レモングラスの香り(2)
活動内容を訊きに来た一年生たちに部活の活動日や必要な道具などの説明をしているうちに下校時刻になった。
被服室の戸締まりを確認して昇降口に行くと、そこにはコノミがいた。彼女もこれから帰るところらしく、上履きを下駄箱にしまっているところだった。
「あれ? 先に帰ったんだと思ったのに」
あたしが声を掛けると、コノミはこちらを見てにこりと笑った。
「偶然だね! 手芸部に行っていたの?」
被服室のある管理棟に続く渡り廊下のほうから現れたせいだろう。
「うん。新入生に説明してきたところ。――コノミはどうしたの?」
彼女は帰宅部のはずだ。こんな時間まで学校に残っていることはそんなにないと思うのだが。
「図書室で調べモノだよ。ちょっと気になることがあってね」
「ふぅん」
あたしは下駄箱から靴を取り出して上履きをしまう。そろそろ校内放送が掛かる時間だ。
「結衣、途中まで一緒に帰ろ?」
互いに靴に履き替えたところでコノミが誘う。
「うん! もちろん」
誘われなくてもこちらから声を掛けるつもりだったし、コノミから断りの台詞を言われない限り、駅方面とあたしの家方面とに別れる十字路までは一緒にいるつもりだった。
あたしの返事にコノミは笑顔で応える。
そこで下校時刻を報せる放送が掛かった。あたしたちはそれに合わせるかのように学校を出る。
朝降っていた雨は完全に上がり、地面はすっかり乾いている。校舎を出たところで傘を置いてきたことに気付いたが、特に問題はないだろうとそのままにすることにした。
どうやらコノミは元気を取り戻したらしい。校門をくぐると聞き慣れてきた恋愛マシンガントークが炸裂する。
知らない女のコの名前や男のコの名前が次から次へと出てくる。校外に彼氏彼女を持つ人もいるようで、その学校名や人物名がぽんぽんと出てくるのには本当にびっくりだ。
――どんな方法を使ったらこれだけの情報が集まるんだろ?
あたしはそれが不思議でしょうがない。遅刻ギリギリに登校している様子や休み時間の過ごし方からは、学校で情報収集をしているとは思えない。放課後も比較的すぐに帰ってしまうようなので、やはり学校で聞いているわけではないのだろう。
不思議に感じながらも、なんだか知ってはいけないような気がして、あたしはずっと訊けなかった。
「――そうそう。一組の大崎君、二組の上野さんにコクられて付き合うことにしたらしいよ!」
「え?」
一組の大崎君といえば、よーちゃんに告白して振られた一年の頃の同級生だ。
「振られて傷心気味だったところに告白されたら、やっぱりオーケイしちゃうものなのかな? 二組の上野さんって、烏丸さんとは全然違うタイプだよ。知ってる?」
あたしは首を横に振る。同じクラスの生徒か部活で一緒の人しかよく分からない。
「そっか。上野さんって可愛いって感じのコだよ。きゃぴきゃぴしているっていうか。それに比べて、烏丸さんは美人系のミステリアスな雰囲気だもんね。大崎君の趣味はわからないよ」
納得のいかない顔をして腕を組む。
「試しに付き合ってみようって思っただけじゃないの?」
あたしは深く考えずに意見を言う。
「でも、そういうのって、告白した側からすると嫌じゃない?」
興味津々の様子でコノミは問いで返す。
「そう? よく相手を知らないのにすぐに断るのも失礼だと思うんだけど」
他に好きな人がいると言うならば断ってほしい。でもそうじゃないなら、告白するのにたくさんの勇気を使った分だけ、少しでも甘い想いをしたい。
――うーん、漫画を読んでいるときにはそう感じたんだけどなぁ。
今の自分の状況がふと重なる。
――よーちゃんには付き合えば良かったのにと言ったくせに、あたしってば……。
他人のことだと思えば無責任なことを言えるものだと感じ、深く反省する。そういう面でもよーちゃんは大人だなぁとつくづく思う。
「あぁ、なるほどぉ。場合によるかもね」
あたしがしみじみと振り返っていた一方で、コノミは何か気付いた点があったらしく、大きく頷いて言った。
「場合に?」
何が彼女の中で決着がついたのか分からず、あたしは首をかしげる。
「告白って、精一杯相手にアピールしたあとでするものだと思っていたから」
――ってことは、コノミは弥勒兄さんにアプローチしたことがあるのかな?
