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もう一度あの日に戻れたら、きっと君を選ばない

作者: 竜山三郎丸

昔書いた短編です。アカウントを作り直したので、微調整しての投稿です。

どうぞ、よろしくお願いします。

◇◇◇

 記憶の中ではいつも夏。街の外れの少し高いところにある古びた神社。僕と椎崎(しいざき)すみれは賽銭箱の前に並んで手を叩く。パンパンと叩くと彼女は遅れてもう1回叩く。拍手3回。

「なぁ、2回だよ。二礼、二拍手、一礼」

「あれ?知らないの?この神社で3回手を叩くと願いが叶うって」

「……知らないよ。なんなの、そのローカルルール」

 手を合わせながら僕が苦言を呈すると、椎崎はケラケラと楽しそうに笑い、僕の背中を叩く。

「あはは、細かいことはいいじゃん」


 多分夢。なぜなら僕とすみれが制服を着ているから。同じ中学の制服。だから夢。制服なんて着ている訳がない。だって、僕は今年で三十五歳になるんだから――。


 ――電車の揺れで目が覚める。やっぱり夢だ。終電近くの準特急。危なく乗り過ごさずに済んだ。


 電車を降りて、コンビニで発泡酒を2本買ってぶらぶらと歩く。夢を見たせいか、何となく胸がもやもやとしたので、歩きながらではあるが発泡酒を1本ぷしゅと開ける。

 椎崎すみれは子供の頃から明るく人懐っこい性格で、男女問わず誰からも好かれる子だった。女の子らしい性格というわけではなかったけど、決してボーイッシュというわけでもがさつというわけでもなく、女子らしいかわいらしさも兼ね備えていた。一言で言えば、とても魅力的だった。


 背は中二ごろまで僕より高く、髪は肩より少し長いくらい。基本はいつもストレートなのだけど、たまに友達から編み込まれたりアレンジを受けていたっけ。そのどれもが本当に似合っていてかわいらしかった。


 駅を出て、家と反対側に歩いていると1本目の発泡酒が空になる。なぜ反対を歩いているかって?別に酔っぱらっているわけでは無い。ぶらぶらと歩きながら2本目を開ける。



 椎崎すみれと僕は子供の頃からの幼馴染で、中学まで一緒で高校は別だった。それもあってか卒業式の日に椎崎すみれから告白されたんだ。椎崎は子供の頃からずっと僕の事が好きだったと言い、僕も多分そうだった。あまりに近くにいすぎてそんな意識をすることはあまり無かったけれど。そのまま僕と椎崎は付き合い始めた。その後僕は大学を一浪して、卒業して、就職して、……結婚した。結論から言うと、その6年後に僕達は離婚して今は当然音信不通だ。この国の離婚率は約35%らしいので、単純計算で3組に1組は離婚する事になる。それは出会って二十年以上経つ幼馴染夫婦と言えども例外ではなかったと言うことだ。


『好きな人が出来ました。別れて下さい』


 確か木曜日。夕食の後、改まった口調で椎崎すみれはそう言った。頭が真っ白に……なりはしなかった。椎崎はその日も綺麗で、僕はずっと心の隅の方で自分とは不釣り合いだと思っていたから、いつかそんな日が来ることを心のどこかで覚悟していたのかもしれない。

 コクリと頷き、『わかった。幸せに』と答えた後でいい歳して目からはボロボロと涙が流れた。椎崎が困った顔で僕を見つめていたから早く涙を引っ込めようと努力したが、涙は際限なく溢れてくるので自室に引っ込むことにした。それから一週間の家庭内別居を経て椎崎は家を出た。僕の引っ越し費用とか、慰謝料とか、おそらくそんな名目で少し驚くような金額がテーブルの上に置かれていた。

