第五十六話:側近の矜持と、呼び名の「演算」
自由国家ランクルとの交易が始まり、魔王領がかつてない活気に包まれる中、アルスは執務室で大量の物流データと格闘していた。
「……ここの関税パッチの適応範囲を0.05%広げないと、ランクルの商人と魔族の露店商の間で不均衡が生じるね。シルフィ、以前の統計資料を出してくれるかな?」
「はい、アルス様。こちらの魔導フォルダに格納しておりますわ」
シルフィが淀みのない動作で資料を差し出す。その流れるような所作と、アルスに向ける揺るぎない敬意。それを見たリーズが、ふとした疑問を口にした。
「……ねぇ、シルフィさん。前から気になっていたのですが、シルフィさんはいつからアルス様のことを『様』付けで呼ぶようになったのですか? 出会った頃は、もう少し……こう、有能なビジネスパートナーというか、対等な距離感でしたよね」
その問いに、シルフィは一瞬、眼鏡の奥の瞳を和らげ、かつての自分を思い出すように微笑んだ。
「そうね……。最初は、彼を助けることが自分の仕事だと割り切っていたわ。私は家族でもなければ、アイリス様のような師弟関係でもない。あくまで客観的な立場から、彼の特異な知性を管理・補助する役目だと思っていたの」
シルフィは、アルスが設計し、自分が最適化した魔導端末を愛おしそうに撫でた。
「でも、彼の物理学が世界の理を次々と書き換え、神聖皇国や自由国家の大統領までもが彼の手のひらで踊らされる姿を一番近くで見てきたわ。……ただの協力者でいるには、彼の見ている景色はあまりにも広大で、残酷なほどに合理的だった。いつの間にか、私にとって彼は『補助する対象』ではなく、敬意を払うべき『唯一無二の主』に変わっていたのよ」
シルフィは一度言葉を切り、アルスの横顔を見つめた。
「決定打は……彼が一人でSランクの死霊竜を無力化したあの時かしら。魔法や武力ではなく、ただの『理』をもって、絶対的な恐怖を無価値なサンプルに変えてしまった。あの静かな背中を見た時、私のプライドは完全に彼に屈服したの。血の繋がりも、師弟の絆もない私だからこそ、純粋に彼の知性と統率力に心酔し、今の呼び方に落ち着いたというわけ」
「……なるほど。血縁がないからこそ、シルフィさんの敬意はより純粋なものなのですね」 リーズは感心したように頷き、自分のデッキブラシを握り直した。
「ふぅ。二人とも、呼び名なんて何でもいいよ。僕はただ、君たちが快適に過ごせる環境を作りたいだけなんだから」 アルスが照れ隠しにキーボードを叩く速度を上げる。
そこへ、アイラが「カイル様ぁ! 受付の端末が壊れちゃったわ! 私の愛の魔力に耐えられなかったみたい!」と騒ぎながら乱入してきた。
「アイラ様! 壊したんじゃなくて、それはアイラ様が魔力を流し込みすぎたせいで過負荷になっただけだよ! ……あ、お兄ちゃん、修理パッチお願い!」
「……やれやれ。日常の非効率的なトラブルは、相変わらず減らないね」 アルスは苦笑しながらも、家族や仲間たちのために、今日もその天才的な頭脳をフル回転させる。
シルフィはそんなアルスの横顔を見つめながら、静かに、しかし誇らしげに、紅茶のお代わりを準備するのであった。




