第六十五話:物理学者の休日、あるいは「究極のとんかつ」への再始動
アルエド一号「極」の収穫により、主食の確保は完璧となった。しかし、物理学者であり、かつ一人の「美食の探求者」でもあるアルスの脳内演算は、一つの致命的な欠落を弾き出していた。
「……計算が合わない。この極上の米、この絶妙な炊き上がり。これに合わせるべき『脂の甘み』と『サクサクとした食感の調和』が、今のアルエドの備蓄には存在しない」
アルスは眼鏡をクイッと上げ、執務室のメインモニターに一体の魔物のホログラムを投影した。
「魔界大陸の深部、極限環境の火山地帯に生息する『獄炎火豚』。その肉質は、常に数千度の熱で熱せられることで余分な脂肪が淘汰され、赤身には魔力の旨味が凝縮されている。……これでとんかつを作れば、理論上、米との相性は無限大だ」
「アルス様……まさか、そのために自ら動くおつもりですの?」 シルフィが呆れたように尋ねるが、アルスの瞳にはかつてない「情熱」という名の演算結果が宿っていた。
「ああ。これは国家の事業ではなく、僕個人の『自由研究』だ。カイル、ルナ。久しぶりに僕と一緒に『冒険者』としてフィールドへ出よう。……パッチ、冒険者モードに切り替え」
数時間後。魔界の火山地帯。 そこには、君主としての重厚なローブを脱ぎ捨て、動きやすい「魔導物理学者」の装備に身を包んだアルスの姿があった。
「お兄ちゃん、すっごく楽しそう! でも、火豚ってSランク指定の危険種だよね? 普通は軍を出すレベルだよ」 カイルが最新の魔導杖を構えながら周囲を警戒する。
「無駄だよ、カイル。軍を出せば、火豚は警戒して体内の魔力濃度を下げてしまう。……僕たちの『隠密パッチ』で接近し、一撃でその細胞を傷つけずに無力化しなければ、最高の揚げあがり(食感)は得られない」
岩陰から現れたのは、全身が溶岩のように赤く輝く、巨大な猪のような魔物――獄炎火豚だった。
「ターゲット確認。……重力加速度の逆転パッチ。対象の心拍数を0.1秒で停止させ、血液の酸化を防ぐ。……演算、終了」
アルスが指を鳴らした瞬間、襲いかかろうとした火豚は、物理の理を捻じ曲げられた空間の中で、何が起きたか理解することもなく「最高の食材」へと変わった。
「よし。ルナ、重力操作でこのまま城のキッチンへ運んで。ミーナ、油の温度管理は180度から160度への二段階降温パッチを適用して。……今夜は、宴だ」
その夜。魔王城のダイニング。 黄金色に輝く衣を纏った厚切りのとんかつが、炊き立ての「アルエド一号」の隣に並んだ。
「……いただきます」
アルスが箸で一切れを口に運ぶ。 サクッという、物理学的に完璧な音。そして、噛んだ瞬間に溢れ出す、火豚特有の高密度な肉汁と、米の甘みが口の中で完璧な「核融合」を起こす。
「……計算通り。いや、計算以上だ。この食感のコントラスト……、これが『自由』の味だね」
「ガハハ! 息子よ、とんかつ一つのためにSランク魔物を狩りに行くとは、相変わらず極端な奴だ!」 レイヴンが笑いながらとんかつを頬張り、リザも「この弾力、筋肉の成長に最高だわ!」と目を輝かせる。
君主としての激務の合間、たった一杯のとんかつ定食のために、世界の理を書き換えてしまったアルス。 その飽くなき探求心こそが、アルエドという国家を、さらなる未知の「美味しさ」へと導いていくのであった。




