ピカレスク
わたしが愛をうたおうとすると、それは悲しみになった。そこで悲しみをうたおうとすると、それは愛になった――シューベルト
1
「文章ライターをやってみないか?」
要約すれば、そんな旨のコメントがブログに書かれていたのだ。
ぼくは個人ブログでほそぼそと小説を書いているしがない作家志望である。一年前にブログを設立して、以降、定期的に小説を上げてきている。連載・長編・短編といろいろな形式を試してきて、この一年で書いてきた作品数は八作程度だ。
自分ではまだまだ未熟者のつもりだった。未だに好きな小説家の文体に――というか西尾維新の文体に似ているし、力不足を感じる場面も多い。インターネット類語辞典・シソーラスを開いてないとまともに文章を書けないほど語彙にも乏しい。
これまで八作の小説を上げてきたが、特筆すべき事件はなにも起こらなかった。それどころかコメントすら、友達がくれたもの以外に一つもこなかった。
まだまだ駆け出しの作家志望だからしかたないか――と、常にそう言い聞かせて、ぼくは黙々と小説を書き続けてきた。
一年間、ずっと、駆け出しの作家志望だからしかたないかと書き続けてきた。
しかし。
「え……? うっそ……。ま、マジ?」
現在書いている連載小説の最新話をあげようと、ブログの管理画面を開いたときだった。
見慣れていたその管理画面に――新着コメントが来ていると表示されていたのだ。
……正直にいえばそれだけでもう事件といって差し支えなかった。今まで書いてきた小説が実は読まれて(黙々と上げるばかりだったからほんとうに読まれているのかどうかは常に疑問だった)いて、その小説に感想をくれる人が現れたというだけでぼくにとってはまさしく事件といえた。
しかし。
「え? え? え……? うそ、なになになに?」
書かれたコメントの内容がうまく頭に入らず、二度三度と読み直す。
今起きた事態に対応できない。
何度も何度も読み返して、徐々にやっと理解していく。
つまり。
そういうことだ。
――文章ライターをやってみないか?
書かれていたコメントが、某社からの勧誘だということを、ぼくはようやく理解した。
「……っ」
ぼくは固唾を呑む。
そうして思う。
――詐欺ではないだろうか?
ぼくは第一にそう思った。ありえないと思ったのだ。たった一年書いてきた程度で商業から声をかけられるだなんて、そんなうまい話があるものだろうか。たとえあったとしても、こんなぼくにそんな話が舞い込んでくるものだろうか。そんなふうに疑うことしかできなかった。
だがその疑いは、いまだもって事態をよく呑み込めていないがゆえの対応だった。ぼくには、未知のことがらに出会うとまずは疑ってかかる癖がある。騙されるものか、という気持ちがふつうの人よりも強い人間なのである。
ぼくはどうしていいのかわからなかった。
だから、
「あ、姉貴、ちょっと」
と、ソファで寝転がっている姉に助けを求めた。
眠たげな目で携帯をいじっている姉は、「何」といいたげな顔をしてぼくに視線を移す。
いつも同じリビングにいるのに別々なことをしているぼくと姉だが、今回は事態が違う。
ぼくは、テーブルのほうへ来るよう手招きしながら言う。
「ちょ、ちょっと来て。大変、大変なことが起きた」
ぼくの焦り具合から何かを感じ取ってくれたのか、ものぐさな姉もこの時ばかりは起き上がって来てくれた。
ぼくはパソコンの画面を姉に見せる。
「こ、これ。ちょっと読んで」
「なに、どしたん?」
「いいから読んで」
「……?」
姉はなにも言わず、書かれたコメントを黙読する。
読み終わっただろうと見受けられるようになると、ぼくは事情を説明しだした。
「あの、ぼくがブログで小説を書いてるってことは前にも話したことがあるじゃん」
「うん」
「で、今日見てみたらそのコメントが書かれてて……」
「ふーん」
姉は神妙そうにパソコンを見る。
なにかを勘案しているような姿だった。
ぼくは言う。
「ど、ど、どどうしよう。こんな……、うわ……、あはっ」
ぼくはどうしたらいいのかわからなくなって、なぜか笑ってしまった。
いや内心では嬉しかったのだろう。だから笑いがこぼれたのだ。
目の前の事態を理解して、きちんとぼくは嬉しがっていたのだ――疑ってかかるといっても、信じてみたいという気持ちだってないわけではない。そして今回の場合、信じてみたいという気持ちのほうが断然強かったのだ。
疑うのは、信じたいからだ。
ぼくは言う。
「や、やば! えー! どうしよう!? ぼくまだ17なのに……も、もしかしてプロになっちゃうの!? うっは!」
そうして一度姉に見せると、もはや詐欺ではないだろうと確信してしまうぼくだった。
またふだんはあまり笑わない、どころか感情を表に出すことさえすくないぼくだったが、このときばかりは嬉しい気持ちを止めることができなかった。
笑みを隠すことができない。
感情に乏しいぼくでさえも感情がこぼれてしまう。
それほどまでに嬉しかった。
姉は言う。
「よかったね」
姉は対照的に、なんというかドライだった。
姉は嬉しくないのだろうか? 身内にプロの作家ができるかもしれないという事態に直面しているのに、どうしてそんなにも冷静なのだろう。……自分とは関係のない話だと思っているのだろうか。だとしたらすこし冷たい。
ぼくは言う。
「うん! だってこれ……お金発生するんだよ!? 5000円程度だけど、お金もらえるって……マジでプロじゃん!?」
コメントの内容には、業務内容と報酬料が書かれてある。
■
お客様が作成したキャラクターを登場させた4000文字程度の小説を執筆する。
報酬は平均4500円。人気があれば最大1500円のサービスが支給される。
■
そうである。たった4000文字書くことで、最大6000円もの報酬をもらえるのである。アルバイトができない身分のぼくにとって、これはかなりでかい金額だ。
ぼくは言う。
「でもこれ、どうなんだ? 『お客様が作成したキャラクター』を使うって……そんなことしたことないんだけど」