胸の奥でモヤモヤとしたものを感じ取りながら続きを待つ。
「そうなると、告白するときには自分のことを相手が知っていて当然ってことになるでしょ?」
「ふぅん……」
恋愛通のコノミの意見に、あたしはいろいろと思うところがあったが、それきりにした。分かれ道となる十字路に到着したのだ。
「――だから、好きでもないのに付き合うなんて、信じられないんだよ」
ぼそりと呟かれた低い響き。一瞬誰の声かわからなかったが――。
――コノミ?
あたしがコノミの横顔を見ると、暗く冷たい表情をした少女がいた。
「結衣? あなたはわたしといて楽しいと思ってくれてる?」
あたしの知らないコノミがいた。
「思っているよ?」
――なんでそんなことを訊くの?
「わたしのこと、好き?」
十字路に来ると立ち止まり、彼女は暗い瞳をこちらに向けた。
「好きに決まっているじゃない」
「じゃあ……――烏丸葉子とどっちが好き?」
「――え?」
あたしは言葉を詰まらせる。
――よーちゃんとどっちが好きかって?
「答えてよ」
彼女がいつも見せてくれる明るい笑顔はそこにはない。
――あたし、何か気に障ることを言っちゃったかな?
「そ……それは……」
じっとあたしの目を、真意を探るように覗き込んでくる。
――だってよーちゃんはあたしにとって特別な存在なんだよ?
「答えられない?」
彼女は口の端をきゅうっと上げて笑う。目は笑っていない。
「そりゃそうよね。あんたは烏丸葉子を誰よりも一番大切に想っているんだもの。わたしにこんな感じで迫られたら、黙るしかないよね?」
「な……何が言いたいの? コノミ……」
コノミはあたしのあごを指先でなぞる。
「わたしは彼女と同じようにしたつもりだったんだけど、あんたには違ったみたいね」
――あれ? 身体が動かない……。
コノミから感じ取れる殺気から逃れたいと思うのに、身体が言うことをきかない。
「……」
声を出そうと口を開くが、そこから漏れるのは空気だけで音はない。
「あなたが葉子に向ける想いを自分に向けさせようとあんなに努力したのに、全然うまくいかなかった」
――何のこと?
言っている意味がわからない。
「葉子の名を出したらすぐに反応するのにね、不公平だよ」
彼女の背後に緑色のモヤモヤとしたモノが膨れ上がるのが見えた。
「――あ」
あたしの視線がコノミの後ろを見ていたからだろう。あたしから指先を離すと肩口から背後に目を向ける。
「なんだ、結衣はこれが見えるんだ」
なんでもないことのようにコノミは言う。
――コノミにも見えているってこと?
次から次へと話が転がるせいで、あたしは混乱しつつあった。本能的にコノミから離れるのが精々あたしにできたことだ。
「見えていたなら言ってくれたら良かったのに。何で言ってくれなかったの?」
「また……嫌われると思ったから……」
よーちゃんとの約束もある。不用意にあたしが見える彼らの話はしないという約束が。
その約束を破ることは、そばにいてくれる人たちを失ってしまうこと、そばに来てくれた人たちを遠ざけてしまうことに繋がる。何よりも、この約束はよーちゃんと交わした初めての約束だ。それを破ったと知ったら、彼女はどう思うだろうか。どんな行動をするだろうか。
「嫌われるって? どうして?」
「前に話したら、みんながあたしを変なコだって……」
みんなはあたしを遠ざけた。嘘つきだと言った。
「大丈夫だよ。そのときはわたしが守るから」
「!」
「ずっとそばにいるから」
コノミはあたしにすっと手を差し出す。
しかしあたしはその手をすぐには取らなかった。
「クラスのみんなが結衣を除け者にしようとしても、わたしはそばに残るよ?」
クラスメートから冷たい視線を向けられたとき、コノミはあたしをかばってくれた。まわりの意見を訂正して守ってくれた。
――だけど……!
