第三十四話:勇者、理不尽な愛に目覚める
「……はぁ、はぁ……。バカな、神に選ばれたこの僕が、ただの『根性』に押し負けるなど……!」
アルスが構築した「零領域」の中。 あらゆる魔法パッチも神の奇跡も遮断された、純粋な物理法則のみが支配する空間で、勇者ハレルヤは膝をついていました。
その目の前には、服の袖が破れ、額に汗を浮かべながらも、獲物である木剣を微動だにさせず構えるリザ姉さんの姿がありました。
「あんた、いい筋してるわよ。でもね、世界を救うだの浄化するだの、そんなふわふわした理由で振る剣じゃ、私の『家族を守る』っていう重さには勝てないのよ!」
リザ姉さんが最後の一歩を踏み込みました。 魔力も何もない、ただの体重移動と広背筋の連動による、究極の正拳突き。
ドォォォォォン!!
勇者の腹部にめり込んだ拳が、背後の空間を揺らしました。 「がはっ……!?」 ハレルヤはそのまま、魔王城の壁まで吹き飛び、瓦礫の中に埋まりました。
「……ふぅ。アルス、もういいわよ。この子、もう戦う気ないみたいだし」
姉さんが肩を回しながらそう言うと、僕は零領域を解除しました。 急いで駆け寄る僕とシルフィ、そして警戒を解かない魔王リリス。 瓦礫の中から這い出してきたハレルヤは、ボロボロになった聖剣を杖代わりに、フラフラと立ち上がりました。
「……負けた。完璧な敗北だ。神の光すら届かぬ場所で、僕は……一人の女性の『意志』に屈した……」
彼は虚空を見つめ、何かに取り憑かれたような顔をしていました。 そして、ゆっくりと視線をリザ姉さんに向けました。
「……リザ殿。貴女の拳に、僕は神よりも確かな『真理』を見た。……激しく、熱く、そしてどこまでも理不尽なその力。……素晴らしい」
「は? 何言ってるの、あんた」
リザ姉さんが怪訝そうな顔をした次の瞬間。 ハレルヤは、その場に跪き、リザの前に聖剣を捧げました。
「決めた。僕は神を捨てる。今日から僕は、貴女という『理』に仕える騎士となる! 貴女のその強さ、その美しさ……僕を、貴女の所有物にしていただきたい!」
「…………えっ?」
リビングの空気が凍りつきました。 物理学者の僕ですら、この急激な「感情の相転移」は計算できませんでした。
「ちょっと待ちなさいよ! なんで勇者が姉さんにプロポーズ(?)してるのよ!」 シルフィが叫びます。
「あら。アルスに続いて、リザちゃんにもストーカー……じゃなくて、熱烈なファンがついちゃったわね」 お母様が、どこか楽しそうに口元を押さえています。
「……リリス。これ、どうすればいい?」 「……アルス。放っておきましょう。魔族も人間も、あまりに強すぎる力に触れると、稀に精神の回路が焼き切れることがありますの」
リリスは憐れみの目でハレルヤを見ていました。 しかし、ハレルヤの目は本気でした。黄金の紋章が、今は「恋心」という名の異常な魔力で輝いています。
神級魔法を使える人が数人しかいないこの世界で。 物理学者は、最強の敵を倒したはずが、家系図に「神級の義兄(候補)」が加わりかねないという、人生最大級のノイズに頭を抱えるのでした。
「リザ殿! さあ、私を特訓してください! 貴女のその拳で、私の魂を何度でも叩き直してほしい……!」 「……アルス、こいつ、デコピンしていい?」
「……手加減、してあげてね、姉さん」




