第二話 目覚め
第二話
アグリオは目を覚まし、ベッドの上でゆっくりと上半身を起こした。
子どもらしく丸みを帯びた頬は、ほんのりと赤みを帯びている。
長く閉じられていた瞳はしっかりと開き、ケライツを見つめていた。
それは待ちわびていた瞬間――のはずだった。
無事に目を覚ましてくれるようにと、何度神に祈ったことか。
それなのに。
それなのに、ケライツは当惑し、少年を見つめたまま動けないでいた。
顔、声、姿――。アグリオのそれは、これまでと何一つ変わっていない。
だが、目の前にいる少年は、明らかに彼の知っているアグリオとは違っていた。
(何が――?)
具体的に、うまく言葉では表現しづらい。
だが、強いて言うならば口調が。表情が。
そして、今アグリオを包んでいる雰囲気の全てが、彼の知る幼いアグリオ八世ではなかった。
当のアグリオは、黙って突っ立ったままのケライツを気に留めるような風でもない。
ゆっくりとした仕草で髪をかきあげ、そして静かに口を開いた。
「これより、勝手に私の元へ人を近づけぬように。会う必要のある者は、私が指名します」
その声はそれほど大きくないのにも関わらず、耳にしっかりと響いた。
聞きなれたアグリオの声のはずなのに、同じ人物とは思えない声色で、ケライツには、ぴんと空気が張り詰めているように感じられた。
「良いですか?」
そう問われて、ケライツはようやくその言葉の意味を理解する。
アグリオの変化にばかり気をとられていて、彼が言っている言葉の内容が、すぐに頭に入ってこなかったのだ。
「それは……。公務がありますので、難しいかと……」
アグリオの雰囲気にのまれ、ケライツはつい丁寧な言葉で返した。
これまでは、アグリオを教皇という立場よりも、弟のような感覚で気安く接していたのだが、今のアグリオを前にしては、それができなかった。
すると、アグリオは片手を軽くあげ、畏まる彼にかざして目を細める。
「そう畏まらなくて結構。二人でいる時には、これまで通りであることを許します」
その目はどこか皮肉気な光を帯びていたので、言葉の内容よりもむしろ、ケライツはそんな彼の様子に少し肩の力が抜けた。
「……アグリオ様。誰にも会いたくないというのは、一体どういうことなのですか?」
ケライツの問いに、アグリオは小さく笑う。
「誰にも、とは言っていないでしょう? 会いたい者としか、会わないというだけのことです」
それは聞きようによっては、ただのわがままにも聞こえる。だが――。
(何かあるのに違いない)
瞬間的にケライツはそう思った。今のアグリオは、子供とは思えないような雰囲気をまとっている。ただのわがままでそんなことを言うようにも思えない。
「何か、理由があるのですか?」
ケライツは、アグリオの表情を窺うように尋ねる。
だが、アグリオは表情ひとつ変えることなく、さらりと驚くべき言葉を口にした。
「あの手すりには、細工が施されてありました。私があの手すりから落ちたのは、運が悪かったのでも、偶然だったのでもありません」
突然の言葉に、唖然とする。
そして、ケライツは当時の状況を必死に思い返した。
あの時――。
アグリオはいつものようにケライツから逃げ、教皇庁内を駆けまわっていた。
アグリオは階段を一気に駆け上がったが、そこでケライツが追いつき、間もなく手が届くところまで追い詰めた。そこでアグリオは手すりに乗り、その瞬間、手すりは壊れた……。
そこまで考えて、ケライツはハッとする。
(何故今まで思いが至らなかったのか――)
階段の手すりは木製だった。
それでも、アグリオほどの小さな子どもが乗った程度で壊れるような造りではない。
教皇庁内の造りは華美ではあるが、頑強でもある。
木材もいい物を使っているし、ちゃんとした職人が関わっているので、すぐに壊れるような代物は教皇庁内にはほとんどない。
ケライツが乗っても壊れることなどないだろう。
それぐらい手すりはしっかりしていたものだった。
その証拠に、これまでも幾度となくその手すりを、アグリオがすべり台のようにすべっていたのにも関わらず、壊れたことは一度もなかったではないか。
それがあの日に限って、アグリオが乗った瞬間に壊れたのだ。
(もっと注意深く見ておくべきだった。教皇庁内ならば安全だと、安心しきっていた……)
こんな幼い子供に敵はいない、教皇を害する者が教皇庁内に存在するはずがないと安易に考えていた。
(あの手すりはあのまま残っているだろうか?)