「――ううん、嬉しいけど、それじゃいけないんだ」
あたしは彼女の手を取らない選択をする。
差し出されたコノミの手が震えているのがわかった。
「なんでよ! 葉子には求めるくせに!」
彼女の背後にあった緑色のスライムが大きく膨張し、こちらに向かって襲いかかってくる!
「な!」
あまりにも咄嗟のことで避けきれない。
――助けて! よーちゃん!
「――そうそう。葉子ならわたし、処分したから。もう帰ってこないよ?」
――よーちゃんは……戻らない?
胸の奥底で何かが湧き上がったのを感じた。
「よーちゃんに何をしたのっ!」
あたしが怒りに任せて怒鳴ると、緑色のスライムが四散した。湿った身体は、しかし地面に跡を残すことなく消え去ってしまう。
コノミの驚きで目を見開いた表情が目に入った。
「なっ……どうして? 守られてばかりのはずじゃ……」
動揺しているようだ。彼女はこちらを見つめたまま、一歩後ろに下がった。
「コノミっ! よーちゃんを処分したって言ったけど、どういう意味? 彼女は病気で寝込んでいるんじゃないの?」
「――ふふっ」
あたしの問いに、コノミは視線を一度足元に向けると不敵に笑む。
「結衣? いいことを教えてあげるよ」
「よーちゃんは今、どうしているの?」
今はただ、よーちゃんの安否を知りたい。病気ではないのだとしたら、一体彼女はどうしているというのか。
――烏丸家の面々があたしに嘘をついているってこと? でも、どうして?
しかし、コノミが告げたのは思いもしない告白だった。
「烏丸葉子は人間じゃないよ?」
――よーちゃんが……人間じゃない?
「嘘だ! そんなデタラメを言うなんて酷いよ!」
よーちゃんには不思議な力があるけど、それでもあたしと同じ人間だ。あたしだって、みんなには見えない奇妙な生き物を見られるのだから。
「デタラメなんかじゃないよ? ――だってわたしも彼女と同じ、スペクターなんだから」
妙に冷めた声でコノミが言うと、彼女の姿がぐにゃりと歪んだ。
――スペクター?
花屋の名前ではなくって、別の意味としてどこかで聞いたことがある。
『――キミの寂しさはスペクターを呼び寄せる』
脳裏によぎる声。この台詞を聞いたのはいつだったか。
――そうだ。この台詞は、あたしとよーちゃんが出会ったときに、彼女が告げたこと。その日以来、スペクターなんて単語は聞かなかったから、記憶違いか聞き間違いだと思って特に考えなかったけど……。
「葉子はもう少し様子を見るべきだって言ったけど、もう待ってはいられないよ! 結衣がわたしのことを想ってくれないなら、ここで消えてちょうだい!」
苔のような質感の肌に包まれたコノミは、さっきまで右腕であった部分をこちらに素早く振り下ろす。瞬間、指先が蔓に変化しあたしへと伸びてきた!
――な、なんなの?
全くよくわからない。夢を見ているのではないかと錯覚する。
――それに、なんで人も車も来ないの?
