年収1000万円では足りないと振られた俺は、「今夜、何が食べたい?」と聞いてくれる人と結婚した
片瀬征吾が二人暮らし用の間取り図を出すと、奈津美はそれを脇へよけた。
代わりに、スマートフォンの画面をこちらへ向けてくる。駅に直結したタワーマンション。家賃は管理費込みで三十四万円。征吾が印をつけた部屋は、十四万八千円だった。
「ここ、いいと思わない?」
「眺めはよさそうだね。でも毎月これは、ちょっと」
「また、ちょっと?」
向かいの椅子で、岡添奈津美が息を吐いた。
四月の日曜日だった。奈津美の二十九歳の誕生日に結婚の話をしてから、三週間が経つ。指輪はまだ買っていない。本人が選びたいと言ったから、一緒に店を回る予定だった。
「仕事は辞めたいって話、したよね」
「うん。だから俺一人の収入でも貯金できる部屋を探してて」
「結婚してまで我慢ばかりするのは嫌なの」
征吾は並べた紙のうち、一枚を見せた。
「こっちなら二人で暮らしても広いよ。駅から八分だし」
「その駅、何もないじゃん」
「スーパーはある。大きい買い物なら電車で——」
「友達を呼ぶとき、わざわざ乗り換えてもらうの?」
奈津美が選んだ部屋の家賃を、征吾はもう一度見た。
自分の希望より高い。けれど、即座に無理と決めつけるのも違う気がした。食費や光熱費を書いたメモを手元に引き寄せる。
「場所を優先するなら、広さを少し——」
「広さも譲りたくない。子どもができたら狭くなるし」
「だったら、駅から十分くらい離れると」
「征吾はそれでよくても、昼間ずっと家にいるのは私だよ」
家のことだけではなかった。
年に一度の海外旅行。生活費とは別に、奈津美が自由に使えるお金を月に十二万円。子どもには私立も選ばせたい。
征吾も、できることなら叶えたかった。だからこそ、一度に全部を当然の予定として並べられると、返す言葉が遅くなった。
「俺の収入、賞与で変わるんだ。去年は一千万を少し超えたけど、毎年同じとは限らないし」
「年収一千万なんかじゃ足りないんだよ、今は」
奈津美は伏せていたスマートフォンを、また持ち上げた。画面には、さっきと同じマンションが出ていた。
「もっと余裕のある人と結婚したい。征吾と話してると、全部、削る相談になる」
「どのくらい稼げば、足りるの」
「二千万くらいあれば、いちいち考えなくて済むんじゃない?」
征吾の指がメモの上で止まった。
そこまで収入を増やす方法は、思いつかなかった。
そこには、奈津美が気に入ったソファの寸法まで書いてあった。
「……俺と結婚したいんじゃ、ないの?」
奈津美はすぐには答えなかった。やがてスマートフォンを伏せ、こちらを見る。
「好きだよ。でも、好きだけで結婚はできないでしょ」
征吾は「でも」と言いかけて、続きが出てこなかった。
「別れたいってこと?」
「うん。お互い、時間もったいないし」
交際して二年四か月だった。
奈津美の会社の繁忙期も、体調を崩しやすい季節も、電話越しの声で機嫌が分かることも、征吾は知っていた。別れ話のあと、彼女がいつものように紅茶のカップを流しへ運ぼうとしたことが、妙に苦しかった。
「置いといていいよ」
「あ、うん」
合鍵は玄関で返された。
奈津美が閉めたドアを、征吾はしばらく見ていた。午後二時だった。夕飯まで一緒に食べるつもりで、冷蔵庫には二人分の鶏肉を入れていた。
*
「それで、鶏肉を持ってきたのか」
翌週の土曜日、湯浅雅紀は玄関先で袋を受け取った。
「冷凍したんだけど、一人だと減らなくて」
「お前、一人暮らし何年目だよ」
「……十年」
「減るだろ」
その後ろから、妻の紗和が顔を出した。
「雅紀、それ以上言ったらあなたのご飯も減らすよ。征吾くん、入って。鍋にしようと思ってたから助かる」
湯浅家は、征吾の部屋から電車で二駅のところにある。
雅紀とは大学のゼミからの付き合いだった。紗和とも、二人が交際していた頃から顔を合わせている。奈津美を紹介したこともあったが、四人で食事をしたのは一度だけだ。
征吾が別れたと短く連絡すると、雅紀からすぐに電話が来た。家に呼ばれ、何も話せないまま鍋の白菜を切ることになった。
「で。大丈夫じゃないんだろ」
食卓についてから、雅紀が尋ねた。
征吾は箸を置いた。
「分からない。もっと稼げたら違ったのかなって」
「お前、今でも結構働いてるだろ」
「忙しいときだけだよ」
「その言い方、去年の秋も聞いたぞ」
征吾は、企業向けのシステム導入を支援する会社に勤めている。三十二歳になり、担当案件も増えた。給与は上がったが、毎日が楽になったわけではない。
「転職でも考えてるのか」
「少し調べた」
「今、決めるなよ」
強めの声だった。
征吾が顔を上げると、雅紀は一度口を結んだ。
「……悪い。でも、俺は今のお前に転職先を勧めたくない」
紗和が、煮えた豆腐をそれぞれの皿へよそった。
「駅から八分で、そんな不便な所なの?」
紗和が聞いた。
「俺は、別に。不便なら自転車もあるし」
「うち、十二分あるよ」
「紗和は途中でパン屋に寄るから二十分」
雅紀に言われ、紗和は彼の皿に豆腐をもう一つ載せた。
「征吾くんは、あの部屋に住みたかった?」