ただし執筆する小説には一つ条件があって、その条件とは『お客様が作成したキャラクター』を登場させることだと書かれてある。
お客様が作成したキャラクター。
これがどういうことなのかというと、ぼく自身もいまいちよく理解できていないのだが――まず某社はwebゲームを運営しているのである。そのwebゲームとは、いわゆるオンラインゲームのようなものと理解していい(厳密にいうとオンラインゲームではなくPBWである。PBWとは、かんたんにいえばオンラインでおこなうTRPGみたいなものだ)。
webゲームを遊ぶユーザーは、自分のキャラクターを作って、そのキャラクターを使い敵キャラを倒したり他ユーザーと交流したりする。
ぼくに課せられる業務というのは、この『ユーザーが敵キャラを倒したり他ユーザーと交流したりする』という部分を、小説に仕上げることなのだという。
ユーザーの記録を元にして、それを小説にする。要するにTRPGにおけるリプレイみたいなものである。
ちなみに某社は、このリプレイを小説にまとめる人のことを『マスター』と名付けているらしい――ぼくがなるのは、この『マスター』である。
この条件のもとで4000文字程度の小説を執筆する必要がある――これがぼくに課せられる業務内容。
そしてなにより。
「それに……、『試験』かぁ……」
ぼくは某社から勧誘のコメントを受け取った――だがそれは無条件でプロになれるという甘い話ではない。
あくまでもコメントの内容は、勧誘だ。
某社は、その人がライター業をするにふさわしいかどうかを見極める『試験』をおこなっているらしい。コメントによると定期的におこなっているらしく、ホームページに小説を投稿するという形でその『試験』を受けられるとのことだ。
某社でライター業をするためには、この『試験』をクリアしなければならない。
ライターになるには、『試験』をクリアする。
この『試験』を突破できるかどうかが、ぼくに立ちはだかる関門だった。突破できなければ報酬もなにもあったものではない。……いやお金にそれほど執着があるわけではないのだけど。
ぼくはプロになりたい。ただそれだけだ。
不安はある。自分の小説をブログ以外に持ち込むことなんて、ぼくには初めての試みだ。今までずっとブログで小説を上げていた。そんな井の中の蛙がはたして合格できるだろうかどうか。
合格すればライターになれる。不合格であればライターにはなれない。
待ち受ける結果はその二択のみ。
だけどぼくは作家志望だ。ライターという形であれど、プロになれるチャンスが来たらそれを存分に活かしてやりたい。ほんものの作家になりたい。
それに不安はあるものの、自信だってある。
なぜなら、受け取ったコメントにはこう書かれていたからだ。
■
弊社では、「お客様から推薦を受けた場合」や「web上で良い作品に出会った場合」に、今回のような案内メールを送付しております。
今回は、実際に○○様の文章を拝見し、ぜひ弊社でもそのお力を奮って戴きたく思い、メールさせて戴きました。
■
文章の中にメールと書かれているが、それは、ブログに書かれたコメントは登録用のメールアドレスにも同時送信されるという仕様があるからだ。そこを配慮した上で某社はメールという表現を使ったのだろう。
いやそんなどうでもいい注釈ではなく。
そうだ。
ぼくは期待されているのだ。
今まで一年ほど小説を上げ続けていたが、某社はそれを読んでくれて、しかもそれを評価してくれたのだ。
ぼくの作品を価値あるものだと言ってくれた。
『試験』を与える側が期待しているといっているのだ、なればこそ、きっとできるだろうという自信もつく。
ぼくならきっとできる。
ぼくならきっとライターになれる。
ライターになれるのだったら……これはもう。
「なるしかないだろ……。よし、やるぞ」
ぼくはやる気になった。
――試験を受けることを、ぼくは決意した。
「まあ、頑張って」
姉は素っ気なかった。
2
それから急いで某社のホームページにいって、試験を受けるためのあれこれ(アカウントを取ったり、ゲームの概要を調べたり)を済ませた後、ぼくは『試験』を受けることと相成った。
試験のルールを要約すると、以下の通りだった。
■
イ 決められた7人のキャラクターを登場させる。
6人の主人公(webゲームにおけるユーザーキャラ)。
1人の悪役(webゲームにおけるCPUキャラ)。
ロ ストーリーは、『6人の主人公が1人の悪役を倒す』にする。
それ以外の展開(悪役が勝つなど)は認められない。
ハ 決められた規定以内に収める。
文章は4000文字前後。
章立ては四章構成。
■
試験のルールを一通り頭に入れて、ぼくは思った。
なるほど。
つまり『読者を気持ちよくさせる文章』を書けばいいわけか。
なかなか難しい注文だ。
「むぅ……」
パソコンに釘付けになりながら、ぼくは考える。
ぼくが今まで書いてきた小説は、すべて自分のために書いてきた小説だった。誰かに書けといわれて書いてきたものは一つもない。ぼく自身が書きたいと思ったものしか書いてこなかった。
それゆえ今回のような『人のため』を念頭に置いた小説というのは、初めて書くこととなる。
読者の気持ちを視野に入れなければならない――そしてそれを満足させなければならない。
これはぼくにとっては難しいことだぞ。
「んー」
ぼくは後頭部をぽりぽりとかく。
悩んでいても仕方がないだろう。まだルールを読み込んだ段階でどうかこうかと考えていても時間を無駄にするだけだ。
それよりも気になるのは、キャラクターについてである。
6人の主人公(ユーザーキャラ)。
1人の悪役(CPUキャラ)。
この7人のキャラクターを登場させて書くわけだが……、まずぼくがしなければならないのは、この7人のキャラクター像を掴むところからだった。
『試験』ページの下部を見てみると、この7人のプロフィールが書かれてある。
