第十話:最強の「普通」は、お母様の離乳食作りにあった
「エレナ様のお弟子さんたち、みんなおうちに帰っちゃったわねえ」
お母様が、双子の弟と妹にミルクをあげながら、のんびりと言いました。 演習場でエリートたちが全滅したあと、僕はトボトボと家に帰ってきたのです。
「お母様……。僕、どうしても『普通』ができないんだ。わざとエネルギーを捨てようとしても、それが爆発しちゃうんだよ」
僕がソファで落ち込んでいると、お母様は「あらあら」と微笑んで僕の隣に座りました。
「アルスちゃん、そんなに難しく考えなくていいのよ。魔法なんて、ただの『家事の道具』なんだから。ちょっと見ていてね」
お母様は空いた片手で、双子の離乳食が入ったお皿を指さしました。
「冷めちゃったから、少しだけ温めましょうね。……『王の揺りかご(レクイエム)』」
お母様が優しくつぶやいた瞬間。 部屋の中に、とてつもない密度の魔力が満ち溢れました。 それは、エレナ先生が本気を出したときと同じ、あるいはそれ以上の、重厚で静かなプレッシャー。 本来なら、一国の軍隊をひざまずかせるレベルの「王級魔法」の発動合図です。
(……えっ!? 今、王級の術式を組んだよね!?)
僕の目には、お母様の指先に、何千もの数式が幾何学模様のように組み上がっていくのが見えました。 それはあまりに精密で、無駄がなくて、美しい。 僕がやっている「物理学の最適化」とはまた違う、芸術的な完成度でした。
シュン……。
お母様の指先から放たれた王級の魔力は、離乳食の野菜を、完璧な「適温」に温めました。 熱すぎず、冷たすぎず、分子を壊さない絶妙な温度管理。 一国を滅ぼすほどのエネルギーを、たった一口の野菜を温めるためだけに「完全に制御」してみせたのです。
「……お、お母様。今、王級魔法を使ったよね? 離乳食に」
「ええ。火の加減が難しいときは、王級の術式を使うのが一番安定するのよ。これなら栄養も壊れないし、美味しいでしょう?」
お母様は何でもないことのように、双子にスプーンを運びました。 双子も「あうー!」と喜んで食べています。
「な、なんて贅沢な魔力の使い方……。お母様、ひょっとして、すご腕の魔導師だったの?」
「あら、ただの主婦よ。昔、ちょっとだけお城で魔法を教えていたことはあるけれど」
隣で聞いていた父上が、遠い目をしながら教えてくれました。 「アルス……。お前の母さんは、若い頃『灰の聖女』と呼ばれて、戦場を一瞬で鎮圧していた人なんだ。今でも、家計の計算と同じくらい、王級魔法の計算が速いんだぞ」
(……知らなかった。わが家に、本当の『普通』の基準がいたなんて)
お母様の魔法は、出力こそ王級ですが、その使い道が完全に「生活」に振り切れています。 僕みたいに「ドカン」と壊すのではなく、エネルギーを完全に「殺して」飼いならしている。 これこそが、僕が目指すべき究極の手加減……「制御」の形でした。
「アルス、見て。お父様だってこれくらいできるぞ」
父上が負けじと、庭の薪に向かって魔法を放ちました。 「『獄炎の槍』!」 これまた中級の上位クラスの魔法ですが、父上はそれを薪の一点だけに集中させ、一瞬で火をつけました。 薪を燃やし尽くすことなく、ただ火を灯すだけ。
「……。……。みんな、すごすぎる」
僕が「算数」で無理やりやろうとしていたことを、家族は「慣れ」と「生活の知恵」でさらりとやってのけていました。 効率を求める物理学者の俺が、一番見落としていたもの。 それは、力そのものではなく、その「引き算」の美学でした。
「お母様。僕、もう一回練習してくる! 今度は、お母様のスープを温めるみたいに、優しく魔力を動かしてみるよ!」
「ええ、頑張ってね。でも、お鍋を溶かさないように気をつけてね?」
神級魔法を使える人が数人しかいないこの世界で。 僕は、最強の魔法使いが勢揃いしている自分の家族こそが、一番の「お手本」であることに気づいたのでした。




