第四十四話:聖女の変貌と、届かない福音
神聖皇国アシュタリアの聖女として、白磁のような静寂の中で育ってきたリーズにとって、魔王城での朝は「世界の崩壊」に近い衝撃で始まる。
「ほらリーズちゃん! 腰が入ってないわよ! 物理法則を気合でねじ伏せるつもりで、もっと地面を強く踏んで!」
朝日が昇る前、まだ薄暗い中庭にリザの怒号が響く。リーズは、アシュタリアの至宝とされる「清浄の衣」の裾を泥で汚しながら、自分よりも巨大な特製の鉄剣を必死に振っていた。聖女の細い腕はすでに悲鳴を上げ、視界は涙で滲んでいるが、リザの瞳に宿る熱い輝きに見つめられると、不思議と足が止まらない。
「は、はい! リザ様! ……えいっ!!」
リーズが振り下ろした一撃が、アルスの設計した練習用ターゲットを真っ二つに叩き割った。その瞬間、彼女の「清浄の力」が、破壊の衝撃波と混ざり合い、周囲の空気をプラズマ化させて弾けさせる。
「いいわよ! 今のは奇跡じゃなくて、純粋な『意志』の輝きだったわ!」
リザがリーズの頭をガシガシと乱暴に撫で回す。かつて教会で「神の器」として、誰にも触れられぬよう大切に扱われてきたリーズにとって、この少し痛いほどの手のひらの温もりこそが、今や何よりも信頼できる福音となっていた。
朝の特訓が終われば、次は「実務」の時間だ。 リーズは、自警団の腕章を光らせた勇者ハレルヤと共に、魔王領の繁華街へと繰り出す。
「リーズ殿、今日の『浄化ポイント』はあちらの裏路地です。不法投棄された魔石の残滓が、環境魔素を汚染しています。我らの力で、この街に『真の調和』をもたらしましょう」
「了解しました、ハレルヤ団長! 聖なる輝き(サニテーション)、展開!」
かつては一国を焼き払うための奇跡として教えられた広域浄化魔法が、リーズの手によって、排水溝のヌメリを完璧に除去し、壁の落書きを分子レベルで消し去る究極の「お掃除魔法」へと昇華されていた。魔族の露店商たちが「おっ、掃除の女神様とキラキラ勇者のお出ましだ!」と、親しげに串焼きを差し出してくる。
「ありがとうございます、バルガスさん。でも、公務中ですので……あ、マシュマロの串焼きなら一本だけ……」
受け取った串焼きを頬張りながら、リーズは思う。アシュタリアでは、魔族は「浄化すべき悪」だと教わった。しかし、今自分の目の前で「お掃除ありがとうよ」と笑うこの角の生えた男の、どこに浄化すべき闇があるというのか。
一方、城内ではアルスが新たな「実験」を準備して彼女を待っていた。
「おかえり、リーズさん。ちょうどいいところに。君の清浄な魔力を、この『魔導式・全自動コインランドリー』のコアに注入してほしいんだ。君の魔力特性なら、色落ちを防ぎつつ加齢臭を完全に分解できる計算なんだよ」
「アルス様……。私の聖なる力は、どんどん生活家電の一部になっている気がしますが……」
「何を言ってるんだい。家事の効率化こそが、人類が真に神に近づくための第一歩だよ。さあ、スイッチオンだ」
リーズが溜息をつきながら機械に手をかざすと、魔王城の洗濯物が、まるで天界の雲のような白さと輝きを取り戻していく。その傍らでは、魔王リリスが「リーズ、わたくしのドレスもお願いね。お礼に、アルスとの馴れ初めを三時間ほど語ってあげますわ」と、優雅に紅茶を啜っている。
そんな平和すぎる、しかしあまりにも「教育に悪い」日常を送っていたリーズだったが、ついにその均衡が破られる時が来た。
アシュタリア神聖皇国、異端審問官。 「聖女リーズ奪還」の命を受け、魔王城の正門前に現れたのは、皇国最強の重装魔導騎士団と、リーズの教育係であった司教マルクスだった。
「リーズよ! その穢れた魔族の城から離れなさい! 貴女は魔王の術中に嵌り、魂を汚されているのです!」
マルクスの叫びが響き渡る。彼の目には、エプロンをつけ、片手に鉄剣、片手に魔導洗濯機のマニュアルを持ったリーズの姿が、この世の終わりであるかのように映っていた。
「マルクス司教……。私は汚されてなどいません。むしろ、ここで本当の『救い』を見つけたのです。……冷たい教会の椅子ではなく、暖かいパンと、汗を流す特訓の中に!」
