欠席(3)
翌朝、あたしはいつもより早めに家を出た。
昨夜はよーちゃんに電話をしてみたが繋がらず、仕方がないので弥勒兄さん電話をして様子を聞いた。病院に行ったところ、薬を飲んでゆっくり休めば回復すると言われたそうだ。どうやら空気感染するらしく、直接会いたいと言ったあたしを弥勒兄さんは説得し、お見舞いのマスコットを届けてもらう約束をして我慢することにしたのだった。
「おはようございます」
店の窓ガラスに紙を貼り付けていた弥勒兄さんに声を掛ける。
あたしに気付いたらしい弥勒兄さんはこちらを向くとニコリと笑む。
――あれ?
「おはよう、結衣」
「弥勒兄さん、寝ていないんじゃありませんか?」
「え?」
顔色が青い。目の下に隈がうっすらとできている。それ以上に、普段あんまり笑顔を見せない弥勒兄さんが笑って見せるというときは、何か大きな心配事を抱えていることを如実に表しているのだ。
――本人は気付いていないようだけど、これだけ一緒にいればあたしでもさすがに見抜けるよ。
「顔色が悪いですよ。大丈夫ですか?」
「そうか?」
弥勒兄さんは笑ってごまかす。
――何か隠している?
あたしは疑問に思ったが、弥勒兄さんから無理に訊くこともないだろうと判断する。
視界に弥勒兄さんが貼っていた紙が入った。
――この紙……。
それが店に関したお知らせであることがわかると、あたしは再び視線を弥勒兄さんに向けた。
「今日は早じまいなんですか?」
午後五時には店を閉めると書いてある。スペクターズ・ガーデンは午後八時まで営業しているはずだ。
「あぁ。親父が『葉子が心配で働けない』とか言い出した上に、テントも都合がつかないらしくてな。どうせ繁盛している店でもないし、早めに閉めてしまおうかって」
――繁盛していないってことはないと思うけど……。あ、でもあたしが遊びに行く頃にお客さんがくることはあんまりなかったかな?
「……そんなによーちゃんの具合、悪いんですか?」
「親父が大げさなだけ。ほら、葉子って丈夫なコだろう? そんなアイツがいきなり倒れたものだから、家族そろっててんやわんやなわけ。――心配させて悪いな」
「いえ」
あたしはよーちゃんの心配よりも弥勒兄さんのことが気になっていた。
――いつもより饒舌だよ?
弥勒兄さんがあたしに隠し事をしているのはほぼ確定。しかし何を隠しているのだろう。よーちゃんの心配をするあたしを安心させようとしていると考えるには少々オーバーのように感じる。
「そだ。――これ、昨日話したお見舞いです。よーちゃんに渡してください」
スポーツバッグの中から小さな紙袋に入れたマスコットを取り出す。
「了解」
弥勒兄さんは紙袋を大事そうに受け取った。
「あと」
さらにあたしはスポーツバッグの中から別の紙袋を取り出す。
「これは弥勒兄さんに」
「俺に?」
差し出すと、弥勒兄さんは不思議そうな顔をした。
「この前、車で学校まで送ってくれたお礼ですよ」
「あぁ、あれか。そんな気を遣わなくても良いのに」
「いつもお世話になりっぱなしで、何もお返しできないから」
あたしがにっこりと笑顔を作ると、弥勒兄さんは照れたのか視線をわずかにそらした。
「別にお前に何かを求めたりしねーよ」
「それじゃあたしの気が収まりませんから」
「……ありがたくもらっておく」
差し出したままの紙袋を弥勒兄さんは受け取ってくれた。
――いっつも素直に受け取ってくれないんだよなぁ。あげるってこっちが言っているんだから、すぐに受け取ればいいのに。
「――典兎さんにもあるんですが、今日は来ますか?」
「は? テントにもあんの?」
――なんでそんな嫌そうな顔をするのよ。
「ポプリのお礼ですよー」
「あれは葉子が注文した品だろ? アイツには要らないって」
「じゃあ、家まで送ってくれたお礼」
「……」
それは俺が指示したからだと切り返してくるかと思ったが、弥勒兄さんはあたしの顔を面白くなさそうな表情で見つめるだけだった。
