0のクリスマスへ
言葉にしなくても思いが変わらないように、何も無くても、そこに何かがあるように。
窓の外で雪がちらつき始めた。
ぐっと気温が下がって景色が曇る。病室は今日も暖かかった。どこもかしこも白色ばかりだと精神が落ち着かないからと、ベッドで眠る彼の母親が小さな黄色の花を花瓶にさしていったのはもう一週間前のこと。元々足に障害があるらしい母親は、雪の降るようになるとここへは来れない。彼は本当に孤独になるのだ。あの萎れかけの花も、そろそろ雪が降るからとせめてもの慰めにさしていったのかも知れないけれど、看護師がこまめに水を替えても寿命を迎えようとしているそれは既に寂しさに追い打ちをかけていた。
私は、ベッドのそばにある椅子に座っている。
見舞い客はもう来ない。彼には母親しかいないようだから。父親や兄弟、親戚が見舞いに来たのを見たことはなかった。
ベッドの中で彼が小さく呻いた。苦しいのだろうか、私には分からない。こうやって見ていることしか出来ない私に意味なんてないのかもしれないのに、どうしてか気付くとここにいる。
「マリちゃん、またお見舞い?」
そうっと扉を開けて入ってきた看護師さんが微笑む。私は何を言ったらいいかも分からずに曖昧に笑って頷いた。
お見舞い。
お見舞いっていうのは変な表現だ。彼も病人なら私も病人で、お見舞いは本来健康な人がするものだろう。どこに行くにも点滴を連れて歩く入院着の私がお見舞いだなんて、おこがましい。
「いつも熱心ねえ。栄太くんも喜んでるのよ、お陰で楽しいって」
「……そうですか、それならいいんですけど」
迷惑がってないですかと口にしようとして、結局言えなかった。答えを聞くのが怖い。聞くなら明日でもできる。どうせ明日だって長い長い一日なのだろうから。
看護師さんは昼食の準備をしに来ていた。廊下に置いた銀色の大きなワゴンみたいなものから、お盆に載せたそれなりに豪華な昼食を運んでくる。きっと美味しいのだろうけれど、私はそれを無感動に眺めていた。何も感じない。私から食欲というものが消えて久しいのだ。
「栄太くん、そろそろ起きてもらわなきゃね」
「あ、じゃあこれで」
「あんまり急いじゃダメよ」
弾かれたように立ち上がった私に釘を刺して、看護師さんはまた昼食の準備を再開した。彼が目を覚ます前に、私は病室に帰らなければならない。
ぼんやりと窓の外を眺めている間、雪はやまない。
あれは冷たいのだろうか。
触るとどんな感じがするのだろうか。
ちゃんと覚えていたはずのことが、今では夢の中の出来事みたいにはっきりしない。今の私は生きているけれど、とっくの昔に死んでしまっているのかも知れなかった。何不自由なく病気もせずに生きてきた14年間より、この白い棺桶みたいな建物の中でチューブによって生かされている4年間の方が、私にとっての現実なのだ。
病室の壁に掛けられたカレンダーを見ると、今日は12月24日。クリスマス・イヴだ。だからどうということもないけれど。彼の部屋には枯れかけても花があるのに、私の部屋にはカレンダーがある。その事実のほうが気になって仕方がなかった。数字の上だけの一年間。数字の上だけの今日と明日。本当に、彼と私じゃ何もかも違うんだと言われているようで落ち着かない。
ふっと顔を上げて点滴を見る。まだまだ取り替えには時間があるらしい。
私は立ち上がって病室を出た。御膳を下げて食後の薬を投与するのに忙しい看護師さんをするりと避けて、騒がしい廊下をゆっくりと歩きだした。からからと、すぐ隣を点滴が移動する。
向かったのはちょっとした休憩スペースだった。幾つかのテーブルと椅子、買う人がいるのか分からないけど、3つ並んだ自動販売機は今日も低く唸っている。壁と殆どが窓に取られているってくらい大きな窓から、病院の敷地が見える。その向こうに道路があって、信号が青に変わった。車の往来が再開する。エンジンの音を想像しようとしたけれど、案の定うまく行かなかった。