「うん。台所、使いやすそうだった。二人で立てるし」
「料理するんだ」
「たまには。早く帰れた日とかに」
征吾は鍋の湯気を見た。
「一緒に、晩飯食べるとか」
雅紀が箸を止めていたので、征吾は言い足した。
「毎日じゃなくても。早く帰れた日は、何か作って。休日は買い物に行って……そんな感じ」
「いいじゃん」
雅紀が言った。
「俺は毎日一緒だと、晩飯の話ばっかりだぞ。今日も昼から鍋かカレーかで」
「白菜を買った後にカレーって言うからでしょう」
「鶏肉が来たからいけると思った」
「今じゃない」
征吾は笑った。
笑った拍子に喉が詰まり、慌ててお茶を飲んだ。二人とも、その間は何も言わなかった。
「奈津美にも、よかったところはあるんだ」
ようやく、それだけ言った。
付き合い始めた頃、征吾の資格試験の前夜に、奈津美は弁当を持ってきてくれた。母親が入院したときには、見舞いに何を持っていけばいいか一緒に考えてくれた。
あれまで嘘だったとは、思いたくなかった。
紗和は鍋の火を弱くした。
「今すぐ、全部嫌いにならなくても」
紗和はそこで言葉を切り、征吾の空いた皿へ手を伸ばした。征吾は首を振って、まだ残っていた白菜を取った。
少し煮すぎた白菜は、ほとんど噛まずに飲み込めた。
*
六月の終わり、奈津美は交際相手の吉住と、ホテルのラウンジで待ち合わせた。
三十六歳。外資系企業勤務で、本人が言うには年収は千二百万円ほど。五月の食事会で知り合い、その月の終わり、三度目に会った日に付き合おうと言われた。
年収二千万円の人との接点は、探してみるとほとんどなかった。でも、千二百万円なら征吾より上だ。海外の拠点へ異動すれば、手当も増えると本人が言っていた。
奈津美は、友人へのメッセージに交際を報告した。征吾のことを聞かれると、求める暮らしが違ったから、とだけ返した。
「来月、どこか泊まりで行かない?」
吉住がスマートフォンを見ながら聞いた。
奈津美は笑顔になった。こういう話が、征吾とは違って早い。
「いいね。ねえ、その前に聞きたいんだけど」
「何?」
「結婚って、いつくらいで考えてる?」
吉住の指が止まった。
「まだ付き合って一か月だよね」
「でも、お互い子どもじゃないんだし。私、結婚したら仕事は辞めたいんだ」
「そうなんだ」
「今のうちに引き継ぎを考えたほうがいいかなって。年度末に辞めるなら——」
「待って。俺、そこまでの話はしてないよ」
奈津美は笑顔を崩さないようにした。
「これから考えるってことでしょ?」
「いや。今は結婚するつもりない」
音楽が大きくなったような気がした。
そんなこと、付き合う前には聞いていない。
「だったら、どうして付き合おうって言ったの」
「好きだからだよ。結婚とは別じゃない?」
奈津美の仕事の話を、吉住が聞いたことはほとんどなかった。服は褒めてくれた。脚がきれいだとも言った。遅い時間に呼ばれても、会いたいからなのだと思っていた。
「私は、結婚する人を探してるの」
「じゃあ、やめたほうがいいね。お互い」
吉住は泊まりの話をしたときより、ずっと簡単に言った。
奈津美はカップに手を伸ばした。取っ手に指がうまく入らず、ソーサーが鳴った。
*
征吾が鳥越香澄と出会ったのは、その翌月だった。
紗和から湯浅家の食事に誘われた際、友達も一人来ると聞いていた。気を遣わなくていいから、と付け足されたのが少し気になったが、雅紀に確認すると、去年もやった暑気払いだと言う。
「去年も呼んだぞ。先約あるって断ったじゃん」
「そうだったっけ」
「肉代まで送ってきたの、覚えてないのか」
思い出した。奈津美の行きたい店を予約した日と重なり、断ったのだった。
今年は予定がないので、行くことにした。
玄関に着くと、紗和と一緒に買い物へ出たはずの女性が、廊下で段ボールを抱えていた。
「あ、それ、持ちます」
「ありがとうございます。じゃあ下をちょっと……違う、そこ、底が抜けそうで」
反射的に手を伸ばした征吾に、女性が慌てて言った。
段ボールの底から、缶ビールが一本落ちかけていた。
二人で箱を支え直したところへ、室内から雅紀が出てくる。
「あー、そっち持っちゃったか」
「雅紀くん。底が危ないなら先に言って」
「今言おうと」
「さっき持ってって言ったでしょう」
女性の声につられ、征吾も笑った。
箱を廊下に下ろしてから、改めて挨拶をした。
「鳥越香澄です。紗和とは高校が一緒で」
「片瀬征吾です。雅紀とは大学から」
「聞いてます。冷凍の鶏肉の」
「そんな紹介?」
雅紀が目をそらした。
台所から、紗和の笑い声がした。
香澄は三十歳で、出版社の制作部に勤めていた。出来上がった本の話よりも、納期に遅れそうな原稿をどう待つかという話のほうが多かった。
「待つのも仕事なんですけど、待ってる間に別の締切が来るんですよ」
「分かります。返事が来ない間に、返事が要る仕事が増える」
「そう。だからメールを書きかけて、あ、違う人の話だ、って」
征吾にもよくある失敗だった。
似たような仕事上の話をしていると、香澄が笑いながらサラダの皿を差し出してきた。
「片瀬さん、これ食べます? さっきから取ってないから、苦手なのかと」
