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第二十四話:師の制止、あるいは世界の境界線

「……さて。ミーナちゃんがパンを投げなくて済むように、このエリアの『ベクトル』を全部一定方向に固定してしまおうか」


アルスが淡々と杖を掲げた瞬間、戦場の空気が一変しました。 魔王軍が放つ矢も、魔法も、さらには彼らの身体そのものまでもが、目に見えない巨大な力に引かれるように地面へと叩きつけられました。


「ぐ、あああぁ……!? なんだ、この重圧は……!」


四天王の一人、魔将軍ですら、地面に這いつくばり指一本動かせません。アルスがやったのは、この空間の重力加速度を局所的に「100G」へ書き換えるという、単純かつ残酷な物理操作でした。


「あ、あはは……。アルスさん、すごいですぅ! 魔王軍の皆さんが、ぺったんこのパン生地みたいになってます!」


無邪気に喜ぶミーナとは対照的に、エレナ先生の顔は紙のように白くなっていました。 彼女は震える足で立ち上がり、アルスの背中に向かって叫びました。


「……アルス! やめなさい! 今すぐその術式を解くのよ!」


アルスは不思議そうに振り返りました。


「先生? どうしてですか。まだ敵の残存勢力は80%以上残っています。今ここで一気に『処理』してしまったほうが効率的ですよ」


「効率の問題じゃないわ! アルス、あなた……自分が何をしているか分かっているの!? あなたが今いじっているのは、この世界の根源……神様が定めた『ことわり』そのものよ!」


エレナ先生の手が、アルスの杖を握る手を強く掴みました。その手は、恐怖で激しく震えています。


「あなたの魔法には、もう『代償』も『工程』も存在しない。あなたが『こうだ』と決めた瞬間に、世界がそれに従わされている。……それはもう魔法じゃない。ただの、世界の崩壊よ」


「……崩壊? いえ、僕はただの計算結果を現実に反映させているだけで——」


「その計算が、この世界の許容量を超えていると言っているの! 考えてみて。もしあなたが『この世界には酸素が必要ない』と定義を再構築してしまったら? あなたが瞬きをする間に、人類は絶滅するわ」


エレナ先生の瞳には、涙が浮かんでいました。 それは愛弟子への怒りではなく、自分たちが育ててしまった「怪物」への、深い絶望と慈しみでした。


「王様との約束を思い出しなさい。『何もしないでくれ』と言われた意味を。……アルス、あなたがこれ以上進めば、魔王を倒す前に、あなたが魔王より恐ろしい『バグ』として世界に拒絶されるわ」


「…………」


アルスは杖を下ろしました。 15歳になり、知識が深まれば深まるほど、彼にとって魔法は「ただの数式」に近づいていました。けれど、その数式一つで、恩師がこれほどまでに怯えている。


「……すみません、先生。ちょっと効率を重視しすぎました」


アルスが指を鳴らすと、重力は元に戻り、這いつくばっていた魔王軍は解放されました。しかし、彼らはもはや戦意を喪失し、震えながら後退を始めていました。


「……助かった、のか?」


魔将軍が命からがら逃げ出していくのを見送りながら、エレナ先生はその場に崩れ落ちました。


「……アルスちゃん、お願い。あなたはまだ、人間でいて。……神様みたいな冷たい顔で、世界を変えないで……」


神級魔法を使える人が数人しかいないこの世界で。 物理学者は、師匠の涙を見て初めて、自分が手にしている「数式」の冷徹さと、それを振るう責任の重さを、少しだけ理解するのでした。



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