昼が過ぎると、私は大抵ここでぼうっと時間を過ごす。眠るのには大分前に飽きていた。慢性的な倦怠感と具合の悪さには慣れっこになっているから、取り立てて問題もない。
でも、私はそっと耳を澄ましていた。
待っていた。
からからと、点滴とともに歩く音。掠れたスリッパの音。急ぐわけでも、わざとゆっくり歩くわけでもなくただ独特の歩調で。
「いつも思うけど、ここは一番寒いよね」
彼が私の隣に立った。音もなくはっと息を吸い込んで、吐く。安心感と緊張感が一緒になって胸が詰まる。
「風邪でも引きそうだよ」
上手い冗談だと思った。
「マリさん、寒くない?」
「私は大丈夫」
そう、と言って私の座る窓の方を向いたソファに腰掛けた。チューブが足に引っかからないように気を付けながら、慣れたように。
「窓が大きいからね、寒いよ。栄太くん、風邪引くよ」
「それはマリさんも同じでしょ」
「そうだけど」
だけど、と言ったものの次の言葉が浮かんでこない。言いたいことはあるのに口にするのは恥ずかしかった。だから、まるでその先に何も言う予定などなかったかのような沈黙を作って、心の奥に居心地の悪さを押し込めながら知らん顔をする。そう、小さい頃よくやったかくれんぼみたいだ。近くを鬼が通るとき、息をするのも押し殺して、通り過ぎてくれるのをじっと待っていた感覚。
気づいて欲しいけど、気づかれるのは怖い。
私の沈黙はそんな意味を孕む。
隣で小さく息を吐いた彼はひょろりと痩せていた。丸まった背中が骨張っていて、病状が少し心配になる。
自動販売機が五月蝿い。
「それなのに、いつもここにいるのはどうして?」
「どうしてだろ、私もよく分かんないんだ。なんとなくっていうか、なんていうか」
嘘をついた。
また、嘘をついた。
よく分からないとかなんとなくとか、そんなのは嘘だ。私には余るほどの時間がある。やることも無くただ考え事をするくらいしか消費方法のない時間が山ほど与えられているのだ。自分の言動の理由を探すのは格好の暇つぶしで、大抵の理由は答えられる。もちろん例外はあるけれど、元々考えるのが好きな性格のおかげで、自分のことは嫌になるほど把握できていた。
「そっか。まあ、外が見やすいしね」
「うん、そうだね」
助け舟に飛びつくように同意して、笑った。
「マリさん、なんで笑ってんの?」
「なんでかな。楽しいからかな、なんとなく」
「なんだかいつも楽しそうだよね。お陰で僕も楽しい」
「それは良かった」
何も考えずにぽんぽんと言葉を返す。私の慣れ親しんだ言葉を彼にも向けていることに罪悪感を感じた。
私がここに来るのは君が来るからだし、その為に何時間だって寒い中で待っている。身体を襲う怠さも、見たくもない景色を見て感じる寂しさも置いておいて、何時間だって待っているのだ。
私はそういう人。
そういう人間だ。
「僕らには行く場所もないからね、外の景色を見るのは確かに飽きないな。よく見ると毎日違う。それって、すごいよね。だって毎日違うことが起こってるんだ」
うん、ほんとに。
不思議だよねと溜息をつく。
そんなことすら不思議に思えてしまう私達は、やっぱり外の景色なんか見るもんじゃないと思う。
「マリさん?」
「ん?」
「マリさんはここを出られるの?」
いつも落ち着いていて、栄太くんはみんなに優しい。でも、流石に少しだけ声が震えていたような気がする。
誰だって怖いよね。
私だって怖いよ。
えへへ、と意味もなく笑った。その間にこっそりと呼吸を整える。
「んー、私は無理かな。出られないと思うよ、多分、一生」
「……そうなんだ。ごめんね」
「栄太くんは?」
答えなんて聞かなくていいのに、私はかなりの確率で自虐に走る。
「僕は、分からないんだ。分からないくらいしばらくは無理だよ」
「……ごめんね」
「なんで謝るの?マリさんは悪くないじゃん」