「いや。みんなが取ってからと思って」
「なくなりますよ。紗和、これ好きだから」
「私を何だと思ってるの」
紗和はそう言いながら、皿に残っていたトマトを一つ取った。
香澄も一つ取る。征吾は、二人の手が引っ込むのを待たずに、自分の分を取った。
食後、雅紀が買ったばかりのボードゲームを出した。
征吾はルールを読みながら参加して、香澄に二度負けた。三度目も負けかけ、ようやく仕組みが分かってきたところで、雅紀が時計を見た。
「そろそろ終わる?」
「もう一回」
征吾と香澄の声が重なった。
二人は顔を見合わせた。香澄が先に笑う。
「次は勝てそうな顔してますね」
「少なくとも、今の負け方はしないです」
「それ、さっきも言ってましたよ」
結局、その晩、征吾は一度も勝てなかった。
帰りの電車で、四人の連絡用に作ったグループへ、香澄から写真が届いた。最後の盤面だった。
征吾が悔しいと送ると、次回もお待ちしています、と返ってきた。
つい顔が緩み、窓に映った自分と目が合った。
慌てて口元を戻したが、誰もこちらを見ていなかった。
*
八月、奈津美は新しい恋人の部屋にいた。
相手の羽生は三十四歳。七月半ばにアプリで知り合い、二度目の食事で交際を申し込まれた。年収の欄は一千万円以上。結婚については「よい人がいれば」となっていた。
吉住のあと、奈津美は希望年収の下限を戻していた。今の収入だけで決めなくてもいい。羽生は独立も考えていると言っていたし、結婚の話を避けもしなかった。
最初は、店もきちんと予約してくれた。
けれど、三度目からは部屋に呼ばれるばかりになった。忙しいから。外で誰かと会う仕事だから、休日くらいは落ち着きたいから。理由を聞けば、納得はできた。
「来週の土曜、花火があるんだって」
奈津美が言うと、羽生はソファに横になったまま答えた。
「混むでしょ」
「じゃあ、映画は?」
「配信でよくない?」
テレビには、見ているのか分からない番組が流れている。
奈津美は、羽生の隣に座らなかった。
「たまには外で会いたい。友達にも、付き合ってる人がいるって言ったし」
「何で友達が関係あるの」
「紹介したいってこと。私も、羽生くんの友達に会いたい」
羽生がようやく体を起こした。
「そういうの、面倒なんだよね」
奈津美はバッグの持ち手を握った。
今日は泊まらないと言うと、彼は引き留めなかった。駅まで送るとも言わなかった。
帰宅して、次はどこかでご飯を食べようとメッセージを送った。
翌日になっても返事はなかった。
三日後、もう会わないという短い文が届き、その後のメッセージには既読がつかなくなった。
アプリを開くと、羽生のプロフィールも表示されなかった。
結婚の欄を、奈津美は何度も確かめていた。あれだけで安心した自分が腹立たしくて、携帯をベッドへ投げた。
征吾なら、という言葉が浮かんだ。
でも、それを認めたら、別れた判断まで間違いになる。
まだ二人だ。合わない人に当たっただけ。
奈津美は携帯を拾い、新しい紹介の通知を開いた。
*
征吾と香澄が二人で出かけるようになったのは、九月に入ってからだった。
四人での二度目の集まりで、香澄が小さな印刷の展示について話した。古い活版印刷機を実際に動かす日があるという。
征吾が見てみたいと言うと、香澄は日程のページを送ってくれた。
行きませんか、の一文を付け足すまで、征吾は昼休みをほとんど使った。
「展示の話をして、興味あるって言って、誘うのに何で三日もかかるんだ」
前の晩に電話で相談した雅紀には、そう言われた。
「紗和さんの友達だし。断りにくかったら悪いだろ」
「香澄ちゃんなら、嫌なら断るんじゃないか」
「それは、お前の印象だろ」
「そうだよ。だから本人に聞けって」
送信したあとで、添付した展示の開催日をまた確かめた。
返事は十分後に来た。ぜひ、とあって、続けて、開場直後なら機械の近くで見られるかもしれません、と書かれていた。
当日、香澄は展示室の端で、印刷されたカードを裏返していた。
指先で紙のへこみをなぞり、光にかざす。征吾が隣へ行くと、同じ図柄を刷った二種類の紙を見せてくれた。
「こっちは線が柔らかく見えるんです。紙が違うだけなのに」
「本当だ。……よく見ないと分からないけど」
「よく見るのが楽しいんです」
うれしそうだった。
征吾はもう一度見比べた。二度目には、さっきより違いが分かった。
昼食の店は、香澄が決めた。
征吾が念のため調べていたレストランの一覧を見せると、少し迷ってから、会場の近くの洋食店を指した。
「私、今日はここのオムライスが食べたいです」
「ここでいいんですか」
「ここがいいです。片瀬さんは?」
征吾はメニューを拡大した。
「ハンバーグが気になります」
「じゃあ行きましょう。売り切れる前に」
香澄の足が速くなった。
その後ろを追って、征吾も歩く速度を上げた。
入口で待っていると、香澄が窓越しに客の皿を見た。メニューの写真と同じオムライスだった。
「本当に、あれが食べたかったんですね」
「ずっと言ってるじゃないですか」
「すみません」
「謝ることでもないですけど。あ、今の、言い方きつかった?」
「いや。俺が変な聞き方をしたので」
