スペクターズ・ガーデンにようこそ
ラベンダーの香りがする。
意識が回復してきたらしく、徐々に身体の感覚が戻ってきた。
背中に何かがあたっている。どうも寝かされているらしい。固めのソファーのような感触。毛布を掛けてもらっているのか、腕を動かすと柔らかな布が触れた。
――うーん、なにがあったんだっけ?
あたしはうっすらと目を開ける。
見慣れない場所だ。少なくともここは学校ではないし、あたしの家でもない。
――頭痛がする……。
おでこに手を当て、上半身を起こす。辺りを見回すと、やっとここがどこなのか理解した。
――スペクターズ・ガーデンの休憩室……。
スタッフオンリーの場所ではあるが、店が暇なときに何度か出入りしたことがある。あたしの記憶に間違いがなければ、だが。
――なんでこんなところで寝ていたんだろ? 今日は部活に出て……下校時刻になったから家に帰ることにして……昇降口でコノミに会って……一緒に帰ることにして……。
「……!」
――そうっ! よくわからないけど、コノミが変身してあたしを殺そうとしてきたのを、弥勒兄さんが割り込んできたんだ!
助けてもらったという認識に至らなかったのは、弥勒兄さんの第一声に不満があったからだ。つまり、助けに来たと言ってくれるのを期待していたということを如実に示している。
――よーちゃんは助けに来たよって言ってくれるのに……。
そこまで思い出して、はたと気付く。
――いや、そうじゃない。何処からが夢だったのか検証するのが先だってば。
先週教室でうたた寝をしてうなされていたときに見たような緑色のスライムが、またしても出てきたことを覚えている。そのスライム状の謎の生物は、なんでかよく知らないけど目の前で破裂して消えてしまったのだった。
――あんなのに好かれても嬉しくないよぉ……。
相当病んでいるのかもしれない。近いうちに図書館でフロイト先生にお世話になるとしよう。よーちゃんと離れ離れになってしまったことがストレスになっているに違いない。
気落ちしながらも、あたしは何か証拠となるものがないか探す。記憶だけではなんの根拠にもならない。どこまでが現実であったのか、境界を知る必要はある。
ソファーの脇にあたしのスポーツバッグが置いてあった。引き寄せてまずは外見をチェックし、中身を確認する。
――異常ナシ。
多少の砂ぼこりはついていたが、何か運悪く転けて気を失っていたのだと仮定すれば、不自然ではない。
――他は……。
ぺたぺたと自分の服や身体に触れてみたが、やはり妙なところはない。
――うーん。
手がかりになるかに思われたレモングラスの香りも、この部屋に充満しているラベンダーの香のせいでよくわからない。もともとあたしは朝に貰った弥勒兄さんの匂い袋のせいで感覚は鈍っているのだ。確実な証拠とするには限界がある。
――仕方がない。弥勒兄さんたちに訊いてみよう。ここに運んでくれたのはきっと彼らだ。
あたしはソファーに毛布を置いて、店に繋がるドアに手を伸ばす。
「?」
ドアノブを回したところで、この部屋の向こうの話し声に気が付いた。弥勒兄さんと典兎さんの声である。
なにやら真剣な話をしているような雰囲気だったので、あたしは様子をみるためにその場で聞き耳を立てることにした。
「――話変わるけど」
「なんだ?」
話を切り出したのは典兎さんだ。
ドアの隙間から覗くと二人の姿は丁度後ろしか見えず、何をしているのかはよくわからない。
「僕さ、勢いでコクっちゃったんだよねぇ……」
できるだけ軽い口調で言おうと努力していたようだが、後ろめたいのか申し訳なさがにじんでいる。
「――誰に?」
微妙な間。問いを返した弥勒兄さんの台詞には動揺が隠されているような気がした。
「わかっていて訊いているだろ、それ」
「お前の口から相手の名を聞いてみたくなっただけだ」
――あ、弥勒兄さんムッとしてる。
「――で、そっちはどうするつもり?」
「何が?」
互いの顔を見ないで会話を続けているあたりからすると、やはり気まずいのだろうか。
「君が行動を起こさないなら、僕は本気で彼女を口説き落とすよ?」
冗談のように典兎さんは言うと、顔を僅かに弥勒兄さんに向けた。
「わざわざ宣言しないで、勝手にすればいいじゃねぇか」
ぶっきらぼうに弥勒兄さんは答えて、表情を見られないように顔を背ける。
「だって君、結衣ちゃんのことが好きじゃないか」
「……」
典兎さんの短刀直入な指摘に、弥勒兄さんは何も答えない。
あたしはいきなりの展開にびっくりして、ドアの前から壁に移動して隠れる。
――その沈黙は肯定しているってこと?
心臓がいつもよりも早くトクトクと脈を打っている。
「君が彼女に名前で呼べって言ったのも、結衣ちゃんに異性として見て欲しかったからじゃないのか?」
「……」
「ケータイに結衣ちゃんから貰ったストラップをつけなかったのは、無くしたり汚したりするのが嫌だったからだって聞いたぞ?」
「……」
「つけてやれば良いのに。きっと彼女、喜ぶよ?」
あたしは再びドアの隙間から店の中を覗く。
「――お前には関係ない」
突き放すような力はない呟き。
「何を遠慮しているんだ?」
「遠慮なんてしてねぇよ」
ふぅとため息混じりの台詞。
「認めたな?」
典兎さんの問いにはすぐに答えず、顔を向ける。
ようやく二人は互いの顔を見た。どんな表情をしているのかはやはりあたしのいる場所からはわからない。
「――お前はよく告白なんてできるな」
「なんだよ、それ」
「俺はそんな無責任なことできねぇよ。いつ死ぬかもわからん仕事をしているのに」
――いや、弥勒兄さん。花屋ってそんなに命懸けの仕事じゃないでしょ?
「その自覚、お前にはないのか?」
「う……」
典兎さんは弥勒兄さんの問いに黙り込んでしまう。
――うーん、あたしが知らないだけで、花屋って危険なお仕事だったんだ。
覗き見しながら納得していると、弥勒兄さんは続ける。
「そんなんだから、五年が経っても見習いなんだぞ」
「それは言わないお約束」
典兎さんの苦笑混じりの返事。
――見習い?