「いや、悪いよ。悪いって思ったの、なんとなく」
私が悪い。彼に、私を慰めるようなことを言わせてしまったから。でも、それを言ったらまた気を遣わせてしまうだろう。
だからまた、なんとなくで逃げる。
困ったように私を見ていた彼は、やがてまた窓の外に視線を向けた。雪は振りやまない。寒くなってきたねと笑って立ち上がった。
「ん、帰るの?」
「うん、マリさんも戻ったほうがいいよ、風邪引いたら大変だ。僕らの場合、死んじゃいそうだしね」
からからと屈託なく笑って冗談を言うと、彼はすぐに点滴を連れて歩き去ってしまった。
暖かくして寝なよ、のその一言を言いそびれた。大したことじゃないはずなのに、小さな失敗がやけに気にかかる。
スリッパを脱いでソファの上で膝を抱える。
やっぱり、駄目だ。
担当の看護師さんとも上手く話せないくせに、栄太くんが相手ならなおさらだ。大して意味のないことしか言えない私との会話を、どうして楽しいと思ってもらえるだろう?毎日ここに来る私と、少し後に同じくここに来る栄太くん。話をしに来てくれているのかと自惚れて抱いてしまう淡い希望が、自分で心底憎たらしかった。
もし私がいると分かって来てくれているのなら、それは多分同情だ。
一人でいる私への同情。
あるいは、少ない仲間だからという意識。この病棟には病状がかんばしい患者はいない。老人が圧倒的多数を占めているから、私達みたいな人はますます孤立する。それにしたって、もし私が私じゃなくてもっと明るく楽しい人間だったら、彼はそっちの方がいいと言うだろう。
少なくとも、好意なんかではないのだ。
好意では。
「……寒い」
膝を抱えても、暖かくなんてならない。
赤と緑の折り紙で作った飾りが、壁のいたる所に貼り付けられている。同じ色の風船も。
主に見舞いに来た家族が使う広いスペースがあって椅子やテーブル、テレビがあるのだけれど、珍しくその殆どが人で埋まっていた。テレビがある前の方には子どもたちが、後方にはベッドから起き上がれる老人が固まっている。車椅子を慎重に避け、極力目立たない隅の椅子に座った。
サンタの格好をした若い男性看護師が子どもたちにプレゼントを配っている。元気な子は袖を引っ張り、あるいは手にプレゼントを載せても反応しなかったり、この世界の子どもたちは外より様々だ。老人にも配っているところを見ると、お菓子か何かだろうか。
「マリちゃん」
とうとうサンタクロースが私のところにやってくる。
「出てくるの渋ったんだって?駄目だよみんなで楽しまなきゃ。担当の看護師さんが困ってたよ」
サンタクロースがにこにこ笑いながら説教をしてくる。
「近藤さんも、袖からシャツが見えてるので仕舞ったほうがいいですよ」
「うわっ、マジか」
「子どもたちにバレなくて良かったですね」
にっこり笑って応戦する。この看護師さんとはいつもこんなやり取りを繰り返している。
可愛くないなあとぶつくさ言いながらシャツを仕舞い、こほん、と咳払いをひとつ。
「はい、どうぞ」
私の手に小さな箱を乗せた。
赤い色の箱だった。金色のリボンがくっついていて、解かなくても開けられるタイプのそれ。思ったよりもしっかりしている。
「今年のクリスマスプレゼントだよ」
「中身はまた飴でしょう?」
「残念、今年はチョコレート。日持ちしないから早めに食べなよ。子どもたちにはこんなこと言う必要もないけど、君は放っておきそうだし」
せっかくなんだからねと釘を刺して、またサンタクロースに戻ってプレゼントの配布に勤しむ。看護師という職業も大変だ。こんな、みんながみんなして死の縁にいるようなところの担当なら、尚更。
ため息をついて箱を開ける。綺麗な箱の中には、金色や銀色にきらきら光る包み紙の丸いものがみっつ、よっつ。食べれなくはないけれど、やっぱり食欲なんて湧いてこない。
トナカイやサンタクロースに扮した職員が寸劇みたいなものをやっているのを視界の隅に捉えながら、私はそっと辺りを見回した。
