レモングラスの香り(1)
翌朝。
シトシトと雨が降る中、傘を差して通学路を歩く。いつも通りにスペクターズ・ガーデンの前に抜ける道を行くと、店の前に立っている人影が見えた。
――あれ? 店が開いてない……?
普段ならこの時間は開店準備をしているので、シャッターが完全に下りているのは珍しい。
「おはよう、結衣」
「おはようございます。弥勒兄さん」
店の前に立っていたのは弥勒兄さんだった。
「よーちゃんは今日もお休みですか?」
「あぁ。――すまんな。葉子のやつ、なかなかよくならなくて」
疲れの出ている顔で、弥勒兄さんは言う。
「いえ。――弥勒兄さんも、ちゃんと休んでくださいよ? 顔色が悪いです」
あたしが指摘すると、弥勒兄さんは目を大きく見開き、それをごまかすようににこっと笑んだ。
「お前に心配されるようじゃ、結構面に出ちまっているんだな」
「もうっ! そういう減らず口を叩いている場合ですか? 典兎さんも心配していましたよ?」
「アイツのあれは、心配性なだけ」
そう答えて、弥勒兄さんは笑う。
――なんか、そういう態度をされると余計に心配になるんだけど。
「――今日は一日店を閉めて、家族でゆっくり休むことにした。だから、心配するな」
――よーちゃんが倒れると烏丸家は共倒れになるんだなぁ。
あたしの知る限りでは、よーちゃんがこんなに寝込んだことはない。彼女と会わない日々が続いたのもこれが初めてのように思える。
「身体は大事にしてくださいね」
「わかってる」
あまり長居をしていても仕方がないので、そろそろ出ようかと身体の向きを変える。
「――わざわざこんな雨の中、待たせてしまったみたいですみません」
「壁に臨時休業の貼り紙を貼るついでだから」
言って、肩口の辺りの壁を指す。そこには本日休業と書かれた紙が貼り付けてあった。
「あぁ、なるほど」
昨朝は閉店時間が早まる報せを貼り付けていたことを思い出す。
――あたしを待つついでに、紙を貼りにきたということはないよねぇ?
何故かそんなことを疑う自分に、その思考のおかしさで笑ってしまう。
――自意識過剰もいいところね。
「じゃあ、行ってきます」
あたしは意識して笑顔を作ると、片手を小さく振って歩き始める。
――あれ?
いつもなら「行ってらっしゃい」と背中にぶつかる声がしない。
――倒れてしまったんじゃ……。
あたしは不安になって、傘を動かし後ろを見る。
「ふぇっ?」
真後ろに弥勒兄さんが立っていた。
びっくりし過ぎて、心臓がバクバクしている。
――気配も音もなかったんだけど。
「これ、お前にやる」
濡れるのに傘も差さず、弥勒兄さんは握り拳を作った手をあたしに出した。
「あ、あたしに?」
訊くと頷くので、あたしはそっと右手を出す。
弥勒兄さんの大きな手の中から、あたしの手の中に移ってきたのは小さな袋。口に緑色のリボンがつけられたオレンジ色の匂い袋だ。
「え? なんで?」
あたしは受け取ってまじまじと見たあと、視線を弥勒兄さんに向ける。
「虫除けだ」
「虫除け? 確かにもう春だけど、虫除けが必要な季節はまだ先じゃ……?」
レモンやグレープフルーツのような柑橘系のさわやかな香りがした。
――虫除けってことは、レモンみたいな香りはレモングラスかな?
庭にハーブを植えようということになったとき、お母さんが虫除けになるからレモングラスが欲しいと言っていたのを思い出す。結局そのときはレモングラスがかなり大きく育つらしいと聞いて諦めさせたのだが。
「いいから、受け取っておけ。そんで、できるだけ身につけていること」
弥勒兄さんにしては珍しい注文だ。だから何か意図があるんだろうけど、それがちっとも思い当たらない。
「よくわかんないんだけど……」
「わからないなら、それでいい。――引き留めて悪かった。行ってこい」
「う、うん……」
腑に落ちないが、時間は迫っている。渋々あたしは頷いて、もう一度手を振った。
「じゃあ、改めて行ってきまーす」
弥勒兄さんは手を振ると、すぐに店の裏に回って姿が見えなくなってしまう。
「さてと」
あたしは右手に弥勒兄さん特製の匂い袋を、左手に傘の柄を持って学校に向かった。
あっという間に昼休み。
ひびの入った窓ガラスには模造紙が貼られていて、それを見ると落ち着かない気分になる。今週末には新しいガラスになるらしい。
窓際のあたしの席にやってきたコノミは、来るなり不思議そうな顔をした。
「どうかした?」
席に着く前から、この学校で最速と思われる恋愛情報を話し出すコノミが今日は黙っている。
「昨日とは違う匂いがする。シャンプー変えたの?」
あたしの前の席の椅子を借りてコノミは座りながら問う。
「ううん、これは――」
言いかけて、あたしははっとする。
――コノミは弥勒兄さんのことが好きなんだよね。彼から貰ったって言ったら、誤解されるかな?