この内、主人公側のキャラクターはユーザー自身が作ったプロフィールである。ユーザーは自分のキャラクターを作って、そのキャラクターのプロフィールまで作るのだ。ライターはこのプロフィールを参考にして、小説に登場させるためのキャラクター像を練り上げる――今回の場合は『試験』ということで運営側が作ったサンプルだが。
以下、主人公キャラクター6人のプロフィール。
■
鷺宮誉――女子。高校生。殺人鬼。
戦うことがとにかく大好き。
鞠小路あんな――女子。中学生。ストリートファイター。
敵を嬲ることに優越感を覚える。
西臣早霧――女子。高校生。神薙使い。
冷静に戦って堅実に勝利する。
高峰如月――男子寄りの半陰陽。高校生。ダンピール。
傍迷惑な野郎は俺が潰す。
北条環――男子。中学生。エクソシスト。
状況分析と後方支援を担当する頭脳派サポーター。
木嶋桜子――女子。中学生。ご当地ヒーロー。
明るく元気な大剣使い。
■
以上がユーザーキャラクター6人のプロフィールである。
ちょっと訳のわからない設定もちらほらと見受けられるのだが――今回『試験』を受けるゲームのジャンルをいうと、いわゆる学園異能バトルに属されるように思われる。大声ではいえないが、パッと見、禁書みたいな感じだ。
ユーザーは、その世界像に合ったキャラクターを作ってくる。
そのキャラクターを使って、ゲームをプレイする。
ぼくはそのリプレイを小説にまとめる。
今回のサンプルキャラクターのようなものたちが、実際にどんどん出てくる。
「…………」
まあいろいろと思うところはあるのだが、まず真っ先にツッコみたいところはといえば。
なんというか。
なんというか……。
「名前! 読みづらっ!」
どれもこれも珍妙な名前ばかりで、一度や二度見た程度では決して覚えられそうにない名前ばかりだった。
覚えさせる気ないだろ、これ。
こういう名前あんまり好きじゃないんだよなぁ。
「…………」
なんだか煮え切らない感情を抱いてしまったが――いやいや、反感を覚えていたってしかたがない。
これはお客様なのだ。今回は『試験』だから運営が作ったキャラクターたちだけど、ぼくがライターになったらこんな感じのお客様を喜ばせるわけなのだ。
そうだ、反感を抱いていてはいけない。
たとえ名前が読みづらくても。
たとえプロフィールが痛々しくても。
たとえキャラ設定がどこかで見たようなものの寄せ集めに思えても。
それらに反感を抱いたり、否定したり、ましてや笑ったり引いたりなんかはぜったいにしてはいけないのだ。
大事な大事なお客様なのだ。
受け容れなければ。
「しかしこれ……きっつ……」
ぼくは頭を抱えた。
目の前にある中二病の塊的なプロフィールに気圧されて、ぼくのメンタルはふらふらになってしまったのだった。
ぼくはどちらかというと高二病気質な人間なので、あからさますぎるほどの中二病を見せ付けられると拒絶反応が出てしまうのである。
世間で流行っているものになんかそうそう飛びつけない。
王道ものとか、ちょっと見るだけで全身がぞわぞわとする。
マイノリティーな気分がちょうどいい。
そんな感じのぼくだから、今まで書いてきた小説のなかには王道ものなんて一作もなかったし、近いうちに王道ものを書くという予定だってまったくない。
キャラクターだって、ステレオタイプのキャラクターはまったくといっていいほど登場させずに書いてきた。みんながみんな自分の哲学を持っているという活きたキャラクターばかりを書いてきたつもりだ。
そんなぼくがだ。
こんなステレオタイプのキャラクターを使ってだ。
『6人の主人公が1人の悪役を倒す』という王道ストーリーを書くというのだ。
…………。
「いや……」
……無理じゃろ。
だって、おかしいじゃないか。
今までベースばかりやってきたのにいきなりギターを手渡されて、弾いてみて? と期待を押し付けられたかのような感覚だ。
無理なんだって。
ジャンルが違うんだって。
「えー……? こんなん……」
ぼくは再びプロフィールを見る。
うわ。
痛い。
目に、なんか、刺さる感じの痛みが。
いたたたた。
「はぁー……」
ぼくは溜息を吐いた。
書きたくねぇぇ……。
どうしてぼくがこんなどこにでもあるようなありきたりでありふれたあほみたいにあかるいありがちな物語を書かなければならないのだ。
ぼくが一番苦手としているものじゃないか、王道なんて。
ほんと、もう、勘弁してくれよ。
「……むぅ」
額に手をやる。
そうしてぼくは考えた。
……泣き言はいっちゃいけないな。
どうせいつかはこういう王道を書くことになるのだ。邪道ばかり書いているぼくだけど、未来永劫このスタイルを貫き通すわけではないだろう。そのことは邪道街道まっしぐらな今のぼくにも十分わかっているところである。
書きたいものだけを書いていても、商業的には成功できない。
邪道にいるのが心地よくても、いつかは王道を行かなければならない。
プロになるために、ぼくはそのことを頭に叩き込んでいる。
結局、書くしかないのだろう。
そうさ。
「……うん」
思っていたよりも、それが来るのが早かっただけだ。
王道へ行くきっかけが、思いのほか早かっただけだ。
どちらにせよ王道を行かなければらならない――ならば、今、ためらう理由なんてない。
ワガママを言っていたって、ライターの都合でキャラクターを改変できるはずがない。
お客様に楽しんでいただく。それを第一に考える。そんな社畜のような気持ちで書かなければぜったいにならないのだ。
プロになるには、ワガママを言っちゃいけないのだ。
自分を殺せ。
自殺。
「やれやれ」
ぼくはそう嘯いて、今度は悪役のプロフィールを見てみた。
悪役のプロフィール。これは元から運営側が作ったキャラクター、いわゆるCPUキャラクターなのでユーザーが作り上げたわけではない。実際の場合でもユーザー無しのキャラクターである。
■
不動虎鉄――男子。高校生。不良。
強い相手と戦いたい。
■