なんかよくわからなくなってきた。彼らはなんのことを言っているのだろうか。
あたしは二人の会話を聞き逃すまいと集中する。
「――お前は、彼女が巻き込まれたときに護りきる自信はあるのか?」
「んー、胸を張って言えるわけじゃないけど、覚悟はしているさ」
悩むような僅かな間があって、典兎さんははっきりと告げる。
「……強いんだな」
「ミロクだって、護ってやれるだけの充分な力を持っているじゃないか。今日だって――」
「いつでもうまくいくわけじゃない」
典兎さんの台詞を遮るように、弥勒兄さんの良く通る声が重なる。
「ミロク、君、いつまでそうしているつもりなんだ?」
感情的な典兎さんの声。こんな責めるような彼の声を今まで聞いたことはない。
「自信がないんだ。――俺は、葉子やお前のように結衣のそばにはいられない」
弱気な発言をする弥勒兄さんに典兎さんは襟元を掴んだ。
「!」
「そんな中途半端な気持ちならスペクターズ・メディエーターなんてやめちまえ!」
「――ふぇ?」
二人の視線がこちらに向けられる。
あたしははっとして自分の口元を押さえながら壁に隠れる。
――ま、まずい! 気付かれちゃった!
心臓がバクバクしているのは、聞いちゃいけないことを聞いてしまったと思ったからだろうか。それとも別の理由だろうか。
足音がして、ドアが開かれる。薄暗い控え室に店の明るい照明の光が入ってきた。
「大きな声を出してゴメンね。起こしちゃった?」
始めに入ってきたのは典兎さんだった。店でいつもしている微笑みを作っているつもりなのだろうが、ちょっぴりひきつっている。さっきのあの様子から作ったものだと思うと、なかなかの演技だ。
「い、いえ……」
――うわ、気まずい……。
「隠さなくてもいいぞ。どうせ最初から聞いていたんだろ?」
後から入ってきた弥勒兄さんは部屋の電気をつけながら問う。
――う、鋭いっ!
「……」
あたしが黙っていると、典兎さんが弥勒兄さんに顔を向ける。
「ミーロークー! 君、気付いていたならそれとなく知らせろよ!」
「ゆっくり話を聞く約束をしていただろ?」
それは昨日の帰り道でのことを言っているのだろうか。
――いや、そこは律儀に守るところでもないんじゃない?
「羞恥プレーもいいところじゃないか!」
――あ、典兎さんが怒ってる。当然だと思うけど。
「どーせ当事者しかいないじゃねぇか。何を今さら」
やれやれといった様子で弥勒兄さんは答える。
――イヤイヤ。
思わず心の中で突っ込みを入れる。
「そういう問題じゃないっ! 大体ミロクは――」
「で、身体の調子はどうだ?」
「ふぇ?」
典兎さんの抗議の台詞を無視して、弥勒兄さんはあたしに話を振る。唐突に訊かれたのであたしはすぐに反応できない。
「痛いとか、気分が悪いとか、そういうのは大丈夫か?」
見極めるかのように弥勒兄さんはあたしの顔をまじまじと観察してくる。
「えっと……。特におかしなところはないんですけど……なんであたし、ここで寝ていたんです?」
「そうか。なら良いんだ」
安心したのか、少しだけ笑ってあたしの頭を撫でる。
――なんか懐かしい仕草なんだけど……って、和んでいる場合じゃない! はぐらかされてたまるか!
「――もう少しまともなごまかしかたをしてください! 騙されませんよ!」
あたしは名残惜しく思いながらも弥勒兄さんの大きな手を払い除けてじっと睨む。
「道端で行き倒れになっていたのを拾っただけだが?」
弥勒兄さんの台詞が直前のあたしの問いに対する返事だということに気付くまで、少々時間が掛かった。
「――この現代日本で、行き倒れになったのを拾うなんてことがそうあるわけないじゃないですか!」
「倒れるときは倒れると思うけど?」
茶々を入れてきたのは典兎さんだ。弥勒兄さんと結託して話をうやむやにしようと企んでいるに違いない。
「あたしが聞いているのは、なんで友だちに、しかも変身するというおまけ付きで襲われなきゃいけないのかってことですよ!」
「それは恐い夢を見たんだな」
弥勒兄さんはあたしの問いをかわすべく、ごく当たり前の台詞を口にしてもっともらしく頷く。
「あれは夢じゃなかったんでしょ?」
あたしはなおも食らいつく。ここで引いてしまっては、夢だったのか現実だったのか、本当にわからなくなってしまう。
充分な沈黙。
典兎さんが適当な言い訳を作って割り込んでくるかと予想していたのに、弥勒兄さんがちらりと彼を見ただけで、それ以上の反応はなかった。
「――何故、そう思う?」
興味深そうに両目を細め、弥勒兄さんは問い掛けた。
「弥勒兄さんたちが隠そうとするから」
あたしはきっぱりと答える。
証明できるようなものは何もなかった。だから、あたしが何を信じるかということだけが、確かなものである。
「ならば、何を隠しているんだと思う?」
弥勒兄さんの問いがさらに追加される。
「隠していることは大きく三つあります」
言ってあたしは顔の前に出した右手の人差し指だけを立てる。
「まず一つはよーちゃんは病気で休んでいるわけじゃないってこと」
これにはそれなりの根拠がある。よーちゃんと連絡が取れなくなった翌日の蓮さんの疲れた様子や弥勒兄さんの睡眠不足は、おそらくよーちゃんを捜していたからだ。コノミに襲われたときに彼女から告げられた「助けに来ないよ」発言や、弥勒兄さんが「葉子はどこだ」と訊ねていたことからも確信が持てる。
続いてあたしは右手の中指を立てた。
「次の一つはスペクターって呼ばれる存在がこの世に確かにいるということ」
これも確かなことだと思う。あたしの記憶に間違いがなければ、よーちゃんもその存在を理解しているようだが、初めて出会ったあのとき以来話題になることはなかった。それは彼女と約束したからということもあるのだろう。コノミが告げたことが本当なら、通常なら見ることのない不可思議な生き物のことをスペクターと呼ぶのではなかろうか。
また、あたしとコノミの争いに入ってきた彼らも、その存在について何らかの知識を持っていると考えてもおかしくはないだろう。だとすると、それを知りたいと思っているあたしに黙り続けるのは隠しているのと同じだ。
右手の薬指を立て、あたしは残りの引っ掛かりを明かす。
「最後の一つは、弥勒兄さんたちが花屋の他に別の仕事を持っているということ」
昨夕の弥勒兄さんに対する突然の呼び出し、あれはきっと花屋以外の仕事による呼び出しだ。これは典兎さんに訊いているので、彼が嘘をついていない限り確かなこと。
その典兎さんも花屋以外の仕事を持つと考えたのは、コノミに襲われたときに二人が一緒にいたことや先ほどの会話から想像したところによる。どうやらそのお仕事は「スペクターズ・メディエーター」と呼ばれるもので、生命の危機にさらされるような職業っぽい。
あたしは真っ直ぐに弥勒兄さんを見つめた。
「それらのすべてが、今日、ってか、さっきの出来事に関連している。――違う?」
――さぁ、どう出る?