「お腹すいてると、食べ物の話に必死になるんです」
香澄は店先の黒板を見た。
「この間も、紗和に付き合ってもらって餃子の列に並びました。四十分」
「それ、紗和さんから聞きました。雅紀が先に別の店で食べてたって」
「あの人、私たちが食べ終わった頃に、ちょうどいいねって迎えに来たんですよ」
征吾が笑うと、香澄も笑った。
レストランの一覧は、そのまま閉じた。
食事のあと、会計で香澄が自分の分を出そうとした。征吾がまとめて払うと言うと、今度は少し考えていた。
「じゃあ、お言葉に甘えます。お茶は私が出していいですか」
「そこまでしなくても」
「ケーキも頼んでいい店にしましょう。私、まだ入るので」
征吾は財布をしまった。
「……お願いします」
香澄が連れていってくれた喫茶店は、椅子の背もたれが低く、少し窮屈だった。
隣の席を気にして二人とも声を落とし、それなのに話が途切れず、気がつくと夕方になっていた。
別れ際、征吾は、自分から次の話をした。
「今度、映画に行きませんか」
「何を見ます?」
「鳥越さんが見たいものがあれば」
香澄は答えずに、征吾を見た。
「片瀬さんが見たいのは?」
また同じことを言ってしまった。
征吾は照れくさくなり、公開前から気になっていた作品の名前を挙げた。何となく、女性は好まないかもしれないと決めていた映画だった。
「あ、それ、私も気になってました」
「そうなんですか」
「来週は日曜なら空いてます」
予定は、あっけなく決まった。
*
十月、湯浅家の台所で、雅紀が征吾に小声で聞いた。
「で、どうなんだ」
「何が」
「映画。行ったんだろ」
今日は征吾だけが来ていた。紗和は居間で洗濯物を畳んでいる。
隠し事をするような距離でもないので、征吾は普通の声で答えた。
「楽しかった」
「それは分かった。次は?」
「来週会う」
「いいじゃん」
雅紀が、洗い終わった皿を一枚渡した。
征吾は布巾で水滴を拭いた。
「ただ、いつまでも名字で呼ぶのも変かなって」
「今そこ?」
「変か?」
紗和が洗濯物を抱えて台所へ来た。
「呼び方くらい、聞けばいいよ。私たちに許可を取らないで」
「許可じゃなくて」
「真面目に相談してるんだよな」
雅紀がかばうように言ってから、吹き出した。
征吾は布巾を肩へ投げた。濡れたところが雅紀の首に当たり、嫌そうな声が上がった。
笑いが収まってから、紗和が言った。
「香澄のこと、どこが好き?」
征吾は皿を置いた。
雅紀が黙ってこちらを向いた。否定しようとすると、余計にからかわれる気がした。
「話してて面白い。映画のあと、俺と全然違うところで怒ってたりして。それ聞くと、もう一回見たくなる」
「うん」
「俺にも聞いてくれる。何がいいかって。……それが、結構うれしい」
「へえ」
紗和が雅紀を見た。
「私たちの結婚式以来じゃない? こんなに喋る征吾くん」
「あの挨拶、長かったよな」
「お前が三分以上でって言ったんだろ」
雅紀は覚えていないらしく、首を傾げた。
征吾は布巾を流しの縁へ掛けた。次に会ったら言おうと、ここへ来る前から決めていた。それでも、二人に話すと少し落ち着いた。
翌週の日曜日、征吾は香澄と映画の感想を話しながら、川沿いを歩いた。
街灯がつき始めていた。香澄は気に入らなかった場面について、手を動かしながら説明していた。
「あそこで許すのは、ちょっと早くないですか。せめて一回、ちゃんと怒ってほしかった」
「俺は、許すつもりじゃなくて、諦めたんだと思いました」
「ああ。……それだと、結構つらいな」
香澄が黙った。征吾も、しばらく川を見ていた。
「鳥越さん」
「はい」
「俺、鳥越さんと付き合いたいです」
香澄は足を止めた。
征吾も立ち止まり、きちんと彼女へ体を向けた。
「一緒にいると楽しくて。また会いたいって、帰るたびに思うので」
用意していた言葉の半分も出てこなかった。
香澄が片手でバッグの紐を握り直す。返事を待つ間、川の向こうの電車が、ずいぶん長く走っているように感じた。
「私も、そう思ってました」
香澄は目を伏せ、バッグの紐を指でずらした。
「映画の予告見ても、これ一緒に見たいなって。……今日も、本屋に誘おうと思ってたんです。言いそびれて」
「今から行きますか」
「……行きます」
征吾は息を吐いた。
「よかった」
「そんなに?」
「そんなにです」
香澄が笑った。目をそらし、またこちらを見る。
「じゃあ、私も言っていいですか」
「うん」
「征吾さんって、呼びたい」
征吾がうなずくと、香澄は試すように名前を呼んだ。
「じゃあ、俺も。香澄さんって呼んでいいですか」
「はい」
声に出してみると、また顔を見られなくなった。本屋へ向かう間、二人とも、さっきの映画の話には戻らなかった。
*
十月末、奈津美は結婚を目的にした紹介サービスへ登録した。
自分の年収も、家族構成も、結婚後は専業主婦を希望することも、最初に記入した。年収の証明を出した相手に会えることが、今は何より安心だった。
紹介された柿崎は三十七歳で、メーカー勤務。年収は千万円台だった。
初めて会った日は、家族や休日の過ごし方を話して終わった。二度目に誘われた食事で、柿崎から、結婚を考えて付き合ってほしいと伝えられた。