この不動虎鉄というキャラクターには、ちょっとしたストーリーが付け加えられている。あらすじ程度のものだが、不動虎鉄がどんなキャラクターかを知るためには十分な内容が詰まっている。
これはライターが着想を得やすくするために運営が用意してくれたものだろう。おそらく『試験』のみの措置ではなく、実際の場合においてもこのようなストーリーは用意されているものと思われる。
不動虎鉄のストーリー。
かんたんに説明するとこんな感じだ――不動虎鉄は強い相手と戦いたい。戦えない毎日に嫌気がさして、ついに彼は罪のない一般人を殺し出した。一般人を殺せば、義憤に駆られた正義漢がやってくるだろう。そう目論んで駅前で大量殺人をおこなう――という話である。
まあ悪役らしい話ではある。
感心されるべき話ではない。
だがぼくにとっては――ちょっと好きなタイプの話だった。
共感できるというかなんというか。
もちろんぼくは人殺ししようだなんて微塵にも思わないけれども――いやちょっとくらいなら人殺ししてみたいとか思う日もたまにあるけれど決して実行に移すつもりはなくて、退屈な毎日に嫌気がさしているところや、それを打ち破るためにとんでもないことをしでかしたいという思いなんかはぼくの胸の内にもたしかにある。
正直に言えば、主人公の6人よりも不動虎鉄という悪役のほうがキャラクターとして好きなくらいだった。
主人公6人から邪険に思われているのもイイ。
すごくそそる。
「…………」
ふむ。
と、顎に手をやって、ぼくは一考する。
『読者を気持ちよくさせる文章』を書くためには――そうか。
――この悪役をめためたにぶちのめすストーリーを書けばいいというわけか。
悪役はユーザーのいないCPUキャラクターである。ということは、どんなにいじめても不満を持つ人はいない。この悪役を惨めに描けば、相対的にユーザーは優越感を味わえるという話になる。
この『試験』での鍵は、いかに『読者を気持ちよくさせる』かどうかにかかっている。
ぼくはそう読んだ。
「……参ったな」
おそらくぼくの読みは的を外していない。どころか本質を掴んでいるだろう。きっと『読者を気持ちよくさせる』ように書けば『試験』には合格できるのだ。そう確信できる。
だが参ったことに――ぼくはそういう『読者を気持ちよくさせる文章』を書いてこなかった男なのである。
いつだって自分が書きたいと思ったものだけを書いてきた。
読者のことを考えて書いた小説なんて一作もなかった。
「…………」
ぼくは頭の後ろで手を組んで、天井を仰ぐ。
どうしようか。
『読者を気持ちよくさせる文章』を書けばいいのはわかるが、ぼくにはそれが書けない。
なぜなら理論や構造がわかることと、実際にそれを構築することとは別の技術だからである。
料理のレシピを教えられても、なかなか見栄えのいい料理にはならないように。
言うは易く行うは難し。
理想と現実の食い違い。
そんな感じ。
どうしようか。
……どうしようかというか。
「んー……」
とはいえ、実を言うと、『読者を気持ちよくさせる文章』でなければ、もうストーリー事態は頭の中にできている。
時たまこういうことはあるのだが、いい素材に出会うと、書き出す前からストーリーの全容を発想することができるのだ。あとは文字に書き起こすだけ、その段階にまで着想することがあるのだ。
ただそれを書いていいものかどうか――という迷いがあった。
なぜならそれは。
「……虎鉄を主人公にしたいなぁー」
ぼくの思い描いたストーリーは。
不動虎鉄を主人公にして。
あの6人を敵役にするというストーリーだったからだ。
告白しよう。ぼくはこの7人のキャラクターの中で気に入ったのは不動虎徹だ。いやさらにいえば、不動虎徹以外の6人を受け容れることができなかった。
他の6人――主人公側の6人のキャラクターには、なんというのか、魅力を感じない。それはもしかすると汚点や欠点を隠しているように感じられるからかもしれないし、個性や優越感を得ようとして奇抜な設定を取り入れているように感じられるからかもしれない。
ぼくの好きなキャラクターには条件がある。
それは、悪いところを隠さないということだ。
悪いところ。恥ずかしいところ。ダメなところ。
人間なんて基本的に悪くて恥ずかしくてダメなものである。それらを感じさせない、というか隠しているキャラクターというのには、人間らしさが感じられない。
人間らしくないキャラクターなんて、書いていて楽しいわけがないだろう。
それがぼくの意見だ。
それがぼくの哲学だ。
「あーもう、なんだろうなぁ……」
すごくモヤモヤする。
書きたいと書かなければならないが、ぶつかる。
意欲と義務感で、二律背反だ。
どうしたものか。
どちらをとればいいのだろうか。
ふつうに考えれば、ぼくの書きたいをねじ伏せて、書かなければならないを取るべきなのだろうけれど……。
…………。
「…………」
ぼくはしばらく考えてみた。
考えてみた――というよりかは、もしかしたらぼくは、ただたんに言い訳を探しているだけなのかもしれない。どちらを取れば正解だろうか、と考えているフリをして、その実、書きたいを書くための大義名分を探しているだけなのかもしれない。
好きなことをしてもいいという理由が欲しい。
そうしてぼくは、ふと気付いた。
いや、思い出した。
大義名分を見付け出した。
「……あ、そうだ」
ぼくは思い出した。
今回の『試験』を受けることになった、そのきっかけを思い出したのだ。
そうだ。
あのメールにはこう書かれていたではないか。
■
弊社では、「お客様から推薦を受けた場合」や「web上で良い作品に出会った場合」に、今回のような案内メールを送付しております。
今回は、実際に○○様の文章を拝見し、ぜひ弊社でもそのお力を奮って戴きたく思い、メールさせて戴きました。
■
そう書かれていたではないか。
これがつまりどういう意味なのか――今のぼくにはとてもよく理解できた。
これは、つまり、ぼくのぼくらしさを認めてくれたということではないだろうか?