なんとか最初の一撃をかわすと、あたしは自宅に向かって走り出す。それでやっと街の異変に気付いたのだった。夕方のこの時間帯にしては静かすぎる、いや、人の姿が全くないのだ。緑色のスライムに襲われた日の放課後、教室にもその廊下にも人がいなかったのに似ている。
「コノミっ! なんで? あたしたち、友だちでしょ?」
続いて繰り出されたコノミの左腕からの攻撃も寸前でかわす。全力で走っているが、コノミとの距離は拡がらない。
「友だちだからだよ?」
「へ?」
コノミの気持ちがますますわからなくなる。
右側と左側から同時に蔓が迫ってくるが、これもギリギリかわせた。
――ふぅ……危なかったぁ……。
ほっとしている場合ではない。次の攻撃が足元に伸びている。
「結衣は鈍感なんだよ! 葉子や烏丸弥勒たちに護られている状況を当然だと思っているでしょ?」
「そ、そんなことないよ!」
――弥勒兄さんがあたしを護ってくれている?
伸びる蔓を再びかわしきると、その蔓はすぐに縮んで腕に戻る。
「少しでもそれを理解してくれていたら、少しでも自分でどうにかしようとしてくれていたら、わたしがこんなことをしなくてもよかったのに!」
一体何のことを言っているのだろう。どうしてあたしを殺そうとするのだろう。
「落ち着いてよ! もうやめようよ!」
走りながら振り向いてコノミに向かって叫ぶ。
「あんたが消えてくれたら、やめてあげるっ!」
彼女にはあたしの想いが届かないようだ。怒りに満ちた顔をこちらに向けているのが目に入った。
「だったらよーちゃんに会わせてよ! どうしているのか知っているんでしょ!」
「だから処分したって言ったでしょ? 大体あんたが悪いんだからね! そうやって葉子を頼るんだもん」
言って、コノミは笑う。
――ゴメンね、よーちゃん……。あたしのせいで……。
「なんでそんな顔をしているの? よく考えてみなさいよ。葉子はあんたに隠し事をしていたのよ? 裏切られたとは思わないの?」
――隠し事。
コノミの指摘に、あたしの足は自然と減速した。
それを待っていたかのように、彼女の指先が変化した緑色の蔓があたしの四肢に巻き付く。
「あっ……」
絡まる蔓に足を取られ、あたしはアスファルトの上に転がる。肩に掛けていたスポーツバッグが道路を滑って離れてしまった。
「捕まえたよっ!」
すでにあたしは身動きが取れなくなっていた。転がった勢いで横向きになったあたしの視界に、夕陽に照らされて赤黒く見えるコノミが入ってくる。
「ほんと、どうしてあんたは葉子ばかり考えるの? わたし、よくわかんないよ」
蔓が首に巻き付いてきた。温もりを持つその蔓の感触がとても気持ち悪い。
「――よーちゃんは怖かっただけなんだと思うよ?」
一生懸命視線を上げて、コノミを見る。首もよく動かせないが、なんとか彼女の表情は覗けた。
「は?」
「よーちゃんがあたしに隠していたのは、あたしがそれを知ったら離れて行ってしまうんじゃないかと不安だったからじゃないのかな?」
――よーちゃんがあたしを裏切ったなんてどうしても思えないよ。だってよーちゃんは……。
「それはあんたの勝手な想像でしょ? 自分に都合が良いように脚色しているだけだよ」
「ううん、違うよ」
鼻で笑うコノミを前に、あたしはきっぱりと断言する。コノミが返してくる前にあたしは続けた。
「あたしがこの瞳のことを隠していたのと同じことなんだよ。友だちを失うのが怖いから、言えなかったんだ」
「そう? ――それなら、あんたは葉子に見くびられていたってことよね。正体を知られたら、そばにいてくれない相手だと思われていたんでしょ?」
コノミはあたしに哀れみの視線を寄越す。
あぁ、なんて可哀想なコ。
その瞳は誰から向けられてもツラい色を持っている。何度も何度もあたしはそれを見てきた。その度によーちゃんに助けを求め、慰めてもらった。
――だけどね。
あたしが彼女を求めたのは、彼女が優しかったからでも、甘えさせてくれるからでもないのだ。彼女がいつもそばにいてくれたからでもないのだ。
――それだけじゃ、あたしたちは一緒にいられないんだよ?
