進級(3)
結局、よーちゃんに会えずじまいのまま昼休みになってしまった。
朝は今日からしっかり午後まで授業があることを喜んでいたけど、今は恨めしくてしょうがない。一年生だった頃はよーちゃんと一緒にお弁当を食べていたわけで、それが当然だと思っていたあたしにはこの状況を切り抜けるアイデアは浮かばない。
昼食に便乗して会いに行こうかとは考えた。仲直りできればそのまま今まで通りに過ごせるだろうって――そこまで想像しておきながらやめてしまったのだ。だって、よーちゃんのクラスに行ってみて、彼女が他の友だちとお昼を食べていたら気まずいじゃない。それに彼女が作った輪の中にあたしが入っていくのはなんか違うような気がするんだ。自分の道を歩もうとしているよーちゃんの足かせにはなりたくない。
そんなことをうだうだぐるぐる考えていたせいで、昼食を食べる相手を見つける余裕もなかった。
あれもこれもと欲張るからうまくいかないのだとすべて諦め、渋々自分の席で弁当を広げる。お母さんが朝の忙しい時間に作ってくれた弁当は、いつにも増して華やかだった。あたしを元気づけるための配慮かと思うと、なんだか苦しくて箸が進まない。
――やだなぁ、もう……。
「はぁ……」
「――針間さんだっけ?」
あたしのため息に被さるように、聞き覚えのない声がした。あたしは慌てて笑顔を作り、顔を上げる。
「一緒に食べよ?」
背の低いポニーテールの少女が不安を滲ませた顔で首をかしげていた。
「えっと……」
名前が思い出せない。あたしは頭の中を高速で検索するが、昨日の自己紹介をキレイさっぱり忘れていた。きっとクラス替えのショックから立ち直れなかったせいだ。
「わたし、木倉コノミ。針間さん、昨日の自己紹介のときぼうっとしていたから覚えてないんでしょ?」
――図星だ。
そんなにあたしの顔はわかりやすいのだろうか。確かにポーカーフェースだと言われたことはないけど。
「あはは、バレてた?」
あたしは笑うことにした。認めてしまったほうが得策だろう。
「改めて自己紹介するね。あたしは針間結衣。結衣って呼んでよ。さん付けだとよそよそしいじゃない」
「じゃあ、わたしのことはコノミって呼んでね」
にこっと笑うとコノミの頬にえくぼが出た。丸顔で幼く見えるが、そこがチャーミングな女の子だ。
「うん。じゃあそうするよ、コノミっ」
話し掛けられただけなのに、なんとなく元気になれたような気がした。
「ところで結衣、お弁当、一緒に食べてもいいかな? 前のクラスで仲良かった友だちと離ればなれになっちゃって、独りなの」
「あたしもあたしもっ!」
てきぱきと机の上の半分を空けて、隣の留守席から椅子だけ引っ張るとそこを勧める。コノミは戸惑ったのか、少し間を置いてから腰を下ろし弁当を広げた。
「小学校からずっと同じクラスだった友だちとついに離ればなれになっちゃって、かなりブルーなのよぉ」
演技抜きでかなり落ち込む。よーちゃんの姿が脳裏をよぎっていた。
「でも、友だちと離れちゃっても結衣には優しそーな彼氏がいるからいいじゃない?」
「――ふぇっ? 彼氏?」
誰のことを言っているんだろうかときょとんとしていたら、コノミは大きな目をばちぱちとさせて不思議そうな顔をした。
「あれ? 違った? 『スペクターズ・ガーデン』ってロゴの入ったおっきな車から降りて来なかったっけ?」
「あ、弥勒兄さんのこと?」
そういえば、今朝は弥勒兄さんに送ってもらったんだっけ。
あたしはやっと思い出す。
まさか見られているとは考えもしなかった。ということは、あたしが朝見掛けた少女は彼女だったのかもしれない。
「お兄さんなの?」
「ううん、弥勒兄さんは友だちのお兄さん」
自分としては実の兄みたいな存在だけど。誰かに弥勒兄さんを紹介するようなことがなかったから、こうして言葉にしてみると違和感があった。
「友だちのお兄さんが学校まで送ってくれるって、なんかおかしくない?」
「そう?」
コノミの言うことがしっくりこない。何がおかしいだろう? ごく自然な成り行きで送ってもらったつもりなんだけど。
「ミロクさん、だっけ? 彼は彼女、いるの?」
「さぁ……」
そんな話は聞いたことがなかった。弥勒兄さんのことでそういったことが話題になることはなかったのだ。
――カノジョ、いるのかな?