あたしは弥勒兄さんがどんな反応を返すか、一挙手一投足に注目する。
「お前はその自分の意見が正しいと信じるんだな?」
ふむと唸ったかと思うと、弥勒兄さんはそんな問いを投げてきた。
「うん」
あたしはしっかり頷いて意思表示をする。
「じゃあ、手を出せ」
言われるままに、あたしは先ほどまで立てていた指を引っ込めて弥勒兄さんに出す。
「おい、ミロク、まさか――」
あたしの間に入って典兎さんが止めようとしたけれど、その前にあたしの手のひらに何かが転がりこんできた。
「念じてみろ」
手の中にあったのは二つの種子。一つは朝顔の種子のように角がある小さなもの、もう一つはマリーゴールドの種子のように細長い針状のものだ。
「念じるって何を?」
受け取ったのはよいが、意図がさっぱり掴めない。
「ミロク、君はさっきから言ってることとやってることが矛盾して――んぐっ」
文句を言いに割って入ってきた典兎さんを弥勒兄さんはがっしと掴んで口を塞ぐ。
「黙ってみてろ、テント」
「あの……どうすれば?」
相変わらず仲が良いなあ――なんて思っている場合ではない。
典兎さんじゃあるまいし、弥勒兄さんがあたしをからかってこれらの種子を渡してきたとは思えない。
――しかし、なんで朝顔とマリーゴールド?
小学生時代に授業で育てた記憶がある。どちらも枯らさずに花を咲かせるために一生懸命世話をしたことを覚えている。
「ん? そうだな、試しにマリーゴールドは葉子だと思って話しかけてみろ」
「え? これがよーちゃん?」
あたしの問いに、弥勒兄さんは真面目な顔をして頷く。
何のことだかさっぱりわからないのだが、こう言われてしまうとするしかない。あたしはマリーゴールドの種子に視線を向ける。
――よーちゃん?
心の中で話しかける。
――よーちゃん、聞こえる?
「!」
手のひらに熱が宿った。次第に鼓動が感じられるようになる。
「な、なに?」
あたしがびっくりして目をぱちぱちとしている間もその勢いは衰えることなく、むしろ増していく。
「そのまま続けろ」
「でも」
「いいから」
戸惑うあたしに、弥勒兄さんは落ち着いた声で諭す。
――うーん、仕方がない。よくわかんないけど、よーちゃん、あとで説明してよねっ!
マリーゴールドの種子がフワリと舞い上がった。風は吹いていなかったので、独りでに浮かび上がったことになる。
「ふぇっ?」
そのマリーゴールドの種子に変化が起こった。ぶくぶくと大きくなり始めたのである。
あたしが突然の出来事に呆然としていると、小さな種子であったはずのそれはあたしと同じくらいのサイズまで成長を遂げた。しかも人間のような形になっている。
「――あぁ、エライ目に遭ったわ……」
一瞬光が部屋を駆け抜け、次に目を開けたときには少女があたしの目の前に立っていた。オレンジ色のワンピースを着ている、長い髪を結わずに下ろしたままの美少女は――。
「よーちゃん!」
あたしはいきなり現れたよーちゃんにすぐに抱きつく。
「あれ? 結衣――って、ちょっと! 兄さん!」
よーちゃんの焦る声。そんな姿は滅多に見られない。
「よう。戻って来られたようだな」
片手を挙げ、ごく自然な様子で挨拶をする。その隙に典兎さんは弥勒兄さんから離れた。
「さわやかに言うところじゃないわ! てっきり私は――」
「いや、俺でもテントでもお前を呼べなかったんだよ」
面倒くさそうに弥勒兄さんは頭を掻いて視線を反らす。
「だからってどうして? 父さんなら私を呼び出すのは簡単でしょ?」
「そうだぞ! ミロク! 君はさっき結衣ちゃんを巻き込みたくないって言っていなかったか?」
二人は弥勒兄さんに文句をつける。あたしのことを心配して言ってくれているようだが、なんで二人がそう言っているのかピンとこない。
――ってか、あたしはよーちゃんに久し振りに会えて満足だし。どんなに我慢しようとしても、ついついにやけちゃうよ。
「いんや、俺は結衣を護りきる自信がないと言っただけだ」
さらりと弥勒兄さんは答える。
「同じことだろ!」
「違う」
「違わない! 君は無責任だ!」
「――なぁ、結衣?」
掴みかかろうとした典兎さんを軽やかにかわし、弥勒兄さんはあたしに問い掛ける。
「は、はい?」
あたしはよーちゃんに抱きついたまま、視線を弥勒兄さんに向けた。
「お前、スペクターズ・メディエーターになって、自分の身くらい自分で護らないか?」
「スペクターズ……メディエーター?」
――スペクターズ・メディエーターになるってどういうことだろう?
「だから、君は何を言って――」
虚空を掴んだ典兎さんは恨めしそうに弥勒兄さんを見ている。
「単純な話だ。俺は結衣を護りきる自信がない。ならば、護る必要がなくなれば問題ない」
「あ、そっか」
「って、葉子ちゃんまで納得するなって!」
あたしが返答に困っている間にまわりはあれこれ言っている。
――スペクターズ・メディエーターってどうやってなるの? ううん、その前にそれ自体がなんなのか全くわからないんだけど。
「――それはそうと」
よーちゃんは抱き締めたままのあたしの腕をそっと払って、こちらをじっと見る。長い前髪の間から見える焦げ茶色の瞳はとても澄んでいた。
「ん?」
「あんた、もう少し驚いたり怖がったり不審がったりできないの? 順応性高すぎ」
「なんで?」
あたしは首をかしげる。
「だって、よーちゃんはよーちゃんじゃない? あたしは会えて嬉しいよ?」
「あー、もうっこの子は……」
言って、よーちゃんは頭を抱えてしまった。
――あれ? なんか変なことを言ったかな?