劇が終わって、歌を歌って、ハンドベルの演奏が終わった。車椅子の老人から先に、ぞろぞろと病室に戻されていく。その興ざめな騒がしさに紛れるようにして立ち上がった。
栄太くんが、いない。
ふらふらといつもの窓辺に行く前に、栄太くんの病室を覗く。最悪の状況を予想していたけれど、幸いなことに中は静まり返っていた。医者も、看護師さんもいない。彼ははうずくまるように小さくなって目を閉じていた。
「……マリさん?」
いつものように落ち着いた声で呼ばれる。
「起きてたんだ。心配してたんだよ、クリスマス会にいなくて」
「朝は具合が悪くてね、大事をとっただけだよ。ありがとう」
それにしては真っ白な顔をしている。
でも、あえて触れずにベッドのすぐ横にある椅子に座った。
「クリスマス、どうだった?」
「いつも通りだよ。プレゼント配られて、職員の皆さんが出し物して、それだけ。今年はハンドベルだったんだ。サンタクロースは近藤さんでね」
「近藤さんがサンタクロースかあ。若すぎない?」
「それ思った。袖からシャツが出ててさ」
「あの人らしいね」
言いながら布団を少しだけ引っ張り上げる。
「寒い?暖房強くしようか?」
「僕は大丈夫だから。マリさん寒いなら、強くして」
私は断った。
肩に引っ掛けただけのカーディガンでも、そもそも暖かい病室では暑いくらいだから。
それからしばらくの間、私達は無言だった。言うことも思いつかず、かと言って苦にならない沈黙が支配している。もちろん話すことは好きだけれど、彼に話していいことが何なのかも掴めない。そういった理由も相まって、ますます私は何も言わなくなる。
「僕ね、あんまり良くないんだ」
黙っていたら、彼は何でもなさそうにそう言った。
「前からそりゃあ悪かったけど、今度からは普通の食事も難しいってさ。食べれなくなってきてるのは分かってたんだけど、ショックだよね」
「うん」
「まだ抗って経管にはしないけど、分かってるんだよ、いずれは何も食べれなくなる。そういう未来に近づいてるんだ」
羨ましい。
そう思ってしまった自分に心底イライラした。
何も口にせず、緩やかに死んでいくことを理想化していなかったと、私は果たして言えるのだろうか。
栄太くんは顔の半分を布団に隠して、目を開いて何かを見ている。
私は。
私は、前向きに生きたい。でも、そんな気持ちに前向きになれない何かを抱えている、汚さがある。
そんな私がどうして彼の側にいられるだろう。生きようとしている人間の側になんて。
「マリさん、それ、何?」
「あ、これはほら、配られたプレゼントだよ」
手にしていた赤い箱が目を引いたらしい。今の話の流れで持ち出すには、いささか気まずいものだけれど。
「綺麗な箱だね。中身は、お菓子かな」
「うん、チョコレートだよ」
「見せて」
言われるままに箱を開けた。ひょいと彼の手が布団から飛び出して箱に触れる。いきなりのことに驚いて、思わず手を引っ込めそうになってしまった。
「ああ、ごめん」
日に当たっていないせいで、真っ白な手。骨張った指が箱の表面を撫でている。どうすればいいのか分からなくなって、私はじっと俯いた。
「綺麗な箱だね」
箱の縁を撫でる彼の指が、時折私の手に触れる。その冷たさにいちいち苦しくなった。
「チョコレートか。行かなくて正解だったかな、クリスマス会。僕は食べれないし、プレゼントを貰っても仕方ないし」
私はただただじっと固まっている。何を言えばいいかも、どうすればいいのかも分からなかった。でも一つだけ、何かプレゼントを買いに行けない自分の体を初めて呪った。
「マリさん?どうしたの?急に黙って」
「いや、何でもないよ」
笑って嘘をつきながら、箱を繰り返し撫でるその指を掴んだ。壊れてしまわないように、できるだけ力を入れないように。
マリさん?と彼がまた訊く。どうしたのと。