「直接渡したいんですけど、いらっしゃいますか?」
「――さぁ、ちょっとわからんな」
不満なのか、声があからさまに機嫌を損ねたときのものになっている。
「シフトには入っているんですよね?」
典兎さんは朝の開店準備と夕方から閉店までのどちらかのシフトに入っている。朝いないのなら、夕方に来るのだろうか。
ちなみに日中はよーちゃんのお母さんやパートのおばさんが働いているらしい。滅多に顔を会わせないけど。
「一応はな。――気になるなら、電話なりメールなりしてみれば良いじゃないか。知っているんだろう?」
なんとなく弥勒兄さんの台詞はトゲトゲしている。
――典兎さんの名前を出すまでにこにこしていたくせに……。
「そりゃもちろん知ってますよー。――で、弥勒兄さん、何が気にくわないんです?」
「どういう意味だ?」
「典兎さんの話をしたら、いきなり不機嫌になりましたけど?」
典兎さん風に訊ねてみる。わざとらしく言うのがコツだ。
「そんなことねーよ。――ったく、お前はさっさと学校に行けよ! 遅刻するぞ」
あたしは言われて携帯電話のディスプレイを見る。だいぶ長いことお喋りをしていたようだ。早めに出て余裕があったはずの時間はもうない。
「むぅ……そうですね。そろそろ行かないと遅刻します」
携帯電話をバッグに押し込み、弥勒兄さんを見る。まだ不機嫌そうな顔をしている。
――ふぅ。地雷踏んじゃったかな?
あたしは心の中でため息をつく。
「そのマスコット、必ずよーちゃんに渡してくださいね! 行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
渡した紙袋を片手にまとめ、空いているほうの手であたしに手を振ってくれる。それがちょっとだけ嬉しかった。
朝の教室は重い空気が漂っていた。
みんなの視線があたしに集まり、それぞれに散ったかと思うとひそひそ話が始まる。
――うー……。嫌な空気だなぁ……。
コノミはまだ来ていないらしい。つまり、彼女からの弁解は済んでいない。
あたしは用心しながら自分の席に向かう。窓際にある自分の席がやたら遠くに感じた。
――今日は来るようなことを言っていたけど、本当に大丈夫なのかな?
自分の机にスポーツバッグを置く。
自然とコノミの席に視線を向けてしまう。鞄がないことからまだ彼女が登校していないことがわかった。
――まぁ、いつもコノミは遅刻ギリギリにやってくるんだけどね。
そんなことを思っていると、チャイムが鳴り始めると同時にコノミが入ってきた。
「はぁ、良かったぁ! セーフだね」
パタパタと小走りに教室中央の彼女の席に移動する。
「怪我の具合、どう?」
あたしが声を掛ける前に、コノミの隣の席に座っている少女が話し掛けた。
「大丈夫。みんな大げさなんだよっ。ちょっと打撲しただけだって。骨に問題はなかったよ?」
コノミは明るくはきはきと答える。本当になんでもなかったような様子に、あたしはほっと胸を撫でおろす。
「本当に? みんな心配したんだよ?」
言って、彼女はあたしに冷たい視線を一瞬向けて笑顔を作る。
このクラスの輪を乱したのは確かにあたしだ。だけど、どうしてそこまで目の敵にされなきゃいけないのだろう。
あたしはスポーツバッグの中からコノミに用意した紙袋を取り出す。
「ありがと。――あと、みんな誤解しているみたいだけど、あれはわたしが足を滑らせただけなんだよ? そういう目で、わたしの友だちを見ないでくれる?」
「……」
にこやかな表情で、それでありながら凍える低い声でコノミは注意した。
隣の席の少女は固まっている。怯えているように見えた。
その様子に、あたしの背筋に冷たいものが流れる。
――あたしのことをかばってくれたのに、こんなこと思っちゃダメだよ。
必死に気持ちを切り替えて、あたしはコノミの席に向かう。