「何にもないところから私が登場しても、結衣は不思議に思わないの?」
「ふぇ? よーちゃんならそのくらいしてくれると思うけど」
あたしの返事を聞いて、よーちゃんはますます頭を抱えた。
――え? だってよーちゃんはあたしのヒーローだもん。この程度のことはしてくれないと、反対にがっかりしちゃう。
「……結衣、あなた私をなんだと思っているの?」
「よーちゃんはよーちゃんだよ? あたしが大好きな友だち!」
素直に自分の想いを告げると、よーちゃんは顔を上げてこちらを見る。そこには不安げな表情があった。
「――私、人間じゃないんだけど?」
「そんなの関係ないよ。人間だとかそうじゃないとか、そんなことに何の意味があるの? あたしはよーちゃんという存在が好きなの」
言葉だけでは足りそうになかったので、あたしは最高の笑顔を作る努力をする。
――伝われ、あたしの気持ち!
「結衣……」
よーちゃんの声は涙で掠れていた。
「よーちゃん?」
あたしが問うと、よーちゃんは勢いよく抱きついてきた。彼女から来たのは初めてである。だからどうしたら良いのかわからない。
「ゴメンね、結衣……ひっく……私、あなたのことを誤解してた……ひっく……ずっと言えなくって……失いたくなくって……あんた、私よりずっと強い女のコなのに……ひっく……」
「あたしが強く見えるなら、それはよーちゃんのお陰だよ」
宥めるために、あたしはよーちゃんの頭を自分の肩に寄せてそっと撫でた。
「結衣ぃ……」
――よーちゃんもこんなふうに泣くんだなぁ……。
よほど心細かったのだろうか。よーちゃんはなかなか泣き止まない。
――あれ? なんか忘れてないか?
左腕をよーちゃんに回して右手で彼女の頭を撫でているのだ。次第に何かを忘れているような気がしてくる。
「――あの……弥勒兄さん?」
あたしはよーちゃんを落ち着かせながら問い掛ける。
「ん? なんだ?」
弥勒兄さんは典兎さんとじゃれるのを止めてこちらに注意を向ける。
「マリーゴールドの種子はよーちゃんだったけど、朝顔の種子は一体なあに?」
「あぁ」
そんなのもあったなぁという顔をしながら、典兎さんの掴み掛かる手をかわす。
「あれはお前に襲いかかった不届き者だ」
――あたしを襲った不届き者……?
思い返していると、それが誰のことを言っているのかに思い当たる。
そして自分の手の中に朝顔の種子がないことに気付いて、よーちゃんを撫でるのをピタリと止めた。
「――! それを早く言ってよ!」
よーちゃんを離そうかと考えたものの、しかしそれは思い止まり、頭を動かして足元を探す。
左腕で支えられたままのよーちゃんがあたしを不思議そうに見ている。
――マズイ……。見当たらないよ!
「ゴメンね! コノミ! 近くにいるなら返事をしてよ!」
あたしは自棄になって叫ぶ。
するとすぐに反応があった。
「――わたしを捨てるなんて、いい度胸をしてるよね!」
強烈なフラッシュがたかれたみたいに部屋全体に閃光が走ると、次に網膜が映し出した景色の中には新たな人物が増えていた。
藍色の浴衣に身を包んだポニーテールの小柄な少女が、床にうずくまっていた。
「ゴメン! あたし、気付かなくって……大丈夫?」
むくっと立ち上がったコノミにあたしは恐る恐る問う。
「大丈夫なわけがないよ! スペクターが姿を作れなくなるってことが、どんだけダメージを受けている状態なのか、あんたわかってないでしょ!」
ビシッと人差し指をあたしに向ける。
「そんなこと知らないよ。――だけど、もう大丈夫そうだね」
あたしが微笑みをコノミに向けると、彼女は自身の腕を組んでプイッと横を向く。
「葉子を抱えながらそんなことを言っても、心配してくれてたようには見えないよ!」
「だって、コノミがよーちゃんを目の敵にしているみたいだったから。よーちゃんはもう渡さないよ」
――絶対に離すもんか。
あたしが護るとは言わないけど、彼女を泣かせるようなことはしたくないのだ。初めて出会ったときに見せてくれたお日様のような笑顔を見続けていたいから。
「ふんっ! 葉子にはもう用はないよ!」
不機嫌そうにコノミは答える。
――うーん、本当かなぁ?
「――スペクターズ・メディエーターの素質としては充分だな」
あたしがコノミに注意を向けていると、弥勒兄さんが呟いた。
――そうそう。スペクターズ・メディエーターがなんなのか、まだ聞いてなかったよ。
「あのー、弥勒兄さん? そもそもあたし、そのスペクターズ・メディエーターがどんなものなのかも、コノミが言うスペクターがなんなのかもよくわからないんですけど?」
この花屋スペクターズ・ガーデンの名前の由来が、スペクターと言う名が付けられたアイビーの仲間から取られていることは蓮さんから聞いたことがある。そのスペクターはよーちゃんの家で栽培しているもので、手入れを怠ることなく愛情深く育てると、夏頃にその葉に斑点が浮かぶのだ。それがまるでお化けのように見えるから、スペクターと呼ばれるらしい。
「……あんた、葉子とずっと一緒にいたくせに、そんなことも知らなかったの?」
目をぱちくりさせてびっくりしているのはコノミだ。しかし、すぐにむっとしてよーちゃんを睨み付ける。
「葉子もそのくらい教えてあげなきゃダメだよ。自分の正体を隠す気持ちはわからないでもないけど、結衣は普段からスペクターが見えているんだよ?」
「ウソ?」
コノミの指摘に驚きの声を上げたのは典兎さんだった。
「結衣の目のことなら知っているわ。――でも、余計なことは知らなくて良いの。知らずに生きる幸せだってあると思うから」
よーちゃんは自分の涙を指先で払い、コノミのほうに身体を向ける。
「そんなことを言っている場合じゃないよ! あんたのその思想が彼女の力を増長させているんだからね! 結衣はスペクターズ・メディエーターになるならないに関わらず、訓練して感情のコントロールを身に付けさせるべきだよ! いつか絶対に暴走させるんだから!」
手を自分の腰に当てて一気に捲し立てる。
――う……コノミが恐い……。
説教を始めたコノミの台詞に、弥勒兄さんは何かに気付いたらしい。すぐに表情を固くする。
「まさか、暴走させちまったのか?」
不安な気持ちが滲む声での問い。
コノミは弥勒兄さんに顔を向けて、注意するように睨んだ。
「途中で軽減させたよ。わたしが挑発したのも悪かったし」
やれやれといった表情でコノミが解説する。
それを聞いて、あたしの脳裏にはある昼休みのことが浮かんできた。あり得ないはずのことが教室で起こった、あの日のこと。
「それって――あの昼休みに窓ガラスにひびを入れちゃったことを言ってる?」
「なんだ、自覚があったの?」
呆れたと言わんばかりのコノミの問いに、あたしは慌てて首を横に振る。
「今、気付いたんだって」
あのときは確か、コノミがよーちゃんを悪く言ったから怒鳴ったはずだ。その瞬間に突風が起こってコノミを吹き飛ばし、窓に叩きつけた。それで窓ガラスにひびが入ったのだ。
「――あれくらいのことで、窓ガラスにひびを入れていたら、卒業までもたないよ! 今はわたしがそばにいる分だけ緩和させることができるけど、このあとはどうするの?」
「思春期を過ぎれば安定するわ、自然とね」
落ち着いた声で返したのはよーちゃんだ。もうあたしが知っているいつものよーちゃんに戻っている。
「どうかな? それでも葉子の悪口を言っただけで暴走させると思うんだけど?」
「さすがに結衣はそこまで子どもじゃないわよ、ね?」
よーちゃんが同意を求めてきたが、あたしはそれに頷くことができずに視線をそらす。
「結衣?」
この状況でガラスにひびを入れた理由がよーちゃんのことを悪く言われたからだとは言えない。
――ううぅ……ゴメン、よーちゃん、それは無理っぽい。
「だーかーらっ、そんな悠長なことを言ってる場合じゃないの!」
つかつかとよーちゃんに歩み寄ったコノミは背が低いために顔を上げる。
「あんたのせいで街が一つ壊滅することになっても知らないよ!」
威勢のいい声でコノミが告げる。
――ふぇ? 街が壊滅?