某社は、ぼくの小説を読んでくれた。その小説を気に入ってくれたから、勧誘のメールを送るに至った……ということではないだろうか?
それは、つまり、そういうことだ。
ぼくのぼくらしさを気に入ってくれたということだ。
「……だったら」
ぼくは、ぼくらしく書いていくべきじゃないか?
王道を行けず邪道を好むこのぼくを――ぼくは誇って、ぼくらしく書いてくべきなんじゃないのか?
そうだろう。
きっとそういうことなのだ。
王道なんて他の人が書けばいい。
邪道を書くのが、ぼくの仕事だ。
そんなふうに開き直ってもいい――否、むしろそうやって開き直ってくれることこそを某社は望んでいるのではないだろうか?
自分らしさを伸ばしていったほうが、いいのではないか。
某社には、そういう意図があるんじゃないか……?
「……そう、だよな」
ぼくの思いは徐々に固まっていく。
ぼくはぼくらしさこそを期待されている。
きっとそうだ。
こんなぼくを。
悪くて恥ずかしくてダメな人間ばかりを書いてきたぼくを期待してくれている。
そんな小説を期待してくれている。
「……よし」
大義名分は見付かった。
ゆえに方針は決まった。
ぼくはぼくらしく書いていこう。
ぼくだけは好きなように書いてやろう。
不動虎徹を主人公にした物語を書いてやろう。
大丈夫。主人公にするといっても、最終的にユーザーキャラが勝利を収めればいいのだ。そこさえ押さえていれば文句はないはずだ。
不動虎徹の視点で物語を描く――6人の敵キャラと戦って、強敵と戦うことに充実を見出し、思いのままにバトルする。最終的には負けてしまうが、それでも楽しい戦いだったと本心から笑う。
そんな物語を書いてやろう。
ぼくの書きたいものを書いてやろう。
正義の味方ばかりが主人公ではない。
悪くて恥ずかしくてダメなやつが主人公の物語があったっていい。
そんなピカレスクをぼくは――書こう。
ぼくの好きなものを――物語ろう。
「よっし」
ふん、とぼくは鼻息を荒くした。
そうしてデスクトップ画面で右クリックして、テキストドキュメントを新規作成した。
小説を書き出す。
ぼくのぼくらしい小説を、ぼくは書き出す。
3
二日三日程度でその小説は書けた。
もともと4000文字前後とすくない文字数だったので難しくはならないだろうと踏んでいた。素材もあったし、着想もあった。だから書いているときに苦労したのは、せいぜい推敲の段くらいだった――書いているうちにどんどん文字数が増えていくことは初心者を脱却したあたりでよく経験することだろう。文字数を増やすのはたやすいが、文字数を減らすのはあんがい難しいものなのである。
書き上げた小説は、満ち溢れる自信とともに投稿した――ライターになった暁には、今回書いた小説が某社のホームページに掲載されるという話になっている。ぼくの書いたこの小説が読者の目に届くのかもしれないと思うと……、どきどきしてしかたがない。
そして今日は――『試験』の結果発表日、その当日。
「ん……」
ぼくはリビングでニコニコ動画やらまとめサイトやらで時間を潰して、結果発表の時間をいまかいまかと待ち構えていた。
時計を見ると、あと五分ほど。
あと五分ほどで、結果発表のメールが来る。
そのことを意識すると、心が震えてしまう。
「ふー……」
ぼくは深く息を吐いて、自分を落ち着かせた。
ちらと横に目を移す。
姉はソファに座っていて、録画していた『VS嵐』を消化している。
テレビばかりを見ていて、ぼくのほうは見ようともしない。
「…………」
――もしライターになってしまったら、どうしようか。
すくなくとも姉には報告するだろう。親や友達には言うかわからないけど……、姉には報告すると思う。
そうしてぼくがライターになって、初の報酬をもらった暁には、姉になにかをプレゼントしてあげてもいい。
なにをプレゼントされたら喜ぶのかいまいちわからないんだけど……、そうだなぁ、なんか、てきとうにブランドもののハンカチでもプレゼントしようか。
喜んでくれるかな。
喜んでくれたら嬉しいな。
「…………」
あぁ。
ヤバい。
手が震えている。
今までとはまったく違った人生を歩むかもしれない――その分かれ道に立たされていて、すこぶる緊張する。
というか不安だ。
自信とともに投稿したあの作品だが……、どうだろう、ほんとうにあの形にしてよかったのだろうか。
ふつうに主人公を主人公にして、悪役を悪役にするべきではなかっただろうか。
――いや。
そこに間違いはないはずだ。
不動虎徹を主人公にしたのだけは、間違いではないはずだ。
某社はぼくを評価した。
ぼくを評価したということは、そういうダーティなものを評価したということのはず。
ぼくはそんな小説しか書いてこなかった。
そんな小説を読んで、ぼくを評価してくれた。
それなのにぼくらしさを否定してきたら、それは某社のほうが悪い。
話が違うじゃないか――そう怒ったっていいくらいだ。
だからぼくが不安に思うべきは、文章の稚拙さとか、ストーリーの粗さとか、そういう僕自身もまだどう向上していいのかわからない部分のことだけ。
そしてそういうものは一朝一夕でどうこうなる問題ではない。自分で気付けない粗なんか、直せるわけがないのだ。
結局。
ぼくは――あの作品に全力を注いだということ。
あれでダメだったら、もうしかたがない。
あとは野となれ山となれ。
胸に抱くのは、投げやりにも似た諦め。
引き返すことはできない。
ただ結果を待つのみである――
「…………っ!」
来た。
時間だ。
ついに結果発表のときだ。
ぼくはF5を押す。
そして、
「あっ……」
一通のメールが届いた。
件名――『試験結果のご案内』。
ごくり、と唾を飲む。
ここに。
ここにぼくの運命がある。
「――っ!」
ぼくはメールを開いた。
結果を見る。
結果。
結果、
「うっ……」
ぼくは。
ぼくは……。
「え、えぇっと……」
ぼくは目を見開く。
メールの内容を読む。
隣にいる姉は気付かない。
テレビに夢中で、たじろぐぼくに気付かない。
だが。
ぼくの頭の中には、ある一つの言葉が響いていた。
頭を揺さぶられるような、その言葉。
「あ……」
――不合格。
「ふっ……」
――不合格だった。
「あ……。あぁ……。そっか……」
ぼくの書いた小説は、不合格だった。
残念ながら『試験』を合格することはできなかった。
「な、なんで……?」
ぼくは納得できなかった。
あそこまで全力を注いだのに、どうして不合格にされたのだろう。
ぼくのぼくらしさを前面に押し出して、書いた。
それなのに、どうして。
「…………」
メールには、個別講評も書かれていた。
個別講評。
つまりぼくの書いた小説のどこがいけなかったのかを教えてくれるわけだ。
ぼくは全力で書いた。ほんとうに全力で書いた。
それでもダメだった。
どこがダメだったのか?