弥勒兄さんが好きなタイプが思いつかないせいで、ちっとも想像できない。代わりになんでか典兎さんとじゃれている姿が思い浮かんだ。
――いや、それはないから。
自分の想像力の方向性には突っ込まずにはいられない。
「――なら、立候補しなきゃだよ!」
コノミは勢いよく立ち上がる。身を乗り出してあたしの顔を覗き込んできた。
あたしはわけがわからず、パチパチと瞬きを何度もする。
「な、何に?」
食べる手を止めて見つめると、コノミは楽しそうな顔をした。
「もちろん、ミロクさんのカノジョに!」
一瞬の停止。
再びあたしの思考が動き出したとき、笑いが止まらなかった。
「ない。ないない! あり得ない!」
あたしが弥勒兄さんのカノジョになる? それは絶対にない。
だって、弥勒兄さんはお兄さんとしか思えないし、彼氏の候補として考えたこともない。そりゃよーちゃんのお兄さんで幼なじみみたいな関係でもあるから、毎年バレンタインデーにはチョコを贈っているけど――うん、やっぱりあり得ないよ。弥勒兄さんだってあたしのこと、妹くらいにしか思っていないはずだ。よーちゃんの友だちだから仲良くしてくれるんだろうし。
あたしが照れる様子もなく否定したからか、コノミの熱は引いたらしい。しげしげとこちらを見つめながら椅子に座り直す。
「そうかな? 脈ありだって確信していたんだけど。とても親しげに見えたし」
「小学生からの付き合いだからね。弥勒兄さんも恋愛の対象としてあたしをみたことはないと思うよ」
言いながら、ふと引っかかることがあった。
典兎さんがバイトとして入るようになった頃のことだ。
あたしは鬼頭典兎と名乗った彼を「典兎さん」と呼ぶことにした。典兎さんは弥勒兄さんと同じ学年なんだそうだ。だから学年では三つ上である。
それに対して、弥勒兄さんは自分も名前にさん付けにしろと言ってきた。だけど今さら「弥勒さん」と呼ぶには違和感がありすぎる。そうあたしは彼に伝えたはずだ。あれから一年経ったけど、相変わらず訂正を求められた。
考えてみれば、弥勒兄さんが典兎さんと同等の立場で接して欲しいと思ってのことなら、「典兎兄さん」とあたしに呼ばせればいい。そうしなかったのは何故だろう?
「――そっかぁ……。なら、わたしが立候補しよっかな?」
「げふっ」
唐突なコノミの発言にあたしはむせた。
――な、何故いきなりそんな話になる?
「だ、大丈夫?」
ペットボトルの蓋を開けて、烏龍茶を喉に流し込む。
――はぁ、生き返った。
不意打ちとしか言い様のない台詞だった。これは動揺したということだろうか。
「……もう大丈夫」
「あぁ、良かったぁ」
「でも、なんで?」
あたしにはよくわからない。脈絡のない展開のように思えたのだ。
「一目惚れかな?」
そう答えるコノミははにかんでいた。好意があるのは確かなようだ。
あたしの心はもやもやしてくる。なんとなく面白くない。
「だけど……」
「取られると困る?」
首を小さくかしげる。そんなコノミのしぐさは可愛らしい。
「そんなことないけど」
なんだろう、胸騒ぎがする。
「ミロクさんに少しでも好意があるなら、はっきり言ってよ? わたし、他人の恋路を邪魔したくないの」
その台詞を聞いてあたしは納得した。彼女は探りを入れていたのだ。親しげに話していたあたしと弥勒兄さんの関係を。あたしが弥勒兄さんのカノジョもしくは候補であるなら、諦めようと思っていたらしかった。
「うん、問題ないよ。あたし、応援するよ?」
「ホントに?」
あまりにも嬉しそうに笑うコノミを見て、あたしは少しだけ自分の発言に後悔した。なんだろう、この気持ち。
そのときだ。
「!」
コノミの後ろに奇妙なモノを見た。あたしはびっくりして立ち上がる。
「ど……どうかしたっ?」
あたしの意味不明な行動に、コノミは食べていたサンドウィッチを置いて目をまんまるにしている。
「あ、いや、なんでもないのっ!」
あたしが見える奇妙なモノの話はよーちゃんとの秘密。
でも理由はそれだけじゃない。ここでまたそんな話をしたら、せっかく仲良くなれそうなのに前みたいなことになってしまうだろう。ここには助けてくれるよーちゃんはいない。自分でどうにかしなくっちゃ。
「それにしてはものすごい驚きようだったけど?」
コノミはとても不思議そうにしている。
「ちょっと見間違い。大したことじゃないよ」
笑いながら椅子に座り直す。
コノミの後ろにいた緑色のぐにゃぐにゃしたモノはもういなくなっていた。よーちゃんに会ってからあまり見なくなっていたので、久しぶりにその姿を見てびっくりしたのだ。
――もう見えないと思っていたのに、なんで?
そのあとは互いの趣味の話や部活の話をしながら昼食を食べた。表向きには楽しそうに見えただろうけど、あたしの気持ちは晴れないまま。少しは回復するかと思ったのに、結局その日の午後の授業も気が沈んだままだった。