なんて大げさな言い方だろうと思っていると、弥勒兄さんが二人の間に入った。
「そんなに深刻なのか?」
コノミは弥勒兄さんをキッと睨む。
「そうだよ! 葉子が甘やかすから、力の収束のさせ方もろくに知らないし。もうちょっと感情を抑えることができてもいいんじゃないの?」
そう答えると、ビシッとあたしに向かって人差し指を向ける。
「せっかく、気を紛らわせるために女のコが興味を持ちそうな話題を振ってみたり、わたしに注意を向けるように頑張ったのに全部空振りなんだよ! さすがにこっちもキレるってもんだよ!」
――あ、そんなことであたし、殺されかけた?
理不尽な、そう思ったが考え直す。
――いや、あたしが存在することで街が滅びるなら、コノミの行動は正義とみなせるか?
コノミの勢いにのまれているのか、どうも思考がうまくまとまらない。
「キレたと言ってもやり過ぎだ」
弥勒兄さんはコノミの頭をぽんぽんと軽く叩く。幼児をあやすかのような態度である。
「あんたもやり過ぎ! わたしを瀕死状態まで追い詰める必要はなかったよね?」
コノミは弥勒兄さんの手を払い除けて頬を膨らませると抗議する。
「寝てなかったからな」
「それだけじゃないよ! 結衣をわたしが襲ったことを怒っていたくせに!」
「……」
何故かそこで弥勒兄さんはあたしをちらりと見た。面白くなさそうな表情をしている。
――ん? なんの合図?
あたしが首をかしげると同時に、弥勒兄さんは安堵の色を滲ませて視線をコノミに戻す。
「???」
「――とりあえず、結衣の状態はわかった。――テント、お前もそろそろ反対意見ばっか言ってないで首を縦に振ったらどうだ?」
典兎さんを探すと、あたしが寝ていたソファーに腰を下ろして不貞腐れていた。
「……」
「このままでいても、結衣は勝手に巻き込まれてくるぞ? 意地でもお前が阻止するか? 半人前の力でどれだけのことができるか知らんがな」
弥勒兄さんの挑発に、苛立ちのこもった典兎さんの目が反応する。
「――どうせ僕はまだ見習いだ。結衣ちゃんを護りきれるかどうかは保証できないさ」
投げやりな口調で典兎さんは吐き捨てる。こんな荒れた雰囲気の典兎さんをあたしは初めて見た。
――いつもにこやかにしていて、何事にも同じ調子で応じているからイメージが湧かないなぁ。こんな表情もするんだ。
「そこまで理解しているなら、そんな顔をしてないで喜べ」
「喜べるわけがないだろ!」
掴みかかる勢いで立ち上がる典兎さんに対して、心底不思議そうに弥勒兄さんが首をかしげた。
「なんでだ? いもうと弟子ができるんだぞ?」
その台詞に、ピタリと動きが止まる。
「――? ……!」
しばし沈黙し、典兎さんは天井を見て考えたあと、何かに気付いた様子でこちらに顔を向けた。
――何を期待しているのかな? ……じゃなくって!
あたしはみんなの会話に乗り遅れていることにやっと気付いた。自分の話なのに、絡まないうちに話は転がり、大きくなっている。
――この流れはマズイ。
「ちょーっと待ってください!」
大声で呼び掛けると全員の注意があたしに集まった。
「みんなで勝手に話を進めないでくださいよ! これはあたしの話なんでしょ? スペクターズ・メディエーターになる、ならないの決定権はあたしにはないんですか?」
答えを求めて弥勒兄さんに顔を向ける。
「ないようだな」
その返事は非常に素っ気ない。
「そんなぁ! 説明もなしに決めないでくださいよ!」
――さっきは提案だったのに、なんでいつの間にか確定になっているの?