それは、この個別講評こそが教えてくれた――
■
○○さんのリプレイは、虎鉄を主人公に据えた格好いいストーリーでした。
ただ、PBWにおける主人公は、あなたに報酬を支払ってくれる、お客様でなければいけません。なぜならお客様は、『自分のキャラクターが格好良く活躍するシーン』を望んでいるからです。
『それを引き立てるための格好いい敵の描写』は好まれますが、お客様のキャラクターを差し置いて、マスターのキャラクターが主人公になっている話を読んで、いい気持ちはしません。
リプレイはお客様のために執筆するものですから、お客様が楽しんでくれるように最善を尽くさなければいけません。
今回は残念ながら、このような結果となってしまいましたが、これはPBWへの誤解が大きな原因だと思いますので、まずはこういった点を理解していただき、その上で改めて、どのようなリプレイを書くのが最善か、工夫していっていただけたらと思います。
■
虎鉄を主人公に据えた格好いいストーリーでした。
ただ。
お客様のキャラクターを差し置いて、マスターのキャラクターが主人公になっている話を読んで、いい気持ちはしません。
と。
「く……くぅっ……」
書かれていたのだ。
ぼくは歯噛みする。
そうして呟く。
「――ふ、ふざけんなよっ……」
わかってるよ。
不動虎徹を主人公にしちゃいけないことくらいわかってるよ。
お客様を第一に考えなくちゃならないってことくらいちゃんとわかってるよ。
でも、だからこそ、ぼくはそれを書いたんじゃないか。
みんなが書かないだろうものにあなたは期待してくれた――だからぼくは、それを書いたんじゃないか。
それなのに。
それなのに――まさにそれこそがダメだって?
冗談じゃない。
ふざけるのも大概にしろ。
ならどうしてぼくに期待したっていうんだ。
どんなふうにぼくを見ていたっていうんだ。
「く……くそっ……」
ぼくはバツ印をクリックして、ウインドウを消した。
そうしてパソコンから顔を離して、椅子にもたれる。
そのまま放心する。
ボーっとして。
何かを考える。
「…………」
今のはちょっと違うな、とぼくは省みる。
不覚にも女々しいことを思ってしまった。
自省。
自罰。
大丈夫だ。確かに頭に血が上ったが、もう冷静だ。ぼくはちゃんと理解している。
ぼくがどんな作者かというのを某社は曲解して受け取った――ぼくはそこに怒りを覚えたわけだが、それがたんなる私念であることをぼくはちゃんと理解している。
そんなものに怒ってどうする。
人と人が解り合えないことくらい、わかっているだろう。
自分という存在が、世間に分かってもらえないことは、当然なのだ。
人と人は解り合えない。
ぼくはそれをちゃんと理解できている。
それを理解できていない人は――たとえば小説の作者であれば、「こういうふうに読んでほしい」などと読み方の指示をしてきたりする。
それがどれだけ傲慢なことかわからずに指示してくる。
ぼくは違う。ぼくは理解できている。
人と人は解り合えない。
読者には、読者の読み方をしてほしい。そんなつもりで書いたわけでなくても、読者の解釈に「違います」なんて言いたくない。そう解釈できている時点で、それも一つの真実なのだから。
普遍的な正しさなんてない。そんなものがあれば人類は一つの方向に向かって進んでいけるはずだ。主義主張の派閥争いなんて生まれなく、争いなんて決して起こらないはずだ。
人と人が解り合えるのなら、ぼくがこんなにも惨めになるわけがないんだ。
ぼくの気持ちをちゃんと汲み取ってくれて、ぼくがどんな人間かを理解した上で、ぼくに合った方法を提示してくれるはずなんだ。
それが叶わないというのだから、人と人は解り合えないのだ。
今回のような食い違いが起こらずに済んだのだ。
人と人は解り合えない。
ぼくはそれを理解できている。
誰もが己の見解を持ち、意見を持ち、哲学を持つ。それらを否定するほどぼくは傲慢ではない。
だからぼくは、小説のキャラクターの一人一人にも哲学を持たせるよう書いているのだ。
理解できないようなキャラクターを誰一人として書いてこなかったのだ。
ぼくは個人主義者なのだ。
パースペクティビズムなのだ。
藪の中なのだ。
人と人は解り合えない。
だからこそ世界は各々の解釈で成り立っている。
作者の赤と読者の赤は違う。違うのだが、それはどちらも間違いではない。ただ見る角度や遠近が違うだけなのだ。
どちらが正しいかではない。どちらも間違いではない。
