃亡者の右腕と馬の左前足には、符丁代わりの赤と黄の布。背格好の特徴も一致します。継古女史の手紙に書かれていた、問題の同行者で間違いないかと」
崖に生息する細い木々の隙間に、少女――キキョウが身を潜めていた。
外見年齢は発育良好な胸部を除いて十代前半。可愛気と色気を兼ね揃える稀有な容姿の持ち主だ。雨粒を浴びた今は特に後者の風味が濃い。
肩口付近で切り揃えられた黒髪は、見事に色艶を増している。露出過多な着物も蠱惑的な肢体に張り付き、彼女の妖しい魅力を強調していた。
「鬼ごっこの発生理由は十中八九、敵対種族である継古女史との関与故。追っ手の雰囲気的に生死不問でしょう。放置した場合、間もなく殺されますね」
「むしろ今までよく生き延びたって感じか」
「ええ。……無論、コウさまが不要と仰るなら手出しを禁じますが?」
キキョウが人差し指を顎に添えて首を傾げる。
本来なら愛くるしい仕草も、彼女がやると妙に挑発的だ。青年――コウは、視線を逸らすのに多大な苦労を強いられた。
「俺は傭兵団《オウマ》の今代団長で、ケイコさんは初代からの盟友だ。彼女の関係者なら是非もない。――意地でも救うぞ」
「承知致しました。では配下に通達を出します」
頭上のサキョウと眼下の部下が一斉に動き出す。
緊張感を増す周囲を尻目に、コウは単眼鏡を覗いた。
お目当ては、稚拙な馬術で山林を往く十代半ばくらいの子供。厚手の外套を着込み、フードを目深に被っている。顔立ちどころか性別すら判別つかない。
子供の後方には、馬に跨る追っ手の姿があった。一定の距離間を維持して散発的に矢を放っている。あえて危険を犯さず、標的を誘導しているようだ。
「……流石は国家直属の暗部。子供が相手でも容赦無しか」
雨ざらし以外の要因で背筋を震わせ、コウは逃走劇の観察を続けた。
追っ手の中でも、あからさまに異質な男を注視する。
革鎧で武装した他の面子と違い、褐色の防護服を着込んでいた。国軍御用達の装備ではあるものの、造りは雑で見た目も最悪だ。
しかし、それ故に出自の判断材料としては申し分ない。
駄目押しに歪な頭部とくれば、男性の正体は自明の理である。
顔面を乳白色の仮面――《メルザ》が覆い隠していた。
おかげで彼本来の表情は誰にも窺えない。切り抜かれた三つの三日月ばかりが、滑稽な笑みを形作っている。
それは首から離れた後も変わらなかった。
「一班による奇襲は成功です、コウさま」
「見えてるよ。容赦の無さならうちも負けず劣らずだな」
「団長の性癖が如実に表れてますねー」
「人聞きの悪いことを……」
コウの仲間は厄介な《メルザ》装着者を初手で殺害した。想定外の事態に撤退を即決した残党も、末路は似たようなもの。
数秒と待たず、残党が駆る軍馬が一頭残らず転倒した。
行く先々に罠が張り巡らされていたのだ。
「これで趨勢は決したはず。キキョウ、敵増援の有無は?」
「そちらの対応には実動隊以上の数を割きました。周辺封鎖並びに、連絡操作は完璧。敵方は完全な孤立状態です」
「んじゃ、あとは連中で最後か」
コウの興味が子供の進行方向に移る。
仲間の壊滅にも気付かず、味方と獲物の到着を暢気に待つ五人。待ち伏せ担当の彼らが、コウ一行の受け持ちだ。
「……よし。事態は予想通り進行中。俺たちはこのまま例の地点に向かうぞ」
コウは周囲の配下に指示を出して、足場から跳び下りた。雨に濡れた岩場の斜面を器用に跳ね、ときに滑走して進む。
「コウさま。念のため釘を刺させてもらいますが、無理は禁物ですよ」
移動の最中、コウの耳にキキョウの忠言が届いた。
「ご自分で仰った名目は、慣らし。実戦の勘を忘れないための定期参戦です。無粋な不満を口に出す気はありませんが……どうか、ご自愛くださいね?」
「分かってるさ。俺って、そこまで信用ない?」
コウが芝居がかった仕草で、残念そうにため息を吐く。
すると、キキョウ以外の部下が一斉に反応した。
「あるわけねーでしょーが……」「今回のような無料働き中は特にね」「つーか信用云々以前の問題だろ。コウ団長怪我人だしさ」「今からでも遅くないわ。キキョウの護衛で見学してたらどう?」
一同は隻腕隻眼の団長を除いて、いずれ劣らぬ一騎当千の猛者である。言い分も正論だ。
戦力として著しく劣る身では反論し難く、コウは押し黙る他なかった。
代わって、キキョウが茶目っ気たっぷりの含み笑いで応じた。
「雨の中、コウさまと二人きりで一献……中々風情がありそうですね!」
「……今、俺とキキョウの間に深い溝が生じたぞ」
血生臭い殺し合いが肴の酒盛りに、風情もへったくれもあるものか。
「ご不満と仰るなら酒盛り以外でも。……ふふっ。どうせなら少しハメを外しちゃいましょうかね。いーっぱいご奉仕しちゃいますよ……? そーれーとーもー……コウさまがあたしを可愛がってくれます?」
キキョウがコウと並走しつつ、器用に胸元の谷間を強調して見せた。
「ねえ、コウさまぁ……」
露骨な流し目を送る大胆不敵な少女の誘惑。
しかし、コウは小揺るぎもしない。
「残念。身内には軽い気持ちで手を出さない。そう決めてるんだ」
「相変わらず妙なところで律儀ですねー。重い気持ちで手を出してくれても、あたしは一向に構いませんが。……と言うか、むしろ望むとこなのですが」
コウのすげない態度に、キキョウが口を尖らせる。
ただし、言葉面に反して表情に落胆の色はない。コウと付き合いの長い彼女は確信を懐いていた。自分は仲間としても異性としても、大切に想われている――と。
そして、それはコウも同じこと。自分を想う腹心の本音を正確に理解し、真摯に本音で応じた。
「心配かけてごめん。でも、今代《オウマ》団長として、左腕の後継者として、高みの見物が許される場面じゃないんだ。もちろん簡単に命を賭す気はないぞ。お前たちの足を引っ張る気もない。悪いが、俺の我侭に付き合ってくれ」
「……本当に律儀ですね」
サキョウのみならず、他の四人も苦笑を噛み殺す。
一同は報酬ありきの傭兵稼業を生業とする身。しかし、歳若い団長の珍しい我侭で危険を買うことに、なんの不満も懐いていなかった。
数分後、目的地に辿り着いた。
崖のように突き出た高台の側面だ。生い茂る枝葉の影で、しかも風下。潜伏場所としては最適だろう。発見される心配はない。
地上の開けた空間には五人の姿が。うち二名は《メルザ》を装着している。
――地形や敵の陣容に事前情報との差異なし。
コウは呼吸を整え、最後の打ち合わせを行った。
「目的は子供の保護と敵の殲滅だ。くれぐれも闘う相手を間違えるなよ」
部下が返事の代わりに得物を握り、素早く周囲に散開した。コウも柄尻を鎖で繋いだナイフを持ち出す。
徐々に近付く子供を囮に、敵集団の隙を突く――ナイフを掲げて期を見計らうコウ。その眼下で、子供が手綱を強く引っ張り馬を停止させた。
(こんな暴風雨の中で、もう待ち伏せに気付いたのか!?)
信じ難いくらいに早い。
この瞬間、コウの目論見は破綻した。