真っ直ぐにあたしはコノミを見つめて答えた。
「よーちゃんは、コノミが思っているほど強い女のコじゃないよ?」
「!」
絡まっていた蔓が緩んだ。あたしはその隙に上体を起こす。
「彼女は、自分の弱さをわかっていたから、あたしのそばにいてくれたんだよ? そうじゃないと、こんなあたしのそばにずっといてくれるわけがないもの!」
「な、なによ、それ……!」
蔓に再び力が込められる。
「うぅっ」
腕を動かして、首に絡まる蔓だけでも外そうとしたが、手を伸ばしたところで阻まれる。
――苦しい……!
「……コノミ……もうやめようよ……」
あたしは動ける範囲でコノミに手を伸ばす。
――お願い、コノミ。こんなことは無意味だよ。
視界が薄らいできた。輪郭のない赤い世界が広がっているように見える。
――ここであたしを殺してしまったら、あなたは……。
「――はい、そこのお嬢さん。ちょっとお待ちなさい」
遠くから響く声。
――誰……?
聞き覚えのある声と口調。この優しげだが人をおちょくるかのような話し方は、あの人しかいない。
「そうでないと、君の可愛らしい身体を傷付けなくてはいけなくなる。それがツラい――と、隣の大男が言っているけど?」
――典兎さん? しかも、弥勒兄さん付き?
背後から聞こえてきた声は典兎さんのものだ。だとすれば、彼の台詞に出てきた大男とは、弥勒兄さんだとしか考えられない。
――助けに来てくれたの?
あたしの心に感謝と申し訳ない気持ちがじんわりと広がっていく。
――典兎さん、弥勒兄さん、ありが……。
「――葉子はどこだ?」
地面に響く低い音で聞こえてきたのは、弥勒兄さんの声。
――って!
「あたしの心配をしてよっ!」
弥勒兄さんの台詞に面喰らったのはあたしだけではなかったらしい。首をきりきりと締め上げていたはずの蔓がふっと緩み、あたしの抗議の叫びが通りに響いていく。
――なんで? どうして? 今、ものすっごくカッコイイ場面だったんじゃないの?
「ミロク! てめぇ、なんで第一声がそれなんだ? 次からシスコンって呼ぶぞ!」
「烏丸弥勒……」
典兎さんとコノミの双方から呆れを隠さない台詞が飛んでいく。あたしの意見は多数派のようだ。
「――お前も、冗談ならそこまでにしておけよ」
面倒くさそうな、それでいながら怒気を帯びた声でコノミを威嚇する。外野は無視らしい。
――あれ? あたしは当事者だったのでは? もうすぐ被害者になるところだったけど。
「なんのことかな?」
コノミはあたしを引き寄せると、しらばくれる。
――あれれ? これはあたし、人質のポジション?
巻き付いたままの蔓であたしは思うように動けないままである。
「そのケータイのストラップ、結衣が作った物だろう?」
――え? どこ?