背の高い弥勒兄さんにあたしは精一杯背伸びして抗議する。
「文句なら葉子に言え。もっと早く結衣の目の話をしていれば、決定権くらいは残せただろうからな」
あたしの怒りの視線に耐えかねたのか、弥勒兄さんは視線をよーちゃんに投げた。
つられてあたしもよーちゃんを見つめる。
「よーちゃん! どういうことなのか説明してよ!」
「……はぁ。なんでこんなことになっちゃったのかしら」
珍しくよーちゃんはため息をつく。顔を伏せながら、彼女は呟いた。
「もっと早く、別のクラスになるよう仕向けるんだったわ……」
「よーちゃん!」
「はいはい。わかったから。説明するわ」
顔を上げると彼女は苦笑する。
「とりあえず、座らない?」
よーちゃんの提案にそれぞれ納得したらしく、思い思いの場所に移動する。
あたしは自分が寝ていたソファーに腰を下ろした。その隣には機嫌を直した典兎さんが座っている。正面によーちゃんとコノミが座り、花屋に繋がるドアの前に弥勒兄さんが立った。
「――簡単に説明するとスペクターっていうのは、特定の感情を糧にして超常現象を起こすことのできる存在を指すの」
諭すように切り出したのはよーちゃんだ。あまり気乗りがしないらしく、表情が暗い。
「葉子は『友情』、わたしは『儚い恋』をエネルギーにして様々な現象を発生させることができるんだよ」
コノミがそれに補足する。
「一般的には幽霊やお化け、妖怪、妖精なんて呼ばれ方をするけど、それらの総称ってところかしら」
「ふうん……」
――あんまり実感が湧かないなぁ。
「スペクターは感情を糧にしているから、強い想いが存在するところに自然と引き寄せられてしまうの」
――あたしの寂しいって気持ちがスペクターを呼び寄せてしまうんだっけ。そんなことをよーちゃんは言っていたよね。
「あ、そういえば、さっきはなんで種子になっていたの?」
よーちゃんが説明してくれたことからすると、そこには繋がらないはずだ。
「スペクターはエネルギー切れになると、この世界に存在する安定したものに姿を変えるのさ。彼女たちの場合はそれが植物の種子というわけ」
あたしの疑問に答えてくれたのは典兎さんだ。
――ってことは、みんながみんな種子になっちゃうわけではないのか。
「――詳しい話はこれから少しずつするとして、スペクターズ・メディエーターがなんなのかを教えておこうか」
今度は弥勒兄さんが主導権を握る。
それに合わせて、あたしは顔を弥勒兄さんに向けた。
「スペクターズ・メディエーターというのは、スペクターと人間の揉め事を平和的解決に繋がるように調整する職業のことだ。俺たちの場合、アロマテラピーを使って人間側の感情をコントロールし、それによってスペクターに供給されるエネルギーを軽減させることを主に行っている」
――なるほど、それで匂い袋が出てくるわけね。
「そんな都合もあって、スペクターを感じることのできる人間でないと仕事にならない」
言って、弥勒兄さんは典兎さんを一瞥する。
「実は俺もテントも集中状態にないとスペクターを感知できない」
「はぁ、そうなんですか」
――あ、それでさっき典兎さんが驚いていたのか。やっと納得。
「お前にスペクターズ・メディエーターに向いているみたいなことを言ったが、何も条件は感知の話だけじゃない」
「?」
――はて、なんだろう?
「最も必要とされるのは、姿や形に囚われず、本質を見抜き認める力だ。それがお前には備わっている」
「本質を見抜き認める力? ――いや、ナイナイ!」
あたしは両手を振る。一体弥勒兄さんは何を言い出すのか。
「僕も結衣ちゃんにはあると思うけど?」
――え? 典兎さんまで、なんで?
疑問に思いながらあたしが典兎さんに顔を向けると、彼は続ける。
「君は葉子ちゃんに対し、人間であるかどうかなんて関係ないと言ったよね? そういう感覚は誰もが持ちえるものじゃないんだよ」
「え? だって、よーちゃんが人間だろうとスペクターだろうと、よーちゃんという存在が変わるわけじゃないでしょ?」
「その通りなんだけどね」
――うーん、今ひとつわからないなぁ。
首をかしげていると、コノミがあたしの袖を引っ張った。
「結衣? あんた、葉子に対してはそんなふうに言っているけど、わたしやあおちゃんはどうなの?」
眉を寄せているのは怒っているからではない。きっと不安なのだろう。
――ん、待て。
「コノミは友だちだよ? いきなり襲ってきたのにはびっくりしたけどね。――ところで、あおちゃんって誰?」
あたしが訊ねるとコノミが左手を差し出す。そして手のひらを天井に向けた。
「この子だよ」
手のひらの上には小さな緑色のスライムがフニフニしていた。
「あ!」
「あんたの強い感情でバラバラにされちゃったから、今はこんなサイズだけど。――もう襲うことはないよ?」
コノミが言うように、緑色のスライムはおとなしくしている。敵意もないようで、コノミの手のひらからは決して外に出なかった。
「この子――あおちゃんは、コノミの何なの?」
「眷族ってやつ? わかりやすく言えば、しもべかな。これでも高位のスペクターだから、部下がいるんだよ」
言って、にっこりと笑う。
――高位のスペクターかぁ……。高位とかどうとかあたしには何が違うのかよくわかんないけど。
「――結衣の気持ちに感化されて暴走したのはそのコじゃないの?」
よーちゃんの冷やかな視線が長い前髪の間からコノミに向けられる。
「窓ガラスにひびを入れたのは御宅の部下じゃなかったっけ?」
あおちゃんを浴衣の袖にしまったコノミは、よーちゃんにムッとした声で返す。
「彼だけのせいにしないでくれる?」
――あれ? その言い方だと、よーちゃんにも部下がいることになるんだけど。
「よーちゃんにもあおちゃんみたいなコがいるの?」
今までよーちゃんとほとんどの時間を一緒に過ごしてきたが、彼女の周りでスペクターらしきものを見た記憶はほとんどない。
「一応いるわ。クラス替えのあとから結衣の護衛を頼んでいたんだけど――」
よーちゃんのその台詞を合図に、彼女の後ろからひょこっと顔を出したものがいた。
「仮にモックンって呼んでる。見たことあるでしょ」
「このコが?」
教室で見掛けた緑色の蜘蛛である。長い脚を振ると、彼はすぐに引っ込んだ。
「バレないように天井に引っ付いていたはずなんだけど」
「何回か見掛けたよ。なんだぁ、教えてくれても良かったのに」
「だって、結衣、怖いって言ったから」
ぼそりとよーちゃんは呟く。
――そんなこと言ったっけ?
記憶を遡ると、教室でうたた寝してしまったときのことを思い出した。あのときはあおちゃんに襲われた夢を見て――って、あれは現実にあった話なのか――気分が落ち込んでいたし、確かにそんなことを言ったような気がする。
「……あ、うん、そうだけど」
よーちゃんがそんな何気ない台詞を気にしていたとはあたしは微塵も思っていなかった。
――だとしたら、余計に自分の正体を隠そうとするよね。不安に思うよね。
彼女の涙のわけがわかったような気がした。
「よーちゃん、あたし、今まで無理させていたんだね。ごめんね、全然気付いてなくて」
「ううん、結衣は悪くない。私がもっと結衣を信頼していたら良かったんだもの」
あたしが謝ると、よーちゃんはこちらを申し訳なさそうに見つめて笑んだ。
「そんなに頼りなさそうに見えていたのかぁ。ちょっとショック」
確かにあたしはことあるごとによーちゃんに助けを求めていた。いつもよーちゃんはあたしのわがままを聞いてくれた。立場が逆になることはなかった。
――甘えてばかりだったもんなぁ……。そう思われても仕方ないっか。
コノミにもあたしが守られてばかりだと指摘されている。端から見れば誰の目にもそう映るのだろう。
「だから言っただろ? 結衣は多少のことじゃ動じないってさ」
あたしが軽く落ち込んでいると、弥勒兄さんが言う。
――何の話だ?