ケライツは自分のその考えをすぐに打ち消した。
新しいものに造りかえられているかどうかは分からないが、少なくとも危ない手すりは撤去されているだろう。
(教皇庁内の警護を担当する者にでも、現場の保護を頼んでおけばよかった……)
そう後悔したが、あの状況ではアグリオの命が最優先で、そこまで思いが至らなかった。
少なくとも、現場検証だけでもさせておけば……。
「アグリオ様。少しの間、退出させて頂いてよろしいでしょうか?」
よく調べれば、まだ何か証拠になるようなものが残っているかもしれない――、ケライツはそう考えると、すぐにでも現場に向かいたくなった。
だが、そんなケライツの考えを見越したかのように、アグリオは手で制する。
「待ちなさい。今から現場に行って調べたところで、有効なものなど出てこないでしょう。私がどれほどの時間眠っていたのかは定かではないですが――」
そこで言葉をきって、アグリオは窓の方に目をやる。
明るい日差しに、彼の瞳は透けて宝石のように輝く。
「証拠は間違いなく、隠蔽されているでしょう」
まだ見てもいないのに、それは妙に確信に満ちた言葉だった。
(やはり、あれは事故ではなく、殺意あってのことだというのか――? でも、それならば……)
「一体誰が、こんなことを?」
「それを調べるのが、貴方の仕事です。私が動けば、面倒なことになるでしょうから」
確かに。
教皇とはいえ、アグリオは幼すぎる。
今の内面がどうであるにしろ、五歳の子供がどんな正論を述べたところで、誰も相手にしてくれないだろう。
ケライツ自身も未だ若輩者扱いはされるものの、年齢の上でも、立場上でも、全く相手にされないということはない。
(それにしても……)
これが五歳児の発想だろうか?
確かに、アグリオは聡明な子供だった。
国語学、国文学、歴史地理、有職故実、神学、法学。
そのどれもが五歳の子供には難しいものだったが、それを教師たちが噛み砕いてアグリオに教え込んでいた。
付き添いのケライツから見ても、それは難しいものだったが、そんな内容でもアグリオは要点を掴み、教師の確認の質問にも笑顔で答えるような、そんな驚くべき頭脳を持ちあわせていた。
そんなアグリオを教師たちは、「猊下は頭がよろしゅうございます。一度教えたことは、よく覚えて理解されていますからね」などと、お世辞抜きで語るほどだ。
しかし、それはあくまでも「この年齢の子どもにしては」という意味で、だ。
今、目の前にいるアグリオはどうか?
頭が良い悪いだけの話ではない。彼の発想自体が、五歳児のものとは到底思えなかった。
そして、そんな話をする彼の冷静さと、肝の据わり具合は武人顔負けではないか。
(一体、アグリオ様はどうしてしまったのか……。頭を打った様子はなかったはずだが、実際にはどこかに衝撃を受けていたのだろうか? 頭の打ちどころが悪かったのか? いや、むしろ良かったのか……?)