「私、結婚したら家に入りたいんです。それでも大丈夫ですか」
「子どもが小さい間、どちらかが家にいるのはいいと思います」
奈津美は、よろしくお願いします、と答えた。
ようやく話が進む。帰りの電車で、探すのに苦労した分、今度はうまくいくと思った。
十一月の下旬、付き合い始めて三週間ほどで、二人は住む場所の話をした。
柿崎が出した候補は、奈津美が知らない駅だった。
「僕の通勤は少し延びますけど、家賃はかなり抑えられるので」
「私、できればこの辺りがよくて」
奈津美は、スマートフォンに保存していた物件を見せた。
征吾に見せたものと同じマンションだった。
「三十四万ですか」
「二人で暮らすんだし、それくらいは」
「僕一人の収入なら、これは厳しいです」
奈津美は画面を戻した。
「お給料は、これから増えるんですよね?」
「今の部署にいれば、多少は。ただ、異動の可能性もあるので、今より下がることもあります」
「じゃあ、今のところにいればいいんじゃ」
「希望どおりにいくとは限りません。残業をずっと続けられるかも分かりませんし」
柿崎は水を飲んだ。
奈津美はバッグから手帳を出した。旅行の費用、自由に使うお金。前に征吾へ話した希望を、できるだけ穏やかに伝えた。
「私だって、何でも買ってとは言ってないんです」
「でも、この額が毎月、ということですよね」
「友達はそれくらい使ってるから」
柿崎はしばらく手帳を見ていた。
「仕事を辞める時期は、最初から決めないでもらえませんか。家賃や貯金の額も合わせて、もう少し話したいです」
「それなら、最初に言ってほしかったです」
「最初?」
「専業主婦でもいいって言いましたよね。今さら働けって言われても」
「子どもが小さい間、と言いました。すぐ辞める話まではしていません」
奈津美は手帳を閉じた。
「その条件だと厳しいって言うんですよね、結局」
「はい。僕には、厳しいです」
即答だった。
征吾なら、別の部屋や別の方法を出してきた。今も、何か提案が続くものと思って待ってしまった。
柿崎はもう、手帳を見ていなかった。
「考え方が、違うんだと思います。付き合い始めてからで申し訳ないですが、ここまでにしましょう」
奈津美は、返事をしなかった。
彼が財布を取り出すのを見て、ようやく本当に終わりなのだと分かった。
翌日、奈津美は紹介先の担当者に電話した。
「最初から希望を出してますよね。合わないなら、どうして紹介したんですか」
担当者は、家に入る時期や生活費の額までは、会って話さなければ分からないと答えた。
「柿崎様からは、住まいや支出について、ご希望を合わせるのが難しかったと伺っています」
「私だけ変えなきゃいけないんですか」
「奈津美様のご希望は、そのままでお預かりすることもできます。ただ、次のご紹介まで少しお時間をいただくかもしれません」
電話を切っても、腹が立っていた。
登録画面を開く。年収、三百五十万円。結婚後の就業、希望しない。相手に望む条件を下へ送って、奈津美は住居の欄を消しかけた。
指を止め、画面を戻した。
征吾が探してきた部屋の資料なら、まだメッセージの中に残っている。久しぶりに開くと、彼の送った文があった。
『ここ、台所広いよ。帰りに一緒に見に行かない?』
その下には、奈津美の返事。
『その駅はちょっと』
内見の約束をしないまま、別れたのだった。
*
十二月の金曜日、征吾は香澄に、夕食の時間に遅れるかもしれないと連絡した。
昼間から頭が痛かった。翌朝まで寝れば治るだろうと考えながら仕事をしていたが、夕方には画面を見ているのもつらくなった。
仕事が長引きそうだと送ると、香澄から電話が来た。
「声、変じゃない?」
「少し風邪かも。でも大丈夫」
「熱は?」
「まだ測ってない」
帰宅して測ると、三十八度を超えていた。
写真を送ったら、すぐに休むようにと返ってきた。夕食の店のキャンセルは、予約をした香澄が済ませてくれた。
一時間後、玄関の呼び鈴が鳴った。扉越しに香澄の声がした。
「買ってきたもの、ここに置いていくね。冷蔵のもあるから、すぐ入れて」
マスクをしてドアを開けると、足元に飲み物やゼリーの袋があった。香澄は二歩離れ、征吾の顔を見るなり眉を寄せた。
「そんな顔で、仕事してたの」
「昼は、ここまでじゃ」
「今日はもう寝て。返信もしなくていいから」
お礼を言おうとして咳が出た。香澄は明日また連絡するからと告げ、帰っていった。
征吾は袋を持ち上げた。食べられそうなものを尋ねる短いメッセージには、さっき、何でも大丈夫と返していた。
ありがとうと送って、ようやく布団に入った。
日曜日には熱が下がった。
香澄に電話をすると、安堵した声が返ってきたが、そのあと、少し間が空いた。
「征吾さん。今、ちょっと話しても平気?」
「うん」
「金曜日、仕事って言ったでしょ」
「うん。心配かけたくなくて」
「私、時間がずれるくらいなら待とうと思ってたんだ」
征吾は、布団の上で姿勢を変えた。
「電話したとき、もうお店の近くまで来てたんだ。早く着いちゃったから、本屋に寄ってて」
「……そうだったの。ごめん」