 離婚して5年、とっくにその部屋からは引っ越しをして今は少し広めのワンルームだ。


 時折、椎崎の事を思い出す。幸せにしているだろうか?、と。特に恨み言を言うつもりは無い。小学校から一緒で、三十近くまで一緒に居た仲だ。幼馴染でもあり、友達のいない僕の唯一の友人でもあり、恋人でもあり、妻であり、共に人生と言う戦いに挑む戦友の様なものだった。お人よしかもしれないけれど、やはり椎崎の幸せを願ってしまう。相手が僕で無かったとしても、それは変わらない。


 ぶらぶらと歩いて2本目の発泡酒も空になる。自販機の横にゴミ箱があったのでそちらに捨てさせていただく。


 椎崎はすごいな、と思う。


 出会って二十年以上、付き合って十五年、結婚して六年、離婚して五年。情けない事を言うようだけど、今更他の誰かと一から関係を築ける自信が無い。今から他の誰かと親しくなって、好意を持ち持たれて恋仲になって、結婚する。もしかすると子供を作る。できるだろうか?考えるまでも無く無理だ。


 でも椎崎はそれを選んだんだ。嫌味で無くすごいと思う。


 だいぶ歩いて、昔実家があった近く、街の外れの石階段に着く。発泡酒2本程度で酔いはしないが、一応手すりを掴みながら階段を上る。夜風が火照った身体に気持ちいい。気を緩めて手すりを放した直後にすぐ足がもつれて階段を踏み外しそうになる。

「……っと。あっぶねぇ」

 かいた冷や汗をまた夜風が撫でて過ぎる。


 階段を上りきると古びた鳥居と神社がある。振り返ると眼下には街の灯りが星の様に煌めく。


 この神社に来るのは離婚して以来初めてだ。それまでは少なくとも年に一度は来ていた。でも待ち合わせとかでなく完全に一人で来るのは初めてだ。夢を見たせいだろうか?何となくここに来たくなった。


 財布を探るが定番の五円玉が無かったので五百円玉を取り出す。多分、ここに来るのはこれで最後なんだから。奮発してかまわない。


 チャリンと賽銭を投げ入れる。


 2回お辞儀をして、2回手を叩く。二礼二拍手――。と、椎崎の事を思い出してもう一度パンと拍手を加える。

 ――あれ?知らないの?この神社で3回手を叩くと願いが叶うって。


 ぎゅっと目を瞑り口を開く。そして、願う。


「神様、お願いします。どうか僕を中学の頃に戻してください。もう一度あの日に戻れたら、きっと僕は――」

 酔っていたのだろうか。寂しかったのだろうか。椎崎が恋しかったのだろうか。きっと全部だ。僕は、年甲斐も無く本気でそう願った。


 ――一瞬、辺りを静寂が包む。


「随分熱心にお願いしてるねぇ」


 突如隣りから聞きなじみのある声がしてハッと目を開く。そして開いたばかりのその目を疑った。

「……椎崎!?」

 僕の隣には制服姿の椎崎すみれが驚いた顔で僕を見ていた。

「はい、椎崎すみれです。どうしたの急に」

 おどけた素振りで手を挙げてクスクスと笑う椎崎はまるで昔のままだった。


 夢。これは夢だ。いつの間に眠ってしまったのか、一日に二度椎崎の夢を見るだなんて、僕はどれだか未練がましいのか。でも少し残念だ。理屈はわからないけれど、いつも夢と気が付くとすぐに目が覚めてしまう。どうせなら、気づかないままでもう少しだけ過ごしたかったな。

 