「なぁに?」
「新しいポプリの香りだと思うよ」
誰から貰ったのかは隠すことにして、あたしはポケットから弥勒兄さんがくれたオレンジ色の匂い袋を取り出す。ちなみに、典兎さんから貰ったポプリはスポーツバッグの中だ。
コノミに差し出したが、彼女は受け取らずに視線を向けるだけだった。
――ん?
「……えっと、レモンの匂いがちょっと苦手で」
言って、コノミは舌をちょこっと出した。
「あ、そうなんだ。ごめん、知らなかったから」
「ううん! 謝ることじゃないよ」
彼女はにっこりと笑って言ったが、少し顔色が悪そうに見えた。あたしは慌ててポケットにしまう。
――レモンの香りが苦手なんて、ちょっと珍しいなぁ。
比較的ありふれた香料だと思っていたあたしには、少々意外だった。
「さあ、一緒に食べよ!」
コノミは見慣れてきたサンドウィッチをメインにしたお弁当を広げる。
「うん!」
あたしもお母さんの手作りのお弁当を広げる。蓋を開けると、今日も彩り豊かなおかずがぎっしりと入っていた。
――あの朝の忙しい時間に、よくこれだけのものを作れるよなぁ。
要領の悪いあたしには倍の時間をかけても無理だろうな、なんて思いながら手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます!」
食べ始めるが、今日のコノミはおとなしい。いつもの恋愛マシンガントークはなかなか始まらない。
「――大丈夫?」
昨晩見たテレビ番組の話が終わったところで、あたしはふと訊ねる。
「あぁ、うん。平気だよ!」
「そう?」
「ちょっと昨夜は夜更かししちゃったから、きっとそのせいだよ」
そう答えたコノミだが、あまり食事も進んでいないようだ。話しながらでもペースを落とすことなく食べるのに、今日はほとんど黙っているにもかかわらずちっともサンドウィッチは減らない。
「ひょっとして、匂い袋の香りがキツい?」
慣れてしまったのか、あたしはその香りが気にならない。元々柑橘系の香りが好きだということもあるのだろう。
とはいえ、苦手な香りならどんなに僅かであっても気になるものだと思う。コノミはそういうタイプなのかも知れない。
「そ、そんなことないよ!」
その慌てっぷりにあたしは引っ掛かりを感じる。
「無理しなくていいんだからね?」
「うん。心配してくれてありがと。わたしは平気だから」
明るい笑顔が無理をしているようにあたしには映る。でも、彼女がそう言い切るのだからと、これ以上話題にはしなかった。
放課後になった。
普段ならホームルームが終わるとこちらにやってきて、一緒に帰ろうと誘ってくれるのに、彼女は来なかった。コノミは自分の荷物をバッグに詰め終えると、こちらを向き片手で「ゴメン」のジェスチャーをする。あたしが「気にしないよ」と手を振ると、ぴょこぴょことよく跳ねるポニーテールをこちらに向けて去っていった。
――今日は何か用事があるのかな? それとも、弥勒兄さんの虫除けがかなりキツいのか……。
虫除けなのに、友だち避けになってはいないかと非常に不安になる。
――しかし、なんで今ごろ虫除けなんか……。
さっぱり弥勒兄さんが考えていることがわからない。
――ま、深く考えたところで、わからないものはわからないけど。
木曜日なので今日はちゃんと部活に顔を出しておこうとスポーツバッグを手に取る。
その瞬間、異質なものが目に飛び込んできた。
「!」
窓ガラスに貼られて模造紙に、巨大な蜘蛛が張り付いている。
――これは前に……。
この教室で何度か見掛けたことのある緑色の巨大蜘蛛である。まだ残っているクラスメートたちが騒がないところを見ると、これが見えるのはやはりあたしだけのようだ。
――何にもしてこないよね?
全く動いていない。それで安心したあたしはバッグを掴むと、緑色の蜘蛛を無視して教室を出た。
――だけど、なんでこんなところに……?
気になって廊下から教室を見たときには、その蜘蛛はいなくなっていた。