私は今度は答えなかった。ただそっと、箱ごと彼の手を包んだ。温められるほどの力もない手だけれど、何か繋がりが欲しくて。
14歳、中学二年生の時は、地獄だった。
思い出したくない出来事が私に降り掛かった。当時の私は健康そのもので、体調を崩すといってもちょっとした風邪を引く程度、今ほど深刻な意味でもなかった。身体の調子といえば今の状況からは信じられないほどだったけれど、精神的な意味で言えば、あの時ほど酷いものはない。
まさに死の縁だったと言える。
何もかもが受け入れ難く、責任はあまりに重く、人の命を背負うにはあまりに弱かったあの時。いいや、いつになったって人の命を楽々と負えるような気にはならないけれど、あの時の状況は急速に私の精神を蝕んでいた。それは家庭の事情であり、人生観を揺るがす小さな出来事の集積であり、とにかく私は限界を迎えた。
私は死のうとした。
生きることを放棄しようとした。
そんな時、救いは急に、思ってもみない形で訪れた。私の身体が壊れ始めたのである。あんまり急なことだったから驚いていたけれど、せきを切ったように体調は悪化し、入院生活を強いられるようになった。もうどこにも行けず、外の世界を知ることは叶わない世界に閉じ込められた私の精神は、しがらみから解放されて皮肉にも健康的な状態を取り戻した。肉体と引き換えに、精神の安定を得たのである。
幸せだった。
逃げたことからの幸せ、もう苦しまなくてもいいという幸せ。
もう私は死のうとしなくていいという、幸せ。どうせ近いうちに死んでしまうのだから。
全てから逃げたようだった。残酷な神様が計らってくれたかのように見事に救済され、代わりに得たのは余りある思考の時間だった。
私はそもそも自分を徹底的に責める性格だから、その時間はただの拷問だったのだけれど……でもやっぱり、逃げたことは心地よかったのだ。
そうして、栄太くんに出会った。
私が入院して二年が過ぎた頃、彼は最悪の病状でやってきた。彼がやってきた時、すぐに死んでしまうのだろうと無感情に眺めていたのを覚えている。ここで生きていくためにはそうするしかなかった。感情移入をしてしまえば、また私の精神は蝕まれていく。死にかけることをスルーして、他人の死を日常茶飯事として処理をする病棟での生活ならではの方法で、若い新入りの彼から自分を遠ざけたのだ。本当は関わりたかったくせに。
でも彼は死ななかった。1年ほどかけてじっくりと生死をさまよった栄太くんは奇跡的に回復し、ベッドから起きて歩けるようになった。初めて話したのは数ヶ月前のことである。
彼は私とは違った。病気と戦い、生きようとする前向きな人間だった。自殺から逃げて病気に他殺されることを喜ぶ私とは、そもそも違う人間だったのである。
栄太くんは私より幾つか年上で、色んなことを知っていた。私は外の世界の色んなことを教えてもらって、代わりにここでの生活を教えた。話し方は丁寧だった。声はほんのりと優しかった。耳に馴染む声、と言えばいいのだろうか。聞くとほっとするような音。
気付くと話すことが楽しみになっていた。
そんなにしょっちゅう話ができるわけではないけれど、廊下ですれ違ったりする偶然を待つようになった。彼の病状は安定しないことが多く、時折お見舞いに行った。お見舞い……なんて、うん、やっぱりおこがましいけれど。彼が眠っている間にそっと病室を訪ねて、起きる前にそっと出ていくような、そんなお見舞いを繰り返した。
多分、私は栄太くんが好きなんだろう。
こんなところにいてまで恋愛だなんて、心底馬鹿馬鹿しいけれど。逃げてきた分際で何を言っているんだと言われそうだけど。
それでも好きになったものは仕方ない……と、思いたい。
もちろん告白なんてしないし、私みたいな人間にそんな資格はないと思っている。体調が良くて入院なんて考えてもいない頃から、私は決してそんなことをしてはいけないと思っていた人間だから。こんなろくでもない人が思いを告げても、相手を不幸にするだけなのだ。考えるだけで申し訳なくなる。