「狂ったか! 聖女を捕らえよ! 魔族もろとも、神の雷で浄化してくれる!」
騎士団が一斉に魔力を高め、空が不気味に黄金色に染まり始めた。神級魔法の一種「天の裁き」が発動しようとしていた。
その時、城の中から、地面を震わせるような足音が響いた。
「ガハハハハ! なんだ、朝から賑やかだと思えば、リーズちゃんの里帰りか? だがな、せっかくのバーベキューの火が消えちまうような真似は、この俺が許さんぞ!」
現れたのは、上半身裸で巨大な肉を食らいながら、愛剣を軽々と肩に担いだレイヴンだった。その後ろには、不機嫌そうに目を細めるリザと、冷静に数式を投影した眼鏡を光らせるアルスの姿がある。
「父上、相手は皇国の正規軍ですよ。あまり派手に壊さないでくださいね。後片付けが大変ですから」
「分かっているさ、アルス。リザ、お前はリーズちゃんを守ってやれ。……ハレルヤ! お前は元勇者だろ、先輩としてマナーを教えてやれ!」
「御意! リザ閣下のお父上!」
ハレルヤが聖剣を抜き放ち、騎士団の前に立ちはだかる。 「神聖皇国の諸君。君たちの信じる『正義』は、ここではただの『騒音』だ。静かに立ち去りたまえ。さもなくば……リザ閣下のデコピンが火を吹くぞ」
「ふん、理屈はいらないわ。リーズちゃんを泣かせようとした罪、その薄っぺらい鎧ごと叩き直してあげるわ!」
リザが地面を蹴った。物理学的な加速を無視したその一歩が、一瞬で距離を詰め、重装騎士団の先頭車両を「拳」一つで紙屑のようにひしゃげさせた。
戦場は、一瞬で「一方的な指導」へと変貌した。 皇国の魔導師たちが放つ光線は、アルスの展開した「プリズム偏光防壁」で全てあらぬ方向へ反射され、自らの陣地を自壊させていく。さらに、ハレルヤの「必中」の加護を受けた勇者の剣が、騎士たちの武器だけを精密に斬り飛ばしていく。
「お、おのれ……魔王の軍勢め! リーズ、なぜ戦わない! 貴女の『清浄の力』で、この怪物どもを滅ぼしなさい!」
マルクス司教が叫ぶ。リーズは、ゆっくりと自分の鉄剣を構えた。彼女の周囲には、これまで以上に清らかで、しかし刃のように鋭い魔力が渦巻いていた。
「マルクス司教。私は教わりました。本当の清浄とは、汚いものを排除することではなく、汚れた場所を自らの手で磨き上げることだと。……今の貴方たちの心こそ、私が浄化すべき『汚れ』です!」
リーズが剣を振るった。 それは奇跡の光ではなく、リザとの特訓で培った「筋力」と、アルスの「重力加速パッチ」を乗せた、物理的な一撃。
カァァァァァァンッ!!!
皇国の誇る究極の防御結界が、十四歳の少女の力任せな一撃で、まるでガラスのように粉々に砕け散った。
「ば、バカな……。聖女が、物理攻撃だと……!?」
腰を抜かしたマルクス司教の前に、白虎を脇に抱えたアルスが歩み寄った。
「悪いけど、彼女は今、僕の城の『主任掃除担当兼、洗濯技術アドバイザー』なんだ。君たちの都合で連れて帰られると、僕の生活効率が著しく低下するんだよね。……というわけで、お引き取り願えるかな?」
皇国の精鋭騎士団は、ボロボロになった鎧を引きずりながら、脱兎のごとく撤退していった。 静かになった正門前で、リーズは深く息を吐き、剣を収めた。
「……アルス様。私、あんなに強く振るうつもりはなかったのですが」
「いいんだよリーズ。君の『清浄の力』が、新しいステージに進化した証拠だ。……さあ、戦いでお腹も空いたろ? ミーナが特製のおにぎりを作って待ってるよ」
「おにぎり……! ありがとうございます!」
かつての聖女は、泥に汚れた顔をそのままに、太陽のような笑顔で城へと駆け戻っていった。 神級魔法を自在に操る者たちが集まるこの場所で、物理学者は確信していた。 世界を救うのは、神の言葉でも、絶対的な奇跡でもない。 美味しい食事と、自分を肯定してくれる家族、そして……少しばかりの「圧倒的な物理量」なのだと。
その日の夜、リーズの日記には、誇らしげにこう記された。 『今日、アシュタリアの司教様を物理的に浄化しました。明日は、もっとリザ様に褒められるように頑張ります。』
魔王城の平和は、今日もまた、さらに「強固」で「清潔」なものへとアップデートされていくのであった。