「体調悪いって聞いてたら、そのまま買い物して行けたよ。部屋もすぐ近くなんだし」
征吾は布団の端を握った。
「会えなくなったら、悪いなって。それで、もう少し様子を見ようと思って」
「熱があっても?」
「測るまでは、大丈夫だと思いたかったのかも」
電話の向こうで、袋のがさつく音がした。
「今日食べるもの、ある?」
「うどん。昨日から、そればっかりだけど」
「うん。じゃあ、ちゃんと食べて。また熱が出たら言ってね」
「分かった。……金曜日のことも、ごめん。先に言えばよかった」
「次からでいいよ。私も早く着いたって連絡しなかったし」
征吾は、喉が渇いていることに気づき、枕元の飲み物を取った。
「あと、ゼリーがあんなに何種類もあると思わなかった」
香澄が言った。
「売り場で迷って、一回全部戻した。どれが好き?」
「桃の。あれ、食べやすかった」
「桃ね。よかった。あれだけ二つ買ったんだ」
征吾は、まだ冷蔵庫に桃のゼリーが一つ残っていることを思い出した。
「もう一個、今から食べる」
「うん。食べて」
*
年が明けて、奈津美から連絡が来た。
『久しぶり。元気?』
征吾は会社帰りの電車の中で読んだ。
しばらく考え、元気だよ、と返した。
以前のように、今日あったことを続けて書く気にはならなかった。
『私、あれからいろいろ考えてた。ひどいこと言ったよね』
電車が駅に着いた。降りる人を避け、征吾は画面を閉じた。
家に帰ってから、もう一度開いた。
謝ってくれたことへの返事だけを送り、食事に誘う次のメッセージは断った。今は付き合っている人がいることも伝えた。
奈津美からの返事は、翌日だった。
『そうなんだ。でも、一度だけ、直接謝りたい』
征吾はその晩、雅紀に電話した。
近くで聞いていた紗和が、スピーカーにしてもらっていい、と言った。
「直接謝りたいって言われてて」
「それだけなら、一回話せば」
雅紀が言い、紗和が横から聞いた。
「香澄は知ってるの?」
「まだ」
「そっち先じゃない? 私、後から聞いたら嫌だけど」
「ああ。それはそうだな」
雅紀の声が小さくなった。
「俺も、戻る気はないんだ。でも、あのとき何も言えなかったから」
「今なら言える?」
「……多分。話すとしたら、電話にする。会う必要はないと思う」
窓のガラスに、自分の持った携帯が映っていた。
「お前がそう決めたなら、それでいいんじゃないか」
雅紀が言った。紗和は、それには何も付け加えなかった。
電話を終えてから、香澄に連絡した。
彼女は仕事が立て込んでいた。明日の夜ならゆっくり話せると返ってきたので、その時間に電話をした。
奈津美から来た内容も、自分が返したことも隠さず伝えた。
「会おうと思ってる?」
「いや。会わない。終わったことを、今から話し直さなくてもいいと思った」
香澄が、少し息を吐いた。
「私、嫌だと思う。元の彼女と二人で会うの」
「うん」
「ごめん。もう終わったことなのに、私が嫌だって言うのも変だけど」
「いや。俺も、逆だったら嫌だと思う」
征吾は、今週末に会えるかと聞いた。
香澄は土曜日の昼ならと答えた。
何を食べるか二人で話してから電話を切り、征吾は奈津美へ、一度だけ通話ならできると送った。復縁の話なら応じないことも、先に書いた。
*
奈津美は、その一文を何度も読んだ。
別れて九か月だった。
柿崎との交際が終わったあと、十二月にも二人と見合いをした。共働きを望む人、住宅費について慎重な人。どちらも一度会ったきりで、次の約束にはならなかった。
一度は会えた。連絡先を交換できた。気に入ったと言われたこともある。
それなのに、先へ進まなかった。
征吾なら、という考えが、日ごとに増えた。
会社の飲み会で嫌な思いをした夜。仕事で失敗して、誰かに言ってしまいたい日。携帯を手に取り、彼の名前を探してから、今は電話できないと思い出した。
吉住は奈津美の服を褒めた。羽生は会いたいと言った。
でも、仕事の話を聞かせてと尋ねたのは、征吾だった。
販売事務の仕事を始めた頃、得意先への手配を一人で終えたと報告すると、よかったね、と言った。先週はあんなに心配してたのに、と覚えていてくれた。
その声を思い出すたび、次はもう少しちゃんとした人を見つければいい、という考えでは収まらなくなった。
約束した夜、奈津美は電話をかけた。
「久しぶり」
「久しぶり」
変わらない声だった。
それだけで、まだ間に合う気がした。
「あのときは、ごめん。征吾の気持ち、考えてなかった」
「うん」
「私、いろんな人と会って、分かったの。征吾が、どれだけ私を大事にしてくれてたか」
彼は、黙って聞いていた。
話の途中で遮らないところも、前と同じだった。奈津美は言葉を続けた。
会った男性に、結婚するつもりはないと簡単に言われたこと。外で会うことすら断られたこと。自分の話を聞いてもらえなかったこと。
「……それは、つらかったね」
征吾の声がした。
奈津美は唇を噛んだ。
「うん。……だから、私、征吾と——」
「奈津美。復縁はしないよ」
声の調子は変わらなかった。
「でも、今の話、聞いてくれたじゃない」
「聞いたよ」
「まだ、少しくらいは」
「もう、そういう気持ちはない」
奈津美は、指で携帯の縁を押した。
