欠席(1)
翌朝、あたしがいつものように待ち合わせ場所のスペクターズ・ガーデンに向かうと、よーちゃんの姿はなかった。
――あれ? どうしたんだろう?
メールの返信もなかったので気になる。
あたしが開店準備中の店の中を覗き込んでいると、背後から大きな影に包まれた。
「葉子なら、今日はおやすみだよ」
一瞬、弥勒兄さんかと思ったが、振り向いて見上げると、声を掛けてくれたのはよーちゃんのお父さんである蓮さんだとわかった。
蓮さんもがっしりとした体格で、見上げるくらい背が高い。弥勒兄さんはお父さん似なんだなと会うたびに感じる。
どうやら店内には弥勒兄さんもいないようだ。
「え? よーちゃん、病気なんですか?」
――小学校・中学校と皆勤賞をもらっていたよーちゃんが学校を休むって?
意外すぎる蓮さんの話にあたしはびっくりする。
「どうやらそうみたいでね。昨日は、帰る途中で具合が悪くなって身動きが取れなくなっちゃったようなんだ。今日はこれから病院に連れて行くんだよ」
蓮さんは心配そうな声で説明してくれる。
「そんなに具合が悪いんですか?」
「医者に診てもらえば大丈夫さ。――だから結衣ちゃん、申し訳ないけど一人で学校に行ってね」
「は、はい。わかりました」
なんとなく蓮さんが疲れているように見えたので、ここはすぐに出るべきだろうと判断した。
「よーちゃんにお大事にとお伝えください。――いってきまーす」
にっこり微笑むと、あたしは一人で通学路を歩き出した。
気が付いたときには昼休みになっていた。
「どうしたの? 結衣。今日は一段と元気がないね。しっかり食べなくちゃダメだよ?」
あたしの箸が止まったままであるのを、正面に座ったコノミが指摘する。さっきからコノミはいつもの調子で校内の恋愛事情についてを熱く語っていたようだが、あたしの頭にはさっぱり入ってこない。
――まぁ、これが日常だけど。
「あんまりお腹が空いてなくて」
お母さんが華やかに見えるように工夫して入れてくれたおかずだが、そのほとんどが蓋を開けたときと同じ状態でこちらを見上げている。
ごまかすための笑顔も作れず、あたしは俯いて箸を置いた。
「熱があるんじゃない?」
心配そうな顔がこちらを覗き込む。コノミは立ち上がると、熱を確かめるために額にすっと手を伸ばした。
バシッ!
視界に入ったその手を、何故かあたしは反射的に払ってしまう。
「えっ……」
「ご……ゴメン! でも、心配要らないから」
咄嗟の行動とはいえ、あたしは自分がしたことに驚き、顔を上げてすぐに謝った。
彼女は払われた手にもう片方の手を添え、目を丸くしてこちらを見ている。
「――結衣の友だちに、何かあった?」
鋭い。
指摘自体も的確でそう感じられたが、彼女の目が射るように鋭い光を宿したのに気付いて、あたしは怖かった。
「うん、まぁ、そんなところ」
あたしはお弁当の蓋を閉めながら答える。彼女の目から視線を外したかったのだ。
――お願い。そんな目をしないで。
「そんなに大事?」
「――え?」
よーちゃんはあたしにとってかけがえのない友だちだ。大事に決まっている。
あたしにはコノミの問いの意図がわからない。窺うように視線を彼女に向ける。
コノミの表情が怒りに変わった。
「今は私と一緒にいるんだよ? それ、忘れてない?」
「忘れてなんか……」
「結衣、私といてもつまらないって思っているんじゃないの?」
「違うっ! それは誤解だよっ!」
「どうかなぁ?」
責めるコノミの冷やかな問いに、あたしは防戦一方で具体的な言葉を返せない。
――そんなふうに怒らないで。あたしはコノミちゃんを……。
「――そんなに好き? 烏丸葉子のことが」
突き放すような言い方に、あたしは背筋が凍った。思考も固まってしまう。
「彼女は一体どう思っているんだろうね? 幼なじみなんだっけ? 小学校からずっと一緒にいたんだよね?」
その話はコノミと出会ってすぐに教えたことだ。幼なじみで小学校からずっと一緒に過ごしてきたのは事実である。
すると、澱みなく告げるコノミの瞳の色が変化した。
悪意に満ちた色。
それはここに引っ越してきたばかりの頃、公園で出会った少女たちが宿していた色に似ている。
続く台詞を予想できたのに、あたしは聞きたくないその台詞を止めさせることができなかった。
「あのコの実力ならもっと良い高校に行けただろうに、きっと結衣に合わせてくれたんだよ。彼女は優しいコだもんね! だからあんたは彼女の足を引っ張っているんだよ! 今でもそうなんじゃないの?」
「なっ!」
――あたしが……よーちゃんの……足を引っ張っているって?