「コノミ、昨日はすぐに手を貸してあげられなくてゴメンね。何が起きたのかすぐにわからなくって」
さりげなく声を掛けたつもりだったが、それが彼女の呪縛を解いたらしく、物凄い形相でこちらを振り向いた。
それを見たあたしの身体はビクリと震える。
「ううん。こちらこそゴメン! 気が動転しちゃって、ちゃんと説明できなかったから誤解させちゃったね!」
あたしたちの様子を見ていたはずなのに、コノミはにこにこしながら自然に返す。
「い……いいのよ、気にしないで」
あたしが答えるのと同時に、彼女は自分の席に戻る。
コノミの冷めた視線が彼女を追っているのに気付く。
「あと、これは昨日のお詫び」
そんな表情をするコノミを見ていられなくて、すかさず紙袋を差し出す。
「え?」
思ってもいなかったのだろう。ころっとコノミの表情が変わり、目を丸くする。
「話をちゃんと聞いていないのをコノミが怒ったでしょ。確かに悪かったなって思って。そのお詫びだよ」
「良いの?」
もらって良いのかどうしようかと迷っているらしく、出された手はなかなか紙袋に届かない。
「遠慮しないで受け取って。コノミのために作ったの」
「わたしのために?」
言って、コノミはようやく手に取った。
「開けていい?」
「もちろん。気に入ってくれるといいんだけど」
リボンとテープで止められた口を丁寧に外し、中からマスコット人形を取り出す。
「可愛いっ! 結衣ってとっても器用なんだね!」
あたしがコノミにあげたのは、青い鳥が小さな小枝をくわえている姿をデザインしたストラップ。手で握ると見えなくなるほどの大きさのものである。
「これくらいしか特技がないからね」
「嬉しいよ! 大事にするね!」
コノミはにっこりと微笑むと、早速携帯電話に取り付け始める。彼女の緑色の携帯電話には一つもストラップがつけられていないのをあたしは知っていた。
「うん。なかなか合ってる。本当にありがとう」
「どういたしまして。これからも仲良しでいようね」
あたしもにっこりと笑んだところで、担任の先生が入ってきた。すでにチャイムが鳴り終わっていたことを思い出し、そそくさと自分の席に戻る。
席についたあたしに、コノミはそっとストラップを揺らして手を振ると前を向いた。
――気に入ってくれたみたいだ。
あたしはいろいろと安心して、今日も一日を乗り切れそうだなと思えた。
クラスの空気はぎすぎすしたまま放課後を迎えた。
休み時間や授業中に冷めた視線があたしに向けられるたびにコノミが睨み返すということが繰り返されたからか、無言の攻撃は落ち着きつつある。
――だけど……。
あたしがスポーツバッグに教科書やノートを詰めていると、コノミが席にやってきた。
「途中まで一緒に帰ろ?」
不安げな気持ちの混じる笑顔をこちらに向ける。
――どうしようかな?
よーちゃんは今日も欠席している。新入生募集期間のうちは部活に出たほうが良いのだろうが強制ではない。典兎さんには会いたいが、どうせこの時間は彼の都合と合わないだろう。
「――コノミって、電車通学だっけ?」
「うん。電車で二十分くらいの駅で降りるんだよ」
「そっかぁ。あたしは徒歩なの。結構近いんだよ?」
歩いて二十分ほどの場所に住んでいる。スペクターズ・ガーデンはあたしの家より学校に近く、よーちゃんと少しでも長くいたかったので自転車ではなく歩きにしていた。
ちなみに、この学校の最寄りの駅はあたしの家に向かう道の途中で別れる。学校から駅までは十分ほどであり、このあたりの学区の中では最も駅に近い。そこがこの学校の最大の利点だった。
「へぇ……。そうだ、いつか遊びに行くよ!」
てっきりすぐに来るみたいな言い方をするかと思ったのに、彼女はそう言わなかった。
「うん。いつでもどうぞ」
話しているうちに荷物を詰め終え、あたしはスポーツバッグを肩にかける。
「じゃあ、一緒に帰ろっか」
「うん」
笑窪の出る明るい顔でコノミが頷くと、ポニーテールの先が弾んだ。