「ねぇ、この距離で無視は無理じゃない?」

「え……、あー、あれ?」

 辺りはいつの間にか夕方になっている。僕が着ているのは中学の時の制服だ。

「本当にどうしたの。もしかして具合悪かった?」

 椎崎は大きな目を不安の色に染めて僕の顔を覗き見る。


 まだ目覚めないが、きっと夢だ。にもかかわらず不覚にも目から涙が溢れそうになり慌てて顔を逸らす。

「いや、平気。全然平気」

 醒めるのが惜しい。今まで見たどの夢よりも高精細な椎崎すみれの姿をもっと網膜に焼き付けたい。


 ――だが、夢は醒めなかった。

「なら良いけどさ。それにしても随分熱心にお参りしてたねぇ。やっぱり受験の事?それとも~?」

 ニヤニヤと含みのある笑みを僕に向けてくる。その全てが懐かしい。

「別に何でもないよ。宝くじが当たりますようにって」

「もう、何それ。そもそも買ってるの?」

「いや、買ってないかな」

「じゃあ当たんないじゃん、変なの」

 言いながらも椎崎は楽しそうに笑う。


 夢と気付くと醒める法則は発動しなかった。では夢ではないと言う事か?まさか。そんなはずはない。そんなことはあるはずが無い。


「お参りもしたし。帰ろっか」

 クルリと彼女が回ると遅れて髪も揺れる。黒く長い髪。僕が小学校の時にクラスの男子と何気なく話していたのを聞いて以来そうしていると後に言っていた髪。


「神様ってさ、本当に願い事叶えてくれるって思う?」

 僕の問いに椎崎は整った形の眉をしかめて困り笑いをする。

「ここでそれを聞く?」

「あー……、それもそうだね」


 夢でないとするのなら、もしかして神様は本当に願い事をかなえてくれたのだろうか?子供の頃から毎年欠かさずに来ていた僕の願いを、特別に。


 もしそうだとしたら、本当にもう一度昔に戻れたとしたならば――。


 今度は、君を選ばずに生きていこうと決めた。



◇◇◇

 結局、今日は二十年前の十月二十日だった。嘘のようだけど嘘じゃない。夢のようだけど夢じゃない。ベッドに寝転がりながら二つ折りの携帯電話を開き、メールのやり取りを眺める。二十年前の事なので勿論細かいやり取りに覚えはないが、雰囲気は覚えている。そしてこの当時は全く気が付かなかったけれど、文面の端々に明らかに僕への好意が見え隠れしている事に気が付く。それがあまりに嬉しくて、懐かしくて、恋しくて、端末に残っているメールの全てに目を通してしまう。


 無数のメールの中で、幾つか保存されているメールもある。

『わたしも好きだよ』

 大分昔のメールなので、前後のやり取りが無くこの一文だけが保存されている。詳しい心情は思い出せないが、きっとこの一文を己への好意かもと思い大事に保存していたのだろう。そう考えると、やっぱり僕は昔から椎崎が好きだったんだと確信する。

 この頃の携帯電話は現代と違いまだ電話に近くて、僕の機種にはまだカメラも付いていないしネット検索もできやしない。そう言えば、中三の頃ってこんな感じだったなとぼんやりながら思い出してきた。


 母も若い。父も若い。身体も軽い。とりあえずベッドの上で腕立て伏せをしてみる。


 とりあえず30回。息が上がり、腕が張る。くどいようだがここまでリアルな夢はあるまい。となるとこれは何なんだろう?所謂タイムリープというものだろうか?考えてみても神様のすることが人間にわかるはずが無い。とにかく確かな事は、僕は二十年前に戻り今は中学三年の十五歳だと言う事だ。まだ椎崎に告白される前。付き合う前。結婚する前だ。


 これから未来を変えていけるのだ。


 どうすればいいだろう。僕がもっと魅力的な男になれば、『ほかに好きな人ができた』と言われずに済むのだろうか?そんなのはわからない。当たり前だけど何の保証もない。付き合って、努力して、結婚して、……またいつか別れる?想像しただけでうっと胃の辺りがむかむかしてきたので必死で嘔気をこらえる。少年漫画の主人公だったら、それでもあきらめずに椎崎を幸せにすると言えるのだろう。でもさ、本当に、子供の頃からずっと一緒で、一生連れ添うんだろうなと勝手ながら思っていた相手から切り捨てられる思いをしてさ、それでもまた立ち上がれって言うのか?臆病と聞こえるかもしれないけど、怖い。怖いんだ。本当に怖いんだよ。