ただ立ち位置や理解度が違うだけなのだ。それらも一つの真実なのだ。
そこにケチをつけるのは独善である。
ぼくは独善的な人間ではない。
一方的な正義で人を押しつぶすような真似は、ぜったいにしない。
人と人は解り合えない。
ぼくはそれを理解できている。
だから。
ぼくは認めよう、自分の実力不足を。
ぼくは不合格だった。
それは、『読者を気持ちよくさせる文章』を書かなかったからだ。
そこに間違いはない。
結果が出ているのだから、ぼくがダメだったことに間違いはない。
間違いはないのだから。
認めよう。
ぼくは実力不足だった。
言い訳なんてみっともない。出された結果にすがりついたり、それを不当だと憤るのは弱者のすることだ。そんなことに時間や気概を費やしてしまったら、それこそ小説家への道は閉ざされる。
だから認めよう。
ぼくが実力不足だった。
ただ。
「…………」
ただ、思うところはある。
というよりも一つの懸念。
すなわち――こんなことじゃあぼくはいつまでたっても小説家にはなれないんじゃないのか、という強烈な不安だ。
不合格だと言い放たれて、ぼくは、そんなふうに思ってしまったのだった。
思わざるを得なかった。
はっきりいって、自信を喪失した。
正しさも間違いもない。ぼくはそれを理解できている。
それでも、こうして、正しいと思ってやったことが、こうもバッサリと切り捨てられたのにはショックを受けた。
痛切なまでに裏切られたのだ。
痛い。
とても痛い。
こんな痛みを受けて、世の中を恨むなというのであれば――ぼくは、ぼく自身を疑うしかほうほうがないじゃないか。
個人の尊厳を尊重するためには、ぼくの尊厳を疑うしかないじゃないか。
このやりどころのない感情を自分に向けるしかないじゃないか。
ぼくが間違っているんじゃないかと……、そう思わないと辻褄が合わないじゃないか……。
くそったれ。
「くっそ……」
未来が閉ざされた。
光が見えなくなってしまった。
信じていた正しさがぶち壊された。
今までやってきたことは間違いだった。
どんなに嫌でも王道を書いてくるべきだった。
どれだけ書きたくても邪道なんか書くべきじゃなかった。
信じていたものがアノミー。
訪れる闇のようなニヒル。
――まさしく虚無だ。
ぼくはどうすればいい?
わからない。
ああ。不安だ。ただただ不安だ。
こうしてパソコンの前で座っていることすらも希薄に感じられる。なんだか暗闇に包まれているみたい。周りからどんどん明るさが奪われていくような感じ。そのままぼくを中心にして縮小していき、ぼく自身も真っ暗に呑み込まれてしまう。
うわ。
うわ、うわ。
ダメだ。
この感覚はダメだ。
…………。
あれ?
ぼく、生きてるっけ?
大丈夫?
死んでない?
「はぁ……はぁ……」
ぼくは胸を掴む。
ヤバいな。
生きている感覚すら希薄だ。
なにかにすがらないと、完全にぼくは壊れてしまう。
なにかにすがりたい。
すがれるもの。
すがれるもの……何かないのか……?
溺れそうなんだ、藁でもいいからくれ。
「…………」
ぼくは。
ほとんど無意識的に自分のブログを開いていた。
ぼくのすがれるもの――そうか。
ぼくのすがれるものは、ぼくの書いてきた作品たちだ。
それくらいしかぼくにはすがれるものがない。
いや。
そんなものにほんとうにすがる価値があるのか?
そんなものを書き続けてきたからこそ、今回の失敗が成り立ったんじゃないのか?
なあ。
そうだろ。
だったら、ぼくの書いてきたこの作品たちなんて、ゴミクズ以外のなにものでもないだろう。
「なんだよ……」
お前らのせいなんじゃねぇか。
消えろ。
お前らのせいだ。
ぼくはお前らを否定する。
ぼくを『不合格』にしてくれたお前らを否定する。
ふざけやがって。
ぜんぶ塗り替えてやる。
新しくしてやる。
今日から新しく始めるために、お前らなんて白紙に戻れ。
悪いものも、恥ずかしいものも、ダメなものも、ぜんぶ浄化されろ。
はぁ。
クソが。
こいつらのせいでぼくが『不合格』になったのだから――そうだな、この手でこいつらを消してやろう。
「…………」
カチ、カチ、とマウスをクリックする。
ぼくはこの作品たちを削除する。
今まで書いてきた失敗作たちをすべて削除する。
そのためにブログの管理画面を開く。
ぼくのこれまでを全否定するために――ぼくは、最終的なところまでたどり着く。
「…………」
――消すの?
消すよ。
――消していいの?
