第六十六話:天界の禁忌と、背徳の「サクサク」
火豚のとんかつという、アルエドの物理学が生んだオーパーツ的美味に、最初に魂を売ったのは上級天使セラフィエルだった。
「……こんなもの、天界にはないわ。聖なる果実もマナも、この『サクサクとした衣』と『溢れる肉汁』の前では、ただの水分補給に過ぎない……!」
彼女は宿泊しているスイートルームで、アルスが「研究資料」として差し入れたとんかつ定食を貪りながら、ついに禁断の決断を下した。彼女は天界の倉庫から、神の食卓にしか並ばない伝説の至宝**「神樹の雫」**を無断で持ち出し、アルスの執務室へ駆け込んだのである。
「アルス! これを……これを使って! この聖なる蜜を衣に練り込めば、とんかつはさらなる高み、いわば『神格とんかつ』へと進化するはずよ!」
「……セラフィエルさん、それは天界の重要管理物資だよね? 持ち出しの演算処理(手続き)は通したのかい?」
「そんなのどうでもいいわ! 早く、私にさらなる『サクサク』を……!」
アルスは呆れながらも、その未知の素材に物理学者としての好奇心を刺激された。 「……やれやれ。物質再構成パッチ、適応。神樹の雫の粘性を調整し、火豚の脂とエマルション(乳化)させる。……ミーナ、揚げ温度を0.5度刻みで再演算して」
数時間後。魔王城のキッチンから、黄金の光を放つ「特製・神聖とんかつ」が完成した。 一口食べたセラフィエルの顔は、もはや神の使いとは思えないほどに蕩け、背後の六枚の翼が歓喜でバタバタと震える。
だが、その歓喜の絶頂に、冷ややかな「聖なる重圧」が降り注いだ。
「……セラフィエル。貴殿、そこで何をしている」
空間が割れ、光の中から現れたのは、特級十三天使の面々。長であるメタトロンを筆頭に、全員がかつてないほどに険しい表情をしている。
「天界の至宝『神樹の雫』の魔力反応が、まさかとんかつを揚げるための『油』の中から検知されるとは……。これは神への冒涜、あるいは天界の安全保障に対する重大なバグだ!」
メタトロンの糾弾に、セラフィエルは口にキャベツを咥えたまま固まった。
「メ、メタトロン様……。これは、その……調査です! アルエドの食文化が天界に与える影響を、私の胃袋をもって……!」
「黙れ! 貴殿を即刻連行し、天界の審判に——」
メタトロンの言葉が止まった。 アルスが、揚げたての「神聖とんかつ」を、彼らの前にそっと差し出したからだ。
「メタトロンさん、怒るのは効率が悪いよ。まずはこの『物理学的に計算し尽くされた脂の融点』と『神樹の雫による香りの相乗効果』を実証してからにしてくれないかな」
「……ふん、愚かな。我ら特級天使が、そのような物欲に……」
メタトロンは渋々一切れを口にした。 次の瞬間。彼の脳内に、銀河の誕生に匹敵する衝撃が走った。
「…………っ!? な、なんだ、この舌の上で踊る『聖なる旨味』の核分裂は……!? 衣が……衣が私の魂を優しく包み込んでいく……」
「隊長! 隊長しっかりしてください! ……んぐっ!? ……お、美味しい……! 審判、審判を中止します! これは『神の奇跡』の範疇です!」
数分後。 そこには、セラフィエルと一緒にカウンターに並び、無言でとんかつを頬張る特級十三天使たちの姿があった。
「……メタトロン、追加のパッチ(お代わり)はどうする?」 「……アルス、君主よ。……五枚だ。あと、この『すりごま』という物理デバイスの使い方を詳しく教えてくれ」
天界の最高幹部たちは、アルスの「とんかつ」という名の物理攻撃の前に、完膚なきまでに敗北した。 天界の至宝を持ち出した不祥事は、メタトロンの権限により「食文化交流という名の国家機密プロジェクト」として、無理やり隠蔽(最適化)されることになったのである。