 考えていたらまた涙が出てきた。


 臆病な僕の出した結論は、椎崎と付き合わないことだった。


 椎崎だけじゃない。多分僕はもう人を愛する事が出来ないんじゃないかって思うくらい、怖い。


◇◇◇


「おはよ」

「あぁ、おはよう」


 教室で椎崎に挨拶を返すと、彼女は心配そうに首を傾げた。

「何か怒ってる?」

 一瞬ギクリとした。

「いや、勿論何にも怒ってない。昨日寝るの遅かったから眠いだけだと思う」

 僕の答えに安心した様子で椎崎すみれは胸を押さえて安堵の息を漏らしつつ苦笑いを浮かべる。

「よかった~。知らないうちに何かしちゃったかと思った。あっ、もし何かあったら本当に言ってね?自分じゃ気が付かないんだよねぇ」


 嘘はついていない。本当に怒ってなんていない。ただ、ほんの少しずつ、できるだけ自然に距離を置こうと考えていただけだ。


 メールと同じで、直接話してもやはり椎崎は行動や表情の端々に僕への好意を感じさせた。多分学年で……下手したら学校で一番モテただろう椎崎は、意外に同級生からは告白されなかったとのちに語っていた。理由は含み笑いで隠されたが、今ならわかる。好きな相手がハッキリしすぎていたから告白されなかったのだろう。


 嬉しいけど、悲しい。

 

 授業は数学と理科系以外は意外とどうにかなった。まともに勉強するのなんて大学の時以来ではあるのだが、多分学習に関してのノウハウ的な物が蓄積されているのだろう。当たり前かもしれないけど、一度目の時より全体的に成績は上がっていた。


 テスト後、配られた結果表を見て椎崎はジッと僕を見る。

「なんだよ」

「……そんなに成績よかったっけ?」

「学年一位に言われると嫌味以外の何物でもないよなぁ」

「あっ、ごめん。そんなつもりじゃない」

「わかってる」


 椎崎が嫌味を言うような人間じゃない事はよくわかっている。小学一年から二十代最後の年までずっと近くで見てきたんだから。


 学校の成績は上がったけど、志望高校は元のままにする。もう変更するような時期じゃないし、元々少し高めを無理して受けたのだからきっと今でちょうどいいくらいだ。


 二学期を終え、クリスマスは普通に二人で遊ぶ約束をする。


 中学生だからレストランに行ったりは当然できないけど、近くの遊園地へ行ってイルミネーションを眺める。駅から園まで向かうゴンドラ、椎崎は向かいでなく隣に座る。


「きれいだね~」

 

 眼下に映る宝石箱の様に煌めく明かり達を見ながら椎崎は呟いた。ほんの微かに動いた彼女の右手は僕の左手に僅かに触れる。中身は中三でなく三十五歳。椎崎とは夫婦だった。手も繋いだし、キスもしたし、もちろんそれ以上の事だって何度も数えきれないくらいした。それなのに、手が触れただけで何故こんなに胸が高鳴るのだろう。


 二人ともそれ以上身体を動かさず、ゴンドラ内は沈黙と仄かに上気した体温に包まれた。


 プレゼントは何をあげたっけな?と考えたけど、結局思い出せなかったので中三のお小遣いと溜まっていたお年玉で無理なく買える範囲のネックレスにした。椎崎と付き合わないと決め、少しずつ距離を置こうと考えていたのに、椎崎が悲しむ顔を想像したら真剣にプレゼントを選んでしまった。


 今の椎崎は何も知らないし、何も悪くないんだから。理不尽に傷ついていい理由なんてない。距離を置くと言いながらなんと中途半端な覚悟か。


 プレゼントを開けると、椎崎は本当に驚いた顔をして僕を見た。

「これ……」

「あ、あー……。そんなに高いものじゃなくて申し訳ないんだけど、別に着けなくたっていいんだ。適当に箪笥の肥やしにしてくれたらいいからさ」


 反応が怖くて引きつった笑いを浮かべる僕を見て、椎崎はブンブンと力強く首を横に振ったかと思うとネックレスの入った袋を大事そうに抱えて僕を睨む。


「やだ。絶対つけるもん」


 そして椎崎からのプレゼントを開けると、近々発売したばかりのゲームソフトが入っていた。言われてみれば確かに貰った記憶がある。古いゲーム機の類は捨てずに両親のところに送ったので、今でもそこにあるはずだ。……今でも、というと少し語弊があるが。