「私、前みたいなこと言わない。住むところも、征吾が探してくれたような部屋でいい。旅行も、毎年じゃなくていいし」
「そういう相談を、俺はもう別の人としてる」
奈津美は口を開けたまま、言葉を失った。
あの間取り図は、今も彼の手元にあるものだと思っていた。自分が気に入らないと言ったところから、話を再開すればよいような気がしていた。
「……結婚するの?」
「まだ具体的には決めてない。でも、これからも一緒にいたいと思ってる」
奈津美は、何も言えなかった。
「あのとき、結婚できなかったこと、つらかったよ」
征吾が初めて、ゆっくり言った。
「もっと頑張らなきゃいけなかったのかなって、しばらく考えてた。でも今は、別れてよかったと思ってる」
奈津美は目を閉じた。
怒られるほうが、まだ何か返せた。自分もつらかった、知らなかった、間違えた。言いたいことは、いくつもあった。
彼が今、よかったと思っていることには、何も言えなかった。
「謝ってくれたことは、分かった。でも、もう二人で会ったり、電話で相談に乗ったりはできない」
最後まで、声は優しかった。
奈津美が返事をするまで待ってから、彼は電話を切った。
画面が暗くなった。
部屋には、脱いだままの上着と、明日会社へ持っていく弁当箱があった。洗わなければならない。
奈津美は椅子に座ったまま、何度も画面をつけた。
新しいメッセージは、来なかった。
*
七月、出会って一年になる頃、征吾と香澄は同じ食卓に通帳と給与明細を並べた。
結婚しようと征吾が伝えたのは、その一週間前だった。
駅前の店で指輪を見た帰り、香澄が仕事は続けたいと言った。征吾も、自分の仕事が忙しい時期や、将来は働き方を変えるかもしれないことを話した。
それなら、まず毎月どう暮らすか考えようとなったのだ。
「賞与の分は、毎月の生活費に入れないほうがいいと思う」
征吾が言うと、香澄は電卓を押した。
「うん。私も年によって違うしね。じゃあ、旅行もそこから?」
「そうしたい。どのくらい貯めておくかは、相談したいけど」
「今年は近場がいい。引っ越しもあるし。あと私、冬に検定受けるから、しばらく週末の講座に通いたいんだ」
香澄は教材と受講料の載ったページを出した。
征吾には詳しく分からない分野だったが、前から仕事の幅を広げたいと話していたことは知っている。
「通えばいいと思う。俺も、土曜日は何か予定を入れようかな」
「雅紀くんとゲーム?」
「紗和さんが、毎週来るなって言うかも」
香澄が笑った。
新しい住まいは、二人の職場への交通の便を見て探した。香澄は台所の高さを気にしたし、征吾は仕事用の机を置く場所を譲らなかった。
内見した三軒目は、二人とも気に入った。駅から十分。眺めは隣の建物で、収納は少し足りない。
征吾がこの部屋にしたいと言うと、香澄はまだ返事をせず、巻き尺を出した。机を置いたら通れなくなると揉め、二人で置き方を変えた。最後に、香澄が窓際の場所を自分の本棚に欲しいと言った。征吾がそこを空けると、彼女もこの部屋にしようとうなずいた。
九月に婚姻届を出し、翌週、雅紀と紗和を新居へ招いた。
証人欄に名前を書いてもらったお礼と、引っ越し祝いを兼ねた夕食だった。
四人で遊ぶボードゲームも、征吾が買っておいた。
「一年経って、まだ一勝もしてないのか」
雅紀が箱を開けながら言った。
「一勝はした。春に」
「私が二勝した日ね」
香澄が皿を運んでくる。
征吾が受け取ろうとすると、彼女はそのまま卓上へ置いた。
「征吾さん、箸お願い」
「あ、そうか」
立ちかけた紗和が、座り直す。
「なんか、いいね」
「何が?」
「いや。……人の家の引き出し、私が開けようとしてた。もう場所知らないのに」
以前、征吾が一人で住んでいた部屋には、二人とも何度も来ていた。箸もコップも、どこにあるか知っていた。
新しい食器棚から四膳出すと、香澄が、この柄は紗和の、と教えてくれた。二人が高校生の頃、修学旅行先で買ったものらしい。
「まだ持ってたの?」
「使えるから」
「私、どこにしまったかな」
「実家じゃない?」
昔の話を始めた二人の隣で、征吾は雅紀へ箸を渡した。
雅紀が受け取りながら、小さく言った。
「よかったな」
征吾はうなずいた。
「うん。……ありがとうな」
征吾は、雅紀の皿にも料理を取り分けた。
*
奈津美が二人を見たのは、その年の十月、土曜日の午後だった。
以前、征吾が暮らしていた町から、駅一つ分離れた商店街。奈津美は美容院の予約を終えて、駅へ向かっていた。
前から来た二人組に気づき、足を止めた。
征吾だった。
隣の女性が、スーパーの袋を一つ提げている。二人で肉屋の店先を覗き、何か相談していた。
奈津美は、通りの反対側に立ったまま、髪に触れた。
今日は、ちゃんと化粧もしている。服も、おかしくない。
久しぶり、と言うくらいなら。不自然ではないはずだった。
征吾が、女性の持っていた袋へ手を伸ばした。
女性は首を振った。それから袋を二つ並べて、征吾の手にあったほうと持ち替える。
瓶や牛乳が入っているのか、征吾が受け取った袋が、重そうに下へ伸びた。
女性が、空いた手で彼の袖に触れた。
征吾が顔を向ける。