「だって……」
よーちゃんが弥勒兄さんの台詞を聞いて小さく膨れる。
「クラス替えのタイミングが遅すぎたって思っているだろ?」
――よーちゃんもさっき呟いていたなぁ。
「あのぉ、このこととクラス替えって、関係しているんですか?」
不思議に思って訊ねる。すぐに返事が戻ってきた。
「葉子が別のクラスになることを望んだのは、結衣に自立して欲しかったからなんだ。スペクターである以上、充分なエネルギーを貰ったらそれ相当の対価を支払う必要があるからな。つまり、このまま一緒に居続けるとお前はダメになる」
「そ、そんなことないもんっ!」
舌を噛んでしまっている辺りがすでにダメダメなのだが、あたしははっきりと言ってやる。
「だったら、もうちょっと感情のコントロールを身に付けておいてよ! スペクターとしては大迷惑なんだからね!」
突っ込みを入れてきたのはコノミだ。本気でそう思っているらしく、その台詞のあとに特大のため息をつく。
――んなこと言われても、急にできるようにはならないよ。
そんなやり取りをしていると、よーちゃんの家に繋がるドアがいきなり開いた。
――何?
「葉子!」
部屋に入ってくるなりよーちゃんを見つけると、その人物はいきなり彼女を抱き締めた。
「と、父さん?」
腕の中のよーちゃんは驚きで目をしばたたかせる。
入った来た人物、それは蓮さんだった。
「良かった。心配したんだよ? 今までどこに行っていたんだい」
「えぇ、ちょっと木倉コノミに拉致されていまして」
その台詞に蓮さんはそのごつい巨体をビクッと震わせた。
「……彼女に?」
「久し振りだねっ! 蓮」
隣に座っていたコノミが満面の笑みで声を掛けた。
「うあっ!」
どうやら蓮さんはコノミに気付いていなかったらしい。驚きの声を上げるとよーちゃんを離して飛び退いた。
「親父、知り合いなのか?」
弥勒兄さんに話しかけられて、蓮さんは今の状況を把握したようだ。きょろきょろとまわりを見て苦笑する。
「あ、いや、まぁ」
蓮さんは歯切れ悪く答えると、コノミが視界に入らないよう目を反らす。
その態度にコノミは口先を尖らせた。
「烏丸弥勒に会ったときは、あまりにも若い頃の蓮に似ていたんでときめいちゃったけど、まさか葉子が蓮の養女になっていたとは思わなかったよ!」
――ってことは、コノミが弥勒兄さんに興味を示したのは、弥勒兄さんが父親の蓮さんにそっくりだったから? 弥勒兄さん本人が好きというわけじゃなくって?
あたしがきょとんとしたまま見つめていると、落ち着かない様子で蓮さんは答える。
「木倉くん、これにはいろいろと事情があってだね――」
「事情? どんな事情だよ? 結婚の約束までしてくれたのに、それはないんじゃないかな?」
コノミの台詞に部屋の空気ががらりと変わる。
「け、結婚?」
「親父……」
典兎さんの驚嘆の声と弥勒兄さんの冷めた視線が蓮さんに向けられる。
よーちゃんはそこでため息をついた。
――あ、よーちゃんは二人の関係を知っていたんだ。
「木倉くん!」
全身を真っ赤にして蓮さんは怒鳴るが、コノミは涼しげな表情のままだ。
「いいじゃない、別に。若気の至りとか、昔の話だとか言ってごまかせば?」
――あれ? なんか計算がおかしくない? あ、でも、スペクターが妖怪とか妖精とかの類いなら、あたしよりずっと年上だったりするのかな? なら、コノミって何歳なんだろ? 蓮さんが女子高生に手を出しているところはさすがに想像したくない……。
「何を考えているんだ君は! 我が家の平和を乱すつもりなのか?」
語気荒く蓮さんは怒鳴る。
それに対し、コノミは愉快そうにケラケラと笑った。
「昔と変わらないねー、自分の恋愛話になると過剰反応しちゃうところ。スペクターズ・メディエーターをやっていて、しかもお弟子さんまでついている人がこんなことで精神乱しているんじゃ、先が思いやられるよ!」
声を立てて笑いながらコノミが指摘する。
――蓮さんもスペクターズ・メディエーターなんだ。弟子がいるというのは、弥勒兄さんと典兎さんのことを指しているのかな?
「――からかうな」
平静を取り戻したらしく短く言い切ると、蓮さんはあたしに視線を向けた。
「お見苦しいところを見せてしまったね」
「いえっ」
あたしは首を勢いよく横に振る。
――なんというか、弥勒兄さんの将来を見ているようで、より親近感が湧いてしまったんですが。
「木倉くんはね、私がスペクターズ・メディエーターになったばかりの頃のパートナーで、かれこれ二十数年前からの――って、結衣ちゃんはスペクターズ・メディエーターについてはわかっているんだっけ?」
話がすでについているのか、蓮さんはあたしがスペクターに関した話を知っていること前提で語り掛けてきた。あたしが気を失っている間に弥勒兄さんが話をしておいたのだろう。
「今、説明したところだ」
弥勒兄さんが蓮さんの疑問に答える。
このやり取りからすると、やはり相談くらいはしたのかもしれない。あたしがスペクターズ・メディエーターになることを弥勒兄さんは望んでいるみたいだから。
「ふむ。――で、結衣ちゃん、君はスペクターズ・メディエーターに興味はある?」
「えっと……」
「その気がなくっても修行させなきゃダメだよ!」
「木倉くん?」
あたしが返事に迷っていると、コノミが割り込んできた。
「でないと、蓮がわたしにしてきたあんなことやこんなことを暴露しちゃうよ!」
――あんなことやこんなこと?
全員の目が点になり、蓮さんに顔が向けられる。
「木倉くん! みんなが誤解するような言い方をしないでくれ!」
「え? いいのかなぁ? 若菜さんに話したら困ることもあるでしょ?」
「うぐっ……」
蓮さんの顔がみるみるうちに青くなる。ちなみに若菜さんとは蓮さんの奥さん、つまりよーちゃんと弥勒兄さんのお母さんのことだ。
――いや、コノミ。蓮さんを脅迫するのは可哀想だよ。
あたしはこれ以上見ていられなくて、返事をすることにした。
「――あたし、スペクターズ・メディエーターってお仕事がどんなものかまだわからないですけど、みんなが修行くらいは受けておけって勧めるんで、とりあえずそうしようかと思うのですが」
「――良いのかい? 生半可な気持ちじゃやれないことだよ?」
おずおずと片手を小さく挙げて自分の意思を伝えると、心配そうに蓮さんが確認する。
「はい。このままではいけないと思うから」
しっかりと頷いて答えたあとも、蓮さんはしばらくあたしの目を覗き込んでいた。
「――そう。迷いはなさそうだね。修行を認めよう」
――やったぁ。スペクターズ・メディエーターになれたら、よーちゃんのことをもっとわかってあげられるかな? 少しでもコノミに迷惑をかけずに済むかな?