「こんなにお洒落なものくれるなんて想定外だったなぁ……。私ももっとちゃんとしたの買えばよかった」

 恥ずかしそうな顔で、椎崎は言った。


 受験生にゲームソフトなんて、と思うだろう。包みの中には手書きのメモで『絶対合格する事!』と綺麗な文字で書かれていた。それを見てまた思い出す。これで志望校に落ちたら椎崎が気にしてしまう、と。このメモを原動力に少し判定の厳しかった志望校に見事合格したんだ。


「ねぇ、後ろつけてよ」


 クルリと回り、僕に背を向けると髪をかき上げて椎崎は笑う。僕はやや緊張した様子で椎崎の首にネックレスをつける。


「ふふ。似合う?」


 椎崎が付ければおもちゃのアクセサリーだってそれなりの物に見える事だろう。口に出しては言わないけれど。


「まぁまぁだね。選んだ人のセンスがよかったのかな?」

「……それは否定しないけどさぁ。似合うって一言言ってくれてもいいじゃない」


 口を尖らせて椎崎は不平をこぼす。


 そして、『来年のプレゼントは期待しててね』と言って笑う。


 ――でも、次の年はクリスマスはお互いにプレゼントを贈るなんてことはなかった。


◇◇◇


 年が明けて、椎崎と二人で街はずれの神社へと向かう。大きな神社でも目立つ神社でもないので、基本的には人はいない。石階段も長く急なのでお年寄りにも優しくないから。

 2回お辞儀をして、2回手を叩く。遅れてもう一度パンとなる。結構な頻度で椎崎は柏手を3回打つ。

「パンは2回な?」

「えへへ、ごめん」

「僕に謝ってどうするんだよ」

「あ、そうだね。神様ごめんなさい。気を付けますから」

 謝りながら手を合わせて目を瞑り、何やら願い事をする。


 僕も願い事をする。どうか椎崎が幸せでありますように。そんな事神頼みしたってしょうがないのかもしれないけれど、自分で叶えられない願いなんだから神に頼むしかないじゃないか。


 だから高校受験については神頼みはしない。自分で頑張れば結果が出るんだから頑張るしかない。


 そして、高校受験もつつがなく終える。椎崎はもちろん僕も見事志望校に合格した。

「やったぁ!今日はお祝いにしよう!晩御飯はどっちの家で食べる!?何か食べたいものある!?」


 椎崎は自分の事の様に……いや、正確には自分の時よりも喜んだ。


 そして三年間の中学校生活もそろそろ終わりを迎えるこの時期、一つの噂が囁かれだした。『椎崎すみれが婦人科から出てきたのを見た』と言う噂。


 多感で想像力の豊かな思春期の男女たちはそこから様々な憶測を生んだ。

『性病に感染したらしい』

『いや、妊娠しているらしい』

『妊娠はしたが、堕胎したと聞いた』

 本当にどれもこれも勝手な話だ。そんな話これっぽっちも聞いたことが無い。だが、さらに言うとそんな噂話も聞いたことが無かった。


 二十一年前もそんな噂があったのだろうか?僕が知らなかっただけなのだろうか?年齢を経て視野が広くなったりだとか周りの声が耳に入る様になったと言う事なのだろうか?


