第三十九話:物理学(ロジック) vs 気合(イレギュラー)
大会の全日程が終了し、熱狂が冷めやらぬ闘技場。
「……さて、最後は僕が相手だ、姉さん」
僕がゆっくりと舞台に上がると、観客席の魔族たちが今日一番の歓声を上げました。
「いいわよ、アルス。アンタが昔から理屈ばっかりこねて、私のマシュマロを横取りしてた頃からの決着をつけましょうか」
リザ姉さんが木剣を構えます。
その構えに隙はありませんが、物理的に言えば彼女はただの「高密度な筋肉と骨の集合体」に過ぎません。
……理論上は。
「悪いけど、姉さん。物理学者の戦いは、剣を振る前に終わるんだ。……『空間曲率・固定』」
僕が指を鳴らした瞬間、姉さんの周囲の「空間」そのものを、鉄よりも硬い立方体として固定しました。
動くための自由体積を奪えば、どんな剛腕も振るえません。
しかし。
「なーんか、空気が重いわね……えいっ!」
姉さんが木剣を「横に払った」だけで。
バリィィィィン!! 空間が、まるで強化ガラスが割れるような音を立てて粉砕されました。
「バカな!? 空間の曲率を固定したはずなのに、純粋な『腕力』で物理定数を無視して引きちぎったのか!?」
「なら、次はこれだ。……『熱力学第二法則・局所適用』」
姉さんの足元から、全ての熱エネルギーを奪いました。
絶対零度を通り越し、分子の振動すら許されない「運動エネルギーの死」の世界。
「さあ、これでもう一歩も動けな——」 「ちょっと、寒いわよアルス! 風邪引いたらどうするの!」
姉さんが足を踏み鳴らしました。
ドォォォォォン!! 彼女の「怒り」という感情が熱エネルギーへと直接変換されたのか、絶対零度のフィールドが、一瞬で春のようなポカポカ陽気へと上書きされました。
……エネルギー保存則が、姉さんの不機嫌一つで崩壊しています。
「……だめだ、既存の物理学じゃ追いつかない。なら……『事象地平・展開』!」
僕は杖を掲げ、姉さんの周囲に「シュヴァルツシルト半径」を再現しました。光すら脱出できない超重力の檻。
ここに入れば、原子すら引き延ばされ、事象は凍結するはず。
姉さんは、目の前に現れた「漆黒の球体」をじっと見つめました。
「……これ、邪魔。どいて」
姉さんが木剣を、ただ真っ直ぐに突き出しました。
物理学的に言えば、ブラックホールに剣を突き立てるなど不可能です。
しかし、姉さんの木剣は「邪魔だ」という意志のままに事象地平を貫き、その中心にある特異点を、まるで「邪魔な石ころ」を退けるようにカチリと弾き飛ばしました。
「あ、ありえない……。物理学の極致が、ただの『邪魔』という一言で……!」
「隙ありっ!!」 姉さんの木剣が、僕の鼻先でピタリと止まりました。 強烈な風圧で、僕の髪が後ろに激しくなびきます。
「……僕の負けだ、姉さん。今の突き、僕の演算では100回中100回とも『回避不可能』だったよ」
「ふふん、やっと分かった? アルス、アンタの計算は正しいかもしれないけど、私の『気持ち』は計算機になんて入らないのよ!」
姉さんは木剣を収めると、いつものように僕の頭をガシガシと撫で回しました。 実況席でリリスが「アルスが……わたくしの夫が、あんな理不尽に負けるなんて……」と呆然とし、エルミさんは「あの子、もう人間じゃないわよ。歩く法則崩壊よ」と天を仰いでいました。
神級魔法を使える人が数人しかいないこの世界で。 物理学者は、実の姉という「最大級の未解決問題」を前に、いつか彼女を数式で表せる日を夢見て、研究ノートに「姉さん:測定不能」とだけ記すのでした。