「――但し」
あたしが少し浮かれていると、蓮さんは重い口調で続ける。
「恋愛は禁止だよ?」
「ふぇ?」
「えっ!」
驚きの声を上げたのはあたしだけではなかった。
「僕が修行を始めたときにはそんなこと言わなかったじゃないですか!」
抗議の声はあたしの隣に座っていた典兎さんからだ。
「君は比較的精神状態が安定しているし、自制もできるだろう? だけど、結衣ちゃんは女のコだからね。女のコの恋愛パワーって、相当精神状態が荒れるものなんだよ。感情のコントロールを身に付けるまでは、少し避けるべきだ」
優しい口調で蓮さんは説明するが、典兎さんはさらに続ける。
「精神面を支えるのが恋人の役割だと思います」
きっぱり言い切って、典兎さんは蓮さんを見つめている。一歩もひかない目だ。
――いや、典兎さん、もう良いって! なんか照れるしっ。
あたしが内心でどぎまぎしていると、さすがに蓮さんも彼がなんでそう言ってくるのかわかったらしい。にやりと口の端を上げた。
「おや、今日はなかなか食い付くねぇ。――ひょっとして君――」
「とにかく、恋愛禁止の方向で」
蓮さんの台詞に被せるように意見を出したのは、意外にも弥勒兄さんだった。
――ん? なんか、してやったりの顔をしているのが気になるんだけど。
「ミロク! てめぇ知ってて……あっ! それで修行しろと――」
「どうでもいいじゃねぇか。前向きに考えろ」
「卑怯な手を……」
典兎さんは隣でぶつくさ言っているが、あたしには理解できない。しかし、それを直接問うのはあたしの仕事じゃないような気がするので、口にするのは諦める。
「――恋愛禁止はわかりました。それで……修行って、具体的に何をするものなんですか?」
あたしの視界に不敵に笑う弥勒兄さんの見慣れない顔と、明らかにしょんぼりと気落ちしている典兎さんの姿が入ってきたが見なかったことにしよう。
「そうだね。――まずはここで働いてもらおうかな。早速、明日から」
「ふぇ? スペクターズ・ガーデンで働くんですか?」
「そう。植物と接して感情を落ち着かせることから始めよう」
――植物と接して感情を落ち着かせる……。
「仕事を覚えてきたら、ちゃんとバイト料を出すよ」
「ふぇぇっ? 給料をいただけるんですか?」
あたしがびっくりしていると、蓮さんはくすっと笑った。
「一応はね。だから真面目に働いてくれなきゃ困るよ?」
「はっはい!」
――ラッキー! これで金欠も解消っ。それにスペクターズ・ガーデンで働けるなんて夢みたい!
明日からの仕事が楽しみでウキウキしていると、コノミがビシッと片手を挙げた。
「ねぇ、蓮? わたしもそこに混ぜてもらえない?」
「え、木倉くんも?」
蓮さんはぎょっとした顔をコノミに向ける。
「嫌そうな顔をしないでくれるかな? 結衣の監視役とパートナー兼ねてそばにいたいの」
「それなら私がやるわ」
コノミの提案によーちゃんはすかさず割り込む。
「葉子はダメだよ。甘やかすに決まってる」
「そんなことないわ」
よーちゃんは落ち着きを払っていたが、コノミはそれを聞いてにやりと笑む。
「あれぇ、妬いているの?」
「妬く? そういうあなたは、結衣に近づいて、彼女からエネルギーを得ようって魂胆じゃないの?」
よーちゃんの指摘にカチンときたらしく、コノミは勢いよく立ち上がる。
「その台詞、そのまま返すよ!」
「ちょっと二人ともっ! けんかしないでってば!」
あたしは慌てて二人の間に入る。よーちゃんとコノミはそれに合わせてぷいと互いに横を向いた。
――よーちゃんとコノミは相性が悪いのかなぁ。仲良くしてほしいのに。
「はぁ……」
「なんか、君の回りは大変なことになっているようだね」
あたしのため息に蓮さんが苦笑して言う。
「だけど、楽しいですよ? 大好きな人たちに囲まれていますから」
素直な気持ちで答えると、みんなの視線が一瞬だけこちらに集まった。
――あれ? あたし、空気読めてない?
その様子がおかしかったのか、蓮さんはぷっと小さく吹き出して笑った。
「この店も賑やかになりそうだ。――木倉くんも葉子も働くことを許可しよう。結衣ちゃんのサポートを二人で仲良く行うこと」
「はいっ!」
「わかったわ、父さん」
二人は互いの顔を一瞥したあとにそれぞれ頷く。
――なんか、トゲトゲしているんだけど……。
大丈夫かなぁと心配しているあたしを無視して、蓮さんは弥勒兄さんと典兎さんに視線を向けた。
「弥勒と典兎くんは結衣ちゃんの指導を頼むよ。店の仕事とスペクターズ・メディエーターの仕事の両方を、彼女の成長に合わせて教えること」
「了解」
「……わかりました」
弥勒兄さんはいつもの表情で、典兎さんは浮かない表情でそれぞれ返事をする。
「――さて、結衣ちゃん?」
――あれ? まだあたしに何かあるの?
「はい?」
あたしが首をかしげて見上げると、蓮さんはにっこりと微笑んだ。
「改めて――スペクターズ・ガーデンにようこそ、結衣ちゃん。これからもよろしく頼むよ」
「はいっ! よろしくお願いします」
深々と頭を下げたあとに顔を上げる。みんなが笑っているのが目に入った。
――うん。みんなと一緒なら頑張れる気がするよ!
こうしてあたしは、スペクターズ・メディエーターの修行を受けることになった。このあともいろいろな事件があって大変なことになるんだけど、それはまた別の機会に。
《了》
ここまでお付き合いくださいましてありがとうございました!
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もしよろしければ感想を残していってくださいませ。
誤字脱字、誤用、矛盾の指摘も大歓迎です。
ではまたどこかで。