「通ったのは本当だよ」


 そんな事をもやもやと考えてしまっていると、それを察してか椎崎は言い辛そうに口を開いてくれた。


 聞いてみると、生理痛がひどくて婦人科を受診したそうだ。処方された薬を飲んだら随分楽になったと照れ笑いをしながら言った。

「それにさ、……性病だとか、妊娠だとか、ねぇ。そもそもそんな事したこともないのに……ねぇ」

 赤い顔でごにょごにょと口ごもりながら椎崎はチラリと僕の顔を見ながら呟いた。


 人のうわさも七十五日と言うけれど、幸いにして面白半分やっかみ半分のその噂は一週間も経たずに沈静化した。


 やはりそんなやり取りは二十年前には無かったと思う。バタフライ効果と言うやつだろうか?例えば僕のプレゼントが変わったから未来が変わったとでも言うのだろうか?でも、考えても答えが出ないことを考えてもしょうがない。


 もうじき卒業式だ。きっと、その日椎崎は僕に告白をする。さすがの僕もその日のことはよく覚えている。冗談混じりに校舎裏に呼び出されて、第二ボタンをねだった後に真っ赤な顔で告白してくれた。

『ずっと好きだったの。もしよかったら、私と付き合って下さい』

 三月にしては太陽が柔らかく降り注ぐ日、僕と椎崎は幼馴染から恋人になった。


 卒業式が近づくが、考えはまだまとまってはいない。


 率直に言って、僕は今でも椎崎が好きだ。だから決めた筈なのにまだ迷っている。十五年後に振られる事が分かっているからと言って椎崎の好意を無下にするのは正しい事なのだろうか、と。元々はそのつもりで神に願った。もしも過去に戻れたら、誰も好きにならずに一人で生きていこう、と。それが可能かどうかはまた別の話だけど。


 その心配は杞憂に終わる。


「卒業おめでと」

「そちらこそおめでとう」

 卒業証書の入った筒で僕の肩をポンポンと叩く。


 そして、体育館の入り口の階段に腰を下ろして中学生活の最後を惜しみつつ思い出話をする。暫くして、校舎の方から椎崎を探すクラスメイトの声が聞こえてきて、彼女はハッと立ち上がる。

「もう行かなきゃ。……高校は別々だけど、たまには今みたいに遊んでね」


 少し躊躇う様なしぐさを見せた後で、右手を僕に差し出してくる。

「あぁ。暇だったらね」

 僕も右手を差し出して握手をする。椎崎はニコリとほほ笑んで、僕の力を入れて僕の手を握る。


 結局、椎崎から告白はされなかった。


 もう疑いの余地は無い。未来は変わった。悲しむべきか、喜ぶべきか。本当は、二人でいられる未来に変わればよかったのにと思う。最愛の幼馴染と付き合って、結婚。まごう事なきハッピーエンドだ。でも人生は続く。結婚はゴールではない。それからも僕たちは生きて、離婚して、別々の道を歩むことになる。じゃあハッピーエンドってどこでわかるんだ?そもそも人生にハッピーエンドなんてないんじゃないのか?


 春休みの間、椎崎とは一度も会わなかった。


 ◇◇◇


 ――四月になって、高校生になる。

二度目の高校一年生。再び得た十代の身体を無駄にすまいと毎日筋トレやジョギングをしていた成果で、身体も大分しっかりとしてきた。せっかくだから何か部活でも始めれば気も紛れるだろうか?かといって野球やサッカーを始めるには遅すぎる気がするし、団体競技は性格的に不向きな気がする。


 陸上部に入ってみた。本当にただの思い付き。


 周りはほとんど中学でも陸上をやっていたやつらばかり。でもそれでもいいやと思った。僕は人生二周目なんだからそっちでトントンということで、と一人勝手に納得する。腕の振り方から何から全て全くのド素人。家に居るより気が紛れるので毎日遅くまで居残りでトレーニングをした。自分の身体はこんなに無理がきくんだと今更ながら知った。


毎日走る。食べる。走る。走っていると余計な事を考えなくていいから気が楽だ。身体が苦しいのなんて全然我慢できる。椎崎に『好きな人ができました』と言われ、一人になった苦しさに比べれば。