彼女が何か言い、二人で笑った。
左手の薬指に、指輪が見えた。
征吾の手にもあった。
奈津美は、自分の髪から手を下ろした。
写真で見たことのない女性だった。誰かに見せるために並んだ笑顔でもなかった。征吾は袋を持ち直し、女性が見ていた肉屋の惣菜を、一緒に覗き込んでいた。
店員が何か尋ねると、彼は隣を見た。
彼女はうなずいたあと、自分の分を指で示した。
奈津美は、それを見ていた。
征吾も、コロッケが好きだった。
かつて買い物帰りに買おうと言われ、夕飯があるからいらないと答えたことがある。彼はそのまま通り過ぎた。食べたかったなら、自分の分だけ買えばよかったのに。そのときは、そう思った。
店先で、女性が紙袋を受け取った。
征吾のほうを向いて、何か一言告げる。彼が笑い、紙袋に手を伸ばしかけると、彼女は少し引いてみせた。
まだ食べちゃ駄目、というような仕草だった。
奈津美の知っている征吾が、困ったように笑った。
その顔を見た瞬間、声をかけられなくなった。
自分にも、こういう午後があった。彼と歩くことより、誰かと比べて見劣りしないかを気にするようになる前には。
人が通るので、奈津美は店の軒先へ寄った。
二人は、反対方向へ歩き出した。
女性が征吾の手を握る。彼も握り返し、歩幅を少し緩めた。
角を曲がるまで、彼はこちらを一度も見なかった。
奈津美は携帯を出した。
征吾の連絡先は消していなかった。最後に送った文も、そのまま残っている。
『もう一度だけ、考えてもらえない?』
一月の電話の翌日に送った。既読はついたが、返事はなかった。奈津美も、それ以上は送れなかった。
画面を閉じようとして、指が文字の入力欄に触れた。
今、見かけたよ。
打ってから、消した。
今年の春には三十歳になった。紹介サービスは続けているが、今日は見合いの予定も、友達との約束もない。
さっき美容師に、これからお出かけですか、と聞かれた。
はい、と答えたので、いつもより丁寧に巻いてくれた。出かける予定などなかった。ただ、帰って洗濯するだけだとは言いたくなかった。
もう一度顔を上げても、二人は見えなかった。
奈津美は、征吾と付き合っていた頃の写真を探した。旅行先の写真が並び、目当てのものは見つからない。
彼が自分の部屋で笑っている写真。休日、出かける用事もなく、一緒にいた日の写真。
探しているうちに、それを撮った覚えがないことに気づいた。
母から夕飯はどうするのかとメッセージが来た。月に一度、近くに住む両親と食事をしている。今日はその土曜日だった。
帰りに寄る、と打ったが、まだ送りたくなかった。
母には、征吾と別れてから付き合った三人のことを話していない。もう一度連絡してみたら、と何度も言われ、そのたびに、私にも選ぶ権利はあると答えていた。
立ち止まっていると、店員に順番を待っているのかと聞かれた。
奈津美は首を振り、肉屋の前を離れた。
駅へ向かう途中で、母に返事を送った。
帰りに寄る。
それだけの文なのに、二度も打ち間違えた。
*
「今夜、何が食べたい?」
角を曲がってから、香澄が聞いた。
征吾は、肉屋で買い足したコロッケを思い出した。
「鶏肉の予定だったけど、明日にしてもいい?」
「いいよ。じゃあ、今日はこれとサラダ?」
「うん。あと、スープが欲しい」
「私作る。大根、使っちゃおう」
香澄が紙袋の中を確かめた。
「帰ったら、一個だけ先に食べたいな」
「俺も」
「二個しか買ってないよ」
「じゃあ半分ずつ」
香澄が袋を閉じた。
「じゃあ、一個だけ切ろう。残りは夜」
「夕飯、遅くすればいいか」
「それでいこう」
家まで、あと五分ほどだった。征吾は重い袋を反対の手へ移した。
マンションの前で、香澄がバッグの中の鍵を探した。
見つからないらしく、二度同じところを確かめている。征吾は自分の鍵を出した。
「開けるよ」
「ありがとう。……あった。小さいほうのポケットだった」
二人でエレベーターに乗った。
部屋へ入ると、征吾は冷蔵庫へ肉と牛乳を入れた。香澄が手を洗って戻ってきたので、入れ替わりに洗面所へ行く。
台所では、もう紙袋が開いていた。
「お茶、冷たいのでいい?」
「うん」
「じゃあ自分の持ってきて。私、これ切るから」
征吾はグラスを二つ出し、冷蔵庫の麦茶を注いだ。
食卓に置くと、香澄が片方の皿を押してくれた。コロッケが半分、切り口から湯気はもう出ていなかった。
食べると、中はまだ温かい。
「まだ温かいね」
「うん。先に食べてよかった」
香澄が皿を引き寄せた。
「征吾さん、衣、落ちる」
言われて手元を見ると、テーブルに細かい衣が散っていた。征吾は皿を近づけ、落とした分を指で拾った。
征吾は二口目を食べた。
香澄も自分の分を口へ運び、冷蔵庫の上の時計を見た。
「晩ご飯、八時くらい?」
「そうしよう」
それまで何をしようかと考えながら、征吾は冷たいお茶を飲んだ。
~完~
お読みいただき、ありがとうございました。
征吾と香澄、そして二人を見守った雅紀と紗和のやり取りを、楽しんでいただけていたら嬉しいです。
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