第七話:ボクとりんりかんと、時々爆発
「いいですか、アルスちゃん。今日は魔法を使いません。いいですね?」
エレナ先生は、いつになく真剣な顔で僕の前に座りました。 場所は屋敷の図書室。 僕の周りには、魔法の本ではなく「人の道」とか「貴族のたしなみ」といったタイトルの本が山積みにされています。
「えー、先生。重力の計算の続きがしたいよ。位置エネルギーを魔力に変換する実験、まだ途中なんだ」
「だめです! 貴方がそれをやると、この屋敷が自由落下を始めてしまいます!」
エレナ先生が机をバンと叩きました。 おっとりした聖母のような先生が、ここまで必死になるなんて。 やっぱり、昨日の岩山消滅事件はやりすぎだったのかもしれません。
「アルスちゃん、いい? 魔法っていうのはね、包丁と同じなの。お料理に使えばみんなを幸せにするけれど、使い方を間違えれば人を傷つける。貴方の『算数』は、包丁どころか巨大な隕石を落としているのと同じなのよ」
「隕石……。あ、それ面白そう。質点と速度を計算すれば……」
「計算しなくてよろしい! 今、先生は『りんりかん』の話をしています!」
エレナ先生は僕の両頬をむぎゅーっと引っ張りました。
「いい? 誰かに魔法を向けるときはね、その人の後ろにいる家族や、その人が生きてきた時間を想像しなさい。貴方が一瞬で消した岩山だって、何万年もかけてそこにあったのよ」
「……何万年も。そうか、地層の堆積時間を考えたら、もったいないことをしたのかな」
「そうよ! 効率とか出力とか、数字だけじゃなくて『心』を見るのです」
先生は優しく僕を諭します。 なるほど。物理学は現象を説明するけど、その現象が世界にどう影響するかまでは教えてくれません。 これが「りんりかん」というやつか。僕は少しだけ反省しました。
そこに、シルフィちゃんがひょっこりと顔を出しました。
「あら、アルス。またエレナ様に怒られているの? 本当に手の焼ける家来ね」
シルフィちゃんは、新しい扇子をパタパタさせながら、ませた仕草で笑いました。
「シルフィちゃん。今、先生から魔法を使わない『心』の勉強を習っているんだ」
「ふん、当然だわ。貴方の魔法は、なんていうか……デリカシーがないのよ。もっと優雅に、美しくあるべきだわ」
シルフィちゃんはそう言って、指先に小さな光を灯しました。 それは、ほんのり温かくて、夜道を照らすのにちょうどいいくらいの、優しい光でした。
「どう? これが『心のこもった』魔法よ」
「……あ、すごい。熱放射を抑えて、可視光線の波長だけをきれいに抽出してる。シルフィちゃん、これって光子の密度を……」
「もう! またすぐ理屈っぽくなる! 綺麗ねって言えばいいのよ!」
シルフィちゃんにポカポカと叩かれながら、僕は考えました。 「心」を込める。 つまり、相手がどう感じるかを計算式に組み込めばいいわけです。
「わかった。やってみるね。……シルフィちゃんに、あったかくて優しい『心』の魔法を」
「え? ……ま、まあ、やってみなさいよ。家来の心のこもった魔法、受けてあげてもよくってよ」
シルフィちゃんは少し顔を赤くして、期待の眼差しを向けました。 エレナ先生も「あら、いい傾向ね」と見守っています。
僕は、前世の記憶から「赤外線」の知識を取り出しました。 相手を焼くのではなく、体の芯からじわじわと温める、遠赤外線の波長。 さらに、リラックス効果を高めるために、空気をわずかに振動させて「一分のfゆらぎ」の音波を加えます。
「……あったかくなれ」
僕が指先を向けて、ごく微量の魔力を放った瞬間。
ポカポカポカポカ……!
シルフィちゃんの周りの空気が、お風呂上がりのような、極上の温かさに包まれました。
「……はあぁ、なにこれ。すごく、気持ちいい……」
シルフィちゃんは、とろんとした目をしてその場にふにゃふにゃと座り込んでしまいました。 あまりの心地よさに、彼女の「ませた」態度はどこかへ飛んでいき、ただの幸せそうな五歳児に戻っています。
「あら……? 確かにこれは、攻撃性がないわね。とっても優しい魔力だわ」
エレナ先生もその範囲に入り、うっとりと目を細めました。 聖母のような先生が、本当の聖母のような穏やかな表情になっています。
「よし、成功だ! これで『りんりかん』はクリアだね、先生!」
僕はガッツポーズをしました。 ……しかし、数分後。
「……はっ! 私、今、だらしない格好を見せたわね! 貴方、なんて魔法をかけるのよ!」
正気に戻ったシルフィちゃんが、顔を真っ赤にして怒り出しました。 あまりに気持ちよすぎて、貴族としてのプライドを忘れてしまったのが恥ずかしかったみたいです。
「アルスちゃん……。確かに攻撃ではないけれど。これ、下手をすれば人を廃人にする『堕落の魔法』だわ……」
エレナ先生も、頬を赤くしながら複雑な表情で僕を見ました。
物理学者の俺が「心」を計算に入れた結果。 神級の攻撃魔法よりも恐ろしい、「人をダメにするコタツ魔法」が誕生してしまったのでした。