だから言わない。決して自分からは、極力そんな素振りを見せないように。
そっと包んだ彼の手が、わずかにぬくもりを取り戻す。
「マリさん?」
「私、一緒にいるから」
ほんの少しだけ目を見開いて、栄太くんは笑った。きっと、私が抱いているものなど一生伝わらない。それでもその笑顔は、通じたんじゃないかと錯覚させるには十分だった。たとえ一瞬の魔法でも、幸せだった。
なぜ、言葉にしないと思いは通じないのか。
私が彼に費やした時間は他の人より多い。そのことが私の答えなのに、通じないのが世の中だ。世界だ。自殺からすら逃げた分際で告白なんてできない汚れた人間だけれど、秘めておくぶんには誰も私を咎めないのだ。
彼はじっと箱を見て、不意に顔を曇らせた。
「マリさん、この箱、僕にくれるかな」
「え?」
「クリスマスプレゼント。何もないのも寂しいからさ、箱だけくれない?中身は貰えないけど……マリさん、ちゃんと食べなよ」
君は食べれるんだから。
そんな声が聞こえた気がした。
「でも、栄太くん、箱だけでいいの?何も入ってないよ」
「うん、入れられるものもない。でも、何か入れるよ。先に何かが入っていたら、大切なものほど入れられないだろ?」
私は箱からチョコレートを取り出してポケットに入れた。金色のリボンで飾られた空箱が、栄太くんの手に渡る。
「それじゃあ、何を入れようかな」
そう笑う。
そこには何も入っていないただの空箱なのに、彼が言うだけで宝箱に見えるのだから不思議だ。
「マリさん、折角だから何か入れてよ」
「わ、私?」
「うん。得意だろ、言葉とか見つけるの」
いたずらっぽく私を見つめる目が、きらきらと輝いている。本当に、サンタクロースを待つ子供みたいだ。
私が、彼の箱に入れる言葉。
私達の世界を込めて贈る言葉を、必死に探した。ここには何もない。そうっと近づくタイムリミットしか存在しない世界で、私は恋をしている。口には出せない想いを秘めて、生きている。
やっぱり好きだなんて言えないけれど。
私は思い出すことにした。まだ外を歩いていた頃を。まだ何も、諦めていなかった頃を。
その時に出会った、美しい詩を。
Matthew, Mark, Luke and John,
Bless the bed that I lie on.
Four corners to my bed,
Four angels round my head;
One to watch, and one to pray.
And two to bear my soul away.
願わくば私の思いが、あなたの眠りだけでも守りますように。
珊瑚のクリスマス企画に参加させていただきました!滑り込みです(*゜∀゜)
リア充きゃぴきゃぴな話にする予定だったのですが、主人公に自分を重ねたせいで鬱々としてしまいました。どうも、鬱々しいクリスマスをあなたに。
それでも折角の聖夜ということで、主人公の女の子の名前は聖母マリアから拝借してマリという名前に、そしてお話の最後には、ジョン・ラター氏作曲の『Five Childhood Lyrics』より、『Matthew, Mark, Luke and John』の美しい詩を使用させて頂きました。作者が出会った中で最も美しい宗教詩だと勝手に思っております。私は誇れるほど信心深くもなくまた不勉強でありますので、この詩が聖書からの抜粋だったかはたまたインスピレーションの種であったかは定かでなく申し訳ないところですが、あれです、とにかく詩とメロディーと相まってえもいわれぬ音楽です。興味のある方は是非どうぞ。心が一気に洗浄されるかと思います。ぐへへ。
鬱々しいクリスマスですが、多少の救いがあれば。
それにしても私は、言葉に出すのが苦手すぎますねえ(苦笑
ではまた!