わかっているつもりだった。
よーちゃんが志望校をここにした理由を訊いたとき、彼女はこの学校が家から近いからだと言っていたけど、本当はあたしが受験しても受かるだろう場所を選んだんだって気付いていた。
――気付いていたはずなのに……。
今までそれを他人に指摘されたことはなかった。だから見て見ぬ振りができたのに。
「あんたのその想いって所詮は自己満足なのよ! 相手のことをちっとも考えていない一方通行な気持ちじゃない! そんなものを押し付けられて、彼女、本当はあんたのこと、嫌になっていたんじゃないかしら?」
結衣と一緒にいると楽しいと言っていたよーちゃんの姿を思い出す。昨日見た最後の姿だ。
「そんなことないよっ!」
「どうだか。彼女、表面を繕うのは巧いからね」
あたしのことを言われるより、よーちゃんの悪口を言われるほうが数倍腹が立った。
「よーちゃんのことを悪く言わないでっ!」
ごぉぉぉっ! あたしが叫んで立ち上がった瞬間、起こるはずのない突風が二年四組の教室を駆け抜けた。
「きゃあぁっ!」
風にコノミが飛ばされる。
ガンッ! ビシッ!
「……っ!」
窓ガラスにコノミは叩きつけられていた。ガラスにひびが入っている。
「だ……大丈夫!」
コノミに駆け寄ったのは教室にいたクラスメート。コノミが強かに打ち付けた右肩から腕を丁寧に調べ始める。
コノミはあたしを軽蔑するような眼差しでこちらを睨んでいた。
――何? 今の……。
あたしは立ったまま動けない。何がどうなっているのかわからない。
混乱しているせいか、回りの音が全く耳に入ってこない。それでますます状況が飲み込めない。
次第に教室に人が集まってきた。窓ガラスにひびが入ったせいか、先生までもが駆け付けた。
「――なにも、突き飛ばすことないのにね」
――え?
やっと耳に入り出した台詞。そこには事実とは異なる情報が含まれていた。
「サイテーじゃない?」
「うわっ、窓ガラスにひびが入ってるしっ」
「すんげー勢いで突き飛ばされたんだな」
――違う……それは違うよ!
あたしが叫ぼうと口を開きかけたとき、誰かの手が肩に置かれた。視線を向けると、そこには担任の先生が立っていた。困ったような、心配そうな、そんな顔であたしを見ている。
「針間さん、事情を聞かせてくれないかしら?」
「……はい」
反論できないまま、あたしは先生に連れられて教室を出ることになる。
――なんで?
意味がわからない。
――あたし、コノミの手を払ったことは認めるけど、突き飛ばしてはいないよ?
怪我の具合を確かめられながら、大したことないからと笑うコノミの姿が視界の端に入り込む。
――コノミちゃん……なんで本当のことをみんなに説明してくれないの?
彼女はちらりとこちらを見たが、すぐに別の場所に視線を移して心配するクラスメートの相手を始めた。
――どうして……。
コノミの後ろに緑色の蜘蛛みたいな影があるのに気付く。その影の長い足があたしに手を振るように動いた。
――?
緑色の蜘蛛を観察している余裕はなく、あたしは先生に促されて同じフロアにある生徒指導室に連れて来られた。
「――で、何があったの?」
長机を挟んで向かい合わせに腰を下ろすと、三十代後半の女性教師は心配そうに訊いてきた。責めるような口調じゃなかったことに救われたような気持ちになった。
「ちょっとケンカをしてしまったんです……」
俯いて、あたしは答える。
「針間さんが突き飛ばしたっていう目撃証言があるけど、本当のことなの?」
その問いは事実を確認するためなのだろう。窓ガラスにひびが入っているのだから、そうなるに至った経緯を知る必要があるのに違いない。
「それは……その……」
説明しようか迷って、結局口を閉ざす。
あたしは突き飛ばすようなことはしていない。風が起こって、コノミを飛ばしたのだ。
しかしそんな話をしたところで、この先生は信じてくれるだろうか。
――先生だって、どうせあたしを理解しようとは思ってないよ。
「……よく……覚えてないんです」
ごまかすことにした。
覚えていないというのは嘘だが、実際に何が起こったのかはよくわからない。ならばこう答えるのが無難なはずだ。
「興奮して、つい突き飛ばしちゃったってことかしら?」
「――コノミちゃんに訊いてください」
コノミはなんと答えるだろう。あたしが突き飛ばしたのだと証言するだろうか。
――別にどっちでもいいや。
「そうねぇ。わかったわ」
本当にわかったのかどうか疑わしく感じられたが、担任の先生はこれでこの話を終わりにするつもりのようだ。
「――針間さん?」
「はい?」
名を呼ばれて顔を上げる。
励ますような温かい笑顔がそこにあった。
「想いが伝わらなくてケンカになってしまうことは誰にでもあるわ。あんまり自分を責めないでね。――あと、きちんと仲直りしましょう」
「はい」
――仲直り、できるだろうか。
すぐに仲直りをしたいとは思えない自分に戸惑う。誤解は解いておきたかったが、それと仲直りは違うような気がした。
先生から解放されて教室に戻るとコノミはいなかった。念のため、病院に行くことになったらしい。
――大丈夫だよね?
あたしの席のから見える窓のひびを見て、胸が痛む。
午後の授業はクラスメートたちの無言の圧力で気分が悪くなったが、あたしはなんとか耐えきってみせたのだった。