第六十七話:物理学の通じない境界、東の果ての「黒い霧」
世界経済が「米」と「とんかつ」で幸福に包まれる中、アルスの執務室に設置された全世界観測モニターには、依然として不気味なノイズが走り続けていた。
「……シルフィ、ドミニアン帝国のさらに東。あの黒い霧に覆われた未踏地の座標、依然としてスキャンが弾かれるね。僕の透過パッチを反射するのではなく、物理的に『吸収』しているようだ」
「はい、アルス様。ガブリアスの獣人たちによる陸路の調査も、アクエラの民による海路の接近も、すべてが一定の境界線で消失……あるいは、『なかったこと』にされているようですわ」
アルスは眼鏡を指で押し上げ、その「物理的な沈黙」を興味深く見つめた。 そこは地図上で「極東の絶域・虚」と呼ばれる場所。かつての大戦ですら放置され、神々ですら「あそこには関わるな」と口を閉ざす禁忌の領域だ。
「……よし。五十万人の食料とインフラが安定した今、この世界最大の『バグ』を放置しておくのは非効率だ。リザ姉さん、父上。……少し、極東の霧を払いに行こうか」
数日後。
アルエドの最新鋭・隠密魔導戦艦「ロジック・アーク」は、極東の境界線へと到達した。 甲板に立つレイヴンが、腰の剣に手をかけながら、目の前の「黒い壁」を睨みつける。
「……アルス、ここは嫌な予感がするな。覇気が通らねぇ。空気が重いんじゃねぇ……空気が『死んでる』んだ」
「ええ。ここは空気という媒体すら物理法則を失っている。……パッチ、領域安定化。僕の周囲三メートルだけ、強制的に『既知の理』を固定するよ」
戦艦が黒い霧に突っ込んだ瞬間、視界はゼロになった。 魔力計の針は狂ったように振れ、シルフィの演算端末からもエラー音が鳴り響く。だが、アルスの固定した空間だけが、暗闇を切り裂くナイフのように進んでいく。
霧を抜けた先に広がっていたのは、黄金色のアルエドとは対極の、「色彩を失ったモノクロームの世界」だった。
「……何、ここ。建物が……墨で書いたみたいに歪んでるわ」 リザが槍を構える。そこには、歪な形の城郭と、無数に突き刺さった錆びた刀、そして……。
『……理を……持ち込む……不届き者め……』
空間から染み出すように現れたのは、肉体を持たない「影」の軍勢。彼らは魔法でも物理でもなく、ただそこに存在するだけで周囲の「法則」を腐食させていく。
「……なるほど。ここは物理学の『ゴミ捨て場』か。あるいは、かつてこの世界から排除された『非合理な怪異』の巣窟。……シルフィ、ここには電子決済も米の旨味も通用しないね。彼らには価値観という概念がない」
「アルス様、敵対反応が急増しています! 彼ら、アルス様の持つ『秩序』を、最大の異物として排除しようとしていますわ!」
無数の影が、物理法則を無視した動きでアルスたちに襲いかかる。
「……ふむ。理屈が通じないなら、理屈で『塗り潰す』までだ。レイヴン父上、リザ姉さん。……全力で暴れていいよ。僕が後ろから、この空間そのものを『アルエド規格』に無理やりフォーマットし直すから」
「ガハハ! 待ってました! 理屈は分からんが、ぶっ壊せばいいんだな!」
レイヴンの覇気が爆発し、極東の暗雲を物理的に引き裂く。 世界統一を成し遂げたアルスの前に現れた、最後にして最大の「バグ」。極東の未踏地編、ついに開戦である。