自由な目を彼女に向けると、スカートのポケットの辺りからストラップが顔を出していた。
――青い小鳥のマスコット……。
それは弥勒兄さんが指摘するように、あたしが彼女にあげたものである。
「だからなに?」
コノミはあたしの身体に腕を回し、さらに拘束をきつくした。あたしを盾にするつもりなのだろう。
「気に入っているから、着けているんだろう? ここでお前が結衣に怪我を負わせるようなことをしたら、それを見る度に思い出すことになるぞ」
「そ……そのときは外すよ!」
コノミの戸惑う声。
「どうかな?」
弥勒兄さんの声には威圧感がある。普段聞く声とは別物だ。
「実際に直面してみないとわからないよ」
コノミがすっと息を吸って気持ちを整えているのがわかった。この距離は彼女の息遣いをはっきりと感じられる。
「そうしたらどうなるか、わかるだろう?」
「!」
怯えているのが、彼女の身体が震えたことで伝わってくる。
――なんか弥勒兄さん、すっごくお怒りのようなんだけど。
「虫除け程度のものじゃ済まさねぇぞ」
声は淡々としているが、それは脅しである。あたしに向けられた台詞ではないのに、それでも恐ろしく思えるほどの怒りの感情が込められていた。
「それはもう攻略したもん! 怖くなんかないよ!」
「そうか……交渉決裂となったのが残念だ」
がちゃがちゃと瓶がぶつかり合うような音がする。コノミと抱き合うような状態になっているあたしの位置からは二人の姿が見えず、彼らが何をしているのか音からしかわからない。
――えっと、あたしはどうしたら……?
「――あー、親切だと思って言っておくけど、今日のミロクは不眠で気が立っているから加減しないと思うよ?」
典兎さんの苦笑まじりの助言。
――何が始まるというの?
そもそも、割り込んできたはずの二人はこの状況に対して動じた様子はない。ケンカの仲裁に入ったような感じである。あたしからはコノミが異形のモノに見えるけれど、典兎さんや弥勒兄さんからはそう見えていないということだろうか。
――だとしたら、あたしの身体に巻き付いて離れないこれらの蔓はどう見えているんだろ? あたしが金縛りにあっているように見えるのだろうか?
「――お仕置きの時間だ」
弥勒兄さんの低い声が道路に響き渡る。それと同時にレモングラスの香りが一面に広がった。
「ひっ!」
コノミの短い悲鳴。
「結衣ちゃん、あんまり吸い込まないようにしてね」
典兎さんの声がやや遠くから聞こえる。
「す、吸い込まないようにって……?」
何が起こっているのかさっぱりわからない。今朝、弥勒兄さんがくれた匂い袋と同じ香りに包まれていることだけは理解できる。
「ゆ、結衣を巻き込んでいるけど、そんなことしていいのっ!」
焦りの感情を隠すことなく、コノミは弥勒兄さんがいるだろう方向に叫ぶ。
「結衣はそこまで弱くない。耐性はあるはずだ」
足音がこちらに近付いてくるのがわかる。普段の歩き方よりもずっしりしているような音だ。
「――あ! あのポプリ、まさか……」
――ポプリ?
コノミは悔しそうに顔を歪め、あたしを抱き締めたままじりじりと後退する。
――まぁ、あたしからすれば前進なんだけど。
「葉子の入れ知恵ではあるがな」
地面を蹴る音。着地音はあたしのすぐ後方。一気に間合いを詰めたようだ。
――えっと……、話についていけてないんですが?
彼女のいうポプリには、典兎さんがあたしにくれたバラの香りを中心としたポプリも含まれているのだろうか。
よーちゃんは弥勒兄さんと典兎さんに同じ依頼をしたようだった。そう、ポプリを作ってあたしに渡すように、と。それで彼らはあたしにポプリを用意してくれたのだ。
――ん? その認識はどこまで合っているんだろ?
誰かに解説してもらえないかなと思っていると、後ろからガシッと肩を掴まれた。
「はうっ」
典兎さんにからかわれていたときに、弥勒兄さんがあたしを引き離そうとしたことがふと脳裏をよぎる。
「さすがにこの距離からだと、逃げられないだろう?」
弥勒兄さんの声が耳元で聞こえる。
そしてあたしの口が塞がれた。
――え? なんで?
口元をハンカチで押さえられて息苦しい。そのハンカチからは甘い花の香りがした。
――なんか、意識がぼんやり……。
視界に香水の瓶のようなものが入ってきたが、輪郭が定かではない。
「悪く思うなよ」
スプレーが噴射されるような音を最後に、あたしの意識は途絶えた。