ケライツは、その問いをアグリオにぶつけてみたくてたまらなかったが、今の彼に、それを尋ねるのは何故か恐ろしかった。
「ただ闇雲に動いても成果は得られないでしょう。ヒントを与えましょう」
「ヒント……ですか?」
アグリオは指を立て、まるで教師が幼子を教え諭すように話し始めた。
「まずは、私が亡きものになれば、喜ぶ者。確執がある者と言ってもいいでしょう。次に、私がいなくなることで利を得る者。――最後に、教皇庁内において証拠の隠蔽が図れるほど、力のある者」
これだけのヒントで、果たしてどれほどの人間に絞ることができるだろうか。
ケライツはぐるりと思いを巡らせたが、すぐには思い当たらなかった。
「質問はありますか?」
まるで授業を施されているような奇妙な感覚に陥りながら、ケライツは反射的に思ったことを口にする。
「――アグリオ様は、既に犯人をご存知なのではないですか?」
「ええ。私の推測では恐らく……」
やはり。
アグリオの頭の中には、具体的な人物が既に浮かんでいるのだ。
では一体、何のために探るのか?
「今のところ証拠はなく、これは状況から判断した私の推測にすぎません。ですから、貴方がそれを立証できるだけの材料を探してくるのです。証拠があれば、あの人への脅しにもなりますから」
「脅し……ですか?」
ケライツは顔がひきつりそうになりながら、オウム返しに応えてしまった。
それは五歳児の――あの、天衣無縫なアグリオの言葉とは思えなかったからだ。
「今のところ、私が使える駒といえばケライツ――、貴方だけのようです。五卿を出し抜くのにはもっと使える手札が必要になる。私が権力を握るためには、ね。脅しもその為の手段の一つにすぎません」
ケライツはアグリオのその言葉に、背筋が寒くなった。
今の教皇国の実権は、五卿が握っている。
アグリオはそれを自分の手に取り戻そうというのだ。
そんなことを五卿が知れば、アグリオの命は今度こそ危険にさらされる。
そして、そんな事実以上に――。
(これが本当に、あのアグリオなのか? 権力闘争にあえて身を置こうとする子どもが、どこの世界にいる?)
アグリオは未だ五歳なのだ。
教皇という立場にあるとはいえ、幼いただの子ども――。
そう考えるからこそ、五卿もアグリオを利用しているのだし、干渉してくることもないのだ。
(あの五卿を相手に……)
教皇の護衛という立場にあるケライツにとっても、五卿は遠い存在だ。
絶対的な権力を握る、敵うことのない相手。
逆らうことなど思いもせず、関わることすらないだろうと思っていた。
そんな権力の中枢にいる彼らと、アグリオは渡り合おうというのか――。
ケライツは空恐ろしい思いでアグリオをじっと見つめたが、アグリオは全く表情を変えない。
今のアグリオは、倒れる前と確実に違う。
(陽であったものが、凍えるような陰に変わったような感じ……)
困惑するケライツを余所に、アグリオは彼の背後にあるドアを見つめていた。
「もう言うことは言ったから、好きに出て行け」ということらしい。
ケライツはそんな空気を察し、アグリオに向かって一礼すると、部屋を出て行った。
部屋はしんと静まり返る。
一人部屋に残されたアグリオは、ケライツが出て行った扉の方をぼんやりと見た。
「さて……。あの者は使い物になるのかどうか、まずはお試しといったところですかね」
部屋の一角には、壁に大きな絵画が飾られていた。
初代教皇国、教皇アグリオ一世の肖像画。
アグリオはそれをじっと見つめた。
初代教皇アグリオ一世は、仲間の死をきっかけに、国を改革。
理想の世界を作ったと言われている。
だが、それは本当に彼自身の望みだったのか……。
彼は数々の奇妙な逸話も残しており、彼自身、悔いを残した複数の人間たちの魂をその身に宿していたなどという話もある。
「彼が本当に使えるのであれば、あなたの運用した資金を任せてもいいですね」
誰にともなく自嘲気味に呟いたアグリオは、自分の小さな手をもう一度見て、クスッと笑った。
「それにしても……。栄華を誇った我が世の春も、亡くなってしまえばそれまで。いずれは俗世に生きる者たちの執念に負けるというわけですね。ならば……」
ならば、今度は自分のしたいように自由に生きるとしよう――。
アグリオは声にならない声でそう呟き、その幼い容貌にそぐわない、皮肉気な笑みを浮かべた。