第八話:普通って、どうすればいいんだっけ?
「アルスちゃん、いいですか。今日の目標は『普通』です」
エレナ先生は、少し顔を赤くしながら言いました。 昨日の「ポカポカ魔法」のせいで、先生は今朝までずっとお昼寝をしていたみたいです。
「普通……。それって、物理学で言うところの『標準状態』のこと?」
「いいえ、違います。この世界の、五歳の子供として当たり前の出力のことです。いい? 木箱を壊さず、燃やさず、ただ、ちょっとだけ焦がす。それが『普通』の下級魔法なのよ」
エレナ先生は、わざとたどたどしい動きで杖を振りました。 ポフッ、という気の抜けた音とともに、小さな火が木箱の表面を黒くしました。
「これよ! これが、お父様やバラムさんが安心する『普通』なの!」
「……なるほど。あえてエネルギー効率を最悪にして、不完全燃焼を起こせばいいんだね」
僕は納得しました。 今までは「いかに少ない魔力で最大の結果を出すか」を計算してきましたが、今回は逆です。 「いかに無駄な動きをして、エネルギーをドブに捨てるか」を計算すればいいわけです。
「よし、やってみるよ。……えいっ」
僕は指先から、わざと魔力をバラバラに、まとまりなく放出しました。 前世で言えば、エンジンの火花が飛び散って、ちっとも加速しないポンコツ車のようなイメージです。
しかし。
バチバチバチィィィィィィ!
僕の指先から出た不規則な魔力は、空中で静電気と混ざり合い、予期せぬ「プラズマ放電」を起こしました。 「普通」の火が出るはずが、紫色の電撃が蛇のようにのたうち回り、中庭の芝生をめちゃくちゃに焼き払いました。
「ひぎゃあああ!? アルスちゃん、やめて! 全然普通じゃないわよ!」
エレナ先生が悲鳴を上げました。 不完全燃焼を狙った結果、不安定なエネルギーが暴走してしまったのです。
そこに、シルフィちゃんがやってきました。 彼女は昨日の「ふにゃふにゃ事件」が恥ずかしいのか、僕と目を合わせようとしません。
「な、なによその不細工な魔法。貴方、才能が枯れたのかしら?」
「あ、シルフィちゃん。今、普通になる練習をしてるんだ。でも、わざと下手にやるのって、全力を出すより難しいんだよ」
「ふん、自慢かしら。いいわ、お手本を見せてあげる。……こうよ!」
シルフィちゃんが、一生懸命に魔力を練って、小さな水の玉を作りました。 それはパシャッ、と木箱にかかって、少し濡らしただけでした。
「どう? これが普通の、可愛らしい下級魔法よ。貴方には一生かかっても無理でしょうね」
「……。……。……あ、そうか!」
僕は閃きました。 僕の計算が詳しすぎるのがいけないんです。 「水の玉」を「水分子の集合体」だと考えるから、ウォーターカッターになってしまう。 もっと、知能を落として、何も考えなければいいんだ。
「よし。何も考えない。僕は五歳児。水は、じゃぶじゃぶ……。えいっ」
僕は脳のスイッチを切るような感覚で、魔力を丸投げしました。
ドバァァァァァァァァ!
今度は、中庭に突然、巨大な滝が現れました。 「じゃぶじゃぶ」というイメージが、文字通り「大量の水の質量」として具現化してしまったのです。
「うわぁぁぁ! 流されるぅぅ!」
シルフィちゃんが、押し寄せた水に足をすくわれそうになります。 僕はあわてて彼女の腰を掴んで引き寄せました。
「ごめん! 『水の玉』って言ったのに、池の水を全部持ってきたみたいになっちゃった!」
「もう! 何よその極端な魔法! 貴方には『ほどほど』っていう言葉がないの!?」
シルフィちゃんは僕に抱きついたまま、涙目で怒鳴りました。 エレナ先生は、ずぶ濡れになった中庭の真ん中で、天を仰いで笑っています。
「おほほ……。過ぎたるは及ばざるがごとし、ね。アルスちゃん、貴方の『普通』は、この世界の『神級』の全力投球よりも難しいみたいだわ……」
「……どうすればいいんだろう。算数を使わないと、魔法が迷子になっちゃうんだ」
僕は、びしょ濡れのシルフィちゃんを支えながら、真剣に悩みました。
物理学者の俺が「普通」を目指した結果。 「不安定な電撃」か「大量の水害」を引き起こすという、さらなる迷惑をかけることになりました。
神級魔法を使える人が数人しかいないこの世界で。 僕は、ただ「普通」に魔法を放つという、世界で一番難しい数式に直面していたのでした。