消すしかないよ。
――消さないでほしいな。
消すんだよバカ。
――消さないでよ。
…………。
――消さないで。
…………。
「はぁ……」
溜息を吐いた。
名残惜しさを感じたわけではないが、最後に一回くらい読んでやろうと思った。
どんなことを書いてきたのか、実をいうと記憶が薄れてきていてあまり憶えていない。
この一年、それだけをやってきたのに、気付くといつのまにか忘れているものだ。
やれやれという感じだが、まあ、いいだろう。
忘れたのなら、読めばいいだけだ。
「…………」
ぼくはマウスをクリックする。
そうして一番最初に書いた作品から順に、これまで書いてきた小説を読むこととする。
忘れかけていたものを、思い出すとする。
さてと。
どんなことが書かれていたのだっけかな。
最後なんだ。徹底的に嘲笑って、否定しまくってやろう。
ぼくは読む。
一作目。
ぼくは読む。
二作目。
ぼくは読む。
三作目。
なんだか心が締め付けらている気がするが、ぼくは読む。
四作目。
胸にこみ上げるものがあるが、ぼくは読む。
五作目。
どんな気持ちで書いてきたかを思い出しながら、ぼくは読む。
六作目。
あの時思い描いた風景が鮮明に脳裏によぎり、ぼくは読む。
七作目。
一年前のぼくから現在のぼくへと連なって、ぼくは読む。
八作目。
ぼく、ぼく、ぼく。
これらの作品が、つまりぼく。
ぼくは読んできた、ぼくはぼく。
すべてぼくだった。
――どれもこれもひどい小説ばかりだった。
暗くて、汚くて、嫌なものを詰め込んだような小説たち。
悪くて、恥ずかしくて、ダメなキャラクターばかり。
それなのにこんなにも心が震えてしまうのはなぜなのだろう。
自分が書いた小説だからかな。
自分で書いた小説だから、こんなにも……。
ああ。
ああ……。
ぼくはこんな作品を書いてきたんだ――
ハッピーエンドという題なのに、少女が蹴り殺されるオチの物語。
皮肉的な女子高生が、心の中であらゆる物事に毒突く物語。
ストーリーが破綻していて、いともたやすく恋が成就される物語。
思い通りにできない少年が、思い通りに生きている人間を批判する物語。
生まれながらの悪役が、正義の味方にいじめられて惨めなまま死ぬ物語。
臆病な少年と見栄っ張りの少女が、悪魔に振り回される物語。
部活という場所を借りて、少女たちが堂々と口喧嘩する物語。
船頭が多くて、結局一人で書くことになってしまったリレー小説。
そして、悪役が主人公を騙り、主人公たちが悪役を演じる投稿作。
ぼくはそんなものばかりを書いてきた。
虚しくなるような『風刺』ばかりだった。
こんなものたちがぼくの軌跡だった。
その軌跡を振り返ってみて、思うのだ。
――消したくない。
一度振り返ってしまえば、小説を削除しようとか、ブログを閉鎖しようとか、そんなふうに思うことは二度とできなかった。
最悪な作品ばかりだった。
それらを読んで、心が痛んだ。
チクチクと、針でつつかれるように、痛んだ。
だけどむしろ慰められているような気持ちになった。
過去の作品たちが、まるで、『間違ってないよ』と元気付けてくれるかのようだった。
今の惨めなぼくを肯定してくれているかのようだった。
とてもこれらを否定する気にはなれない。
決して商業にはできないだろう物語たち。
夢も希望もなく、世の中の悪が凝縮されたかのような救いのない小説たち。
こんなものばかり書いてきたのだから、そりゃあ不合格にもなる。
ぼくがやってきたことは失敗だった。
ぼくがやってきたことは間違いだった。
「…………」
ぼくは俯く。
――でもなぁ。
人から見れば失敗なんだろうし、間違いなんだろうけど。
ぼく自身はこれを否定する気にはなれないんだよなぁ。
王道なんて書けないんだ。
明るい作品なんて書けないんだ。
それは、ぼくが、王道を行くに足る人間じゃないからだし、明るい日々を生きていないからだと思う。
ぼくは暗い。ぼくは汚い。ぼくは嫌なやつだ。
ぼくは悪い。ぼくは恥ずかしい。ぼくはダメなやつだ。
だからぼくは、暗くて汚くて嫌で、悪くて恥ずかしくてダメな物語しか書けないのだ。
作者がそんなだから、作品もそんななのだ。
こればかりはどうしようもないのだ。
だけどぼくは愛していた。
こんなぼくを愛していた。
否定せず、肯定してきた。
許してきて、愛してきた。
「……うっ……くっ。えぅっ……」
残念ながらこれらを否定する気にはなれない。
ぼくにとってこれらは、大事な息子たちだ。
作品は、息子なのだ。
ぼくはこのままの路線を一生貫き通していくだろう。
暗いまま暗いものを書き続けるのだろう。
でも、それでいい。
そんなふうに思う。
ぼくはぼくのままでいい。
『試験』は不合格だったけど、これでいい。
どうしようもなく、しかたないことなのだ。
今回の『試験』が、ぼくに合わなかっただけなのだ。
きっといつかチャンスはやってくる。
こんなぼくだからこそ出来る事が、必ず訪れる。
それまでの辛抱だ。
今はまだ辛い時期だが。
止まない雨はなく。
過ぎない冬はなく。
いつかぼくにも晴れ晴れしい春がやってくる。
信じよう。
暗闇の中から、一筋の光を見付け出そう。
ぼくにはそれしかできない。
「く……ぐっ……」
誰もぼくを愛してはくれない。
だったらぼくがぼくを愛するしかない。
そんな哀れさを背負って、ぼくは暗闇の中をゆく。
そこが居心地のいい場所であるのだと、嘯く。
自分大好きな悪役のように。
自分勝手な悪役のように。
自己中心な悪役のように。
自己肯定する悪役のように。
自己陶酔する悪役のように。
自己欺瞞する悪役のように。
悪くて恥ずかしくてダメな悪役が、それでも自分に自信を持っているように。
悪こそを正義とのたまうように。
自身の悪さを誇るように。
ぼくはぼくを愛す。
誰も愛してくれないから、ぼくがぼくを愛す。
4
姉は振り向いた。
ぼくの顔を見るとすこし驚いて、そうして問いかけた。
「何泣いてんの?」
「……。……べつに」
ぼくはそう答えた。
その素っ気ないものこそが、ぼくの答えだった。
姉は、すこし怪訝そうな顔をしたけど、またすぐにテレビのほうを見やる。
ぼくもぼくでパソコンを見やって、連載小説の最新話を書くためにテキストドキュメントを新規作成する。
いつも通りのいつもに戻る。
ただ、戻る。
そこに特別な感情は要らない。
このままでいい。
「…………」
「…………」
ぼくらは一生このままだ。
肯定すれば肯定するほど、愛すれば愛するほど、ぼくらはぼくらのままだ。
このままでありたいと望むから、このままであり続けるのだ。
一生。
「…………」
「…………」
変わることは、決してできない。
変わりたいとも思わない。