「毎日すごい頑張ってるね」

 五月も終わりに近づくある日、居残り練習をしていると、マネージャーの水嶋ちさから声を掛けられた。

「別に頑張ってはいないよ。出来ないから人よりやってるだけで」

「それを頑張ってるって言うんだよ」

 水嶋はそう言って笑った。


 それから、僕の勝手な居残り練習に水嶋も付き合ってくれるようになった。水嶋は同じ一年で隣のクラス。中学の時は選手をやっていたようだが、自分で走るより他の人のサポートをする方が合っていると感じてマネージャーになったそうだ。


 次に椎崎に会ったのは七月。梅雨明けの晴れた日だった。


「……彼女が出来た」


 僕がそう告げると、椎崎は驚いた様子で目を丸くした。


「本当に?」


「誰がそんな空しい嘘つくか」


 言いながら目を背けてしまう。続く椎崎の表情を見るのが怖くて。

「そっか。本当かぁ。……ふふふ、よかったね。どんな子?かわいい?写真とかないの?ねぇねぇ」

 椎崎は自分の事の様に喜んでくれた。椎崎の喜ぶ顔を見て、自分が椎崎にも水嶋にも何か酷いことをしてしまった様な気がしてきてしまった。喜ぶ顔(それ)が本心では無い事は自惚れでなく知っていたから。

「上手くいくといいね」

 僕の背中をポンポンと叩き嬉しそうに笑った後で、『友達だけど、今までみたいに会うのは彼女さんに悪いかなぁ』と眉を寄せた。その事にはお互い何も触れなかったが、結局言葉通りになった。


 夏休みに入ってすぐ、水嶋と唇を重ねた。何が一人で生きていくだ。何が別れる恐怖だ。そんな自分を守る薄っぺらい鎧は、人恋しさの前に早くも瓦解した。それでも、僕は言い訳でなく何事にも一生懸命な水嶋を好ましく思っていた。それは嘘じゃない。


 付き合っている事は、最初部活内では隠していたがすぐにバレた。


 いつもニコニコと人当たりが良く、献身的にマネージャー業務をこなす水嶋は男子部員からも人気があり、暫くの間僕はやっかみに似たイジリを受けることにもなった。


 当然ながら水嶋は僕も他の部員も分け隔てなく接し、二学期が始まって少し経つ頃には部員たちもそれに慣れていった。僕は相変わらず毎日最後まで練習して、少しでも早く周りとの差を埋めようと試みる。水嶋もそのほとんどに付き合ってくれた。まだどの種目が良いかもわからないけど、とにかくやみくもに身体を動かす。効率とかは考えない。


 部室の戸締りを確認した後で、最後に一度キスをするのが日課になっていた。


 多分、幸せだった。


 高校に入ってすぐ同級生の可愛い彼女が出来て、勉強の成績もそれなり以上に取れて、水嶋の助けもあって部活の輪にもそこそこ馴染めている。充実した高校生活。


 水嶋はとてもいい子だと思う。小動物系と言うかキレイ系と言うよりカワイイ系に分類されるだろう容姿。少し小柄だけど胸は意外とあり、いつも一生懸命だ。どう考えても僕には勿体ない彼女だとも思うし、僕のどこを好きになったのか甚だ疑問だ。


「どこを好きになったのかって?……えへへ、それを聞く?」

 一度思い切って聞いてみたら、瞬間に頬を染めて顔の火照りを覚ます様にシャツの胸元をパタパタと動かした。ついチラリと見える胸元に目が行ってしまうが気付かれていない様子。


「ん~。今となっては『全部』なんだけど、きっかけは……。恥ずかしいけど本当に言うの?」


 僕がコクコクと頷き催促をしてみると、水嶋は手で顔を覆いながら言い辛そうに口を開いてくれる。

「えっとね、……陸上全然やった事無いのに、出来なくても怒られても逃げずに毎日頑張ってる姿に……惹かれました」


 言い終えて水嶋は恥ずかしそうに僕に身を寄せてくる。


 水嶋、それは全然違うんだよ。僕は毎日毎日逃げる為に走っているんだよ。罪悪感から、虚無感から、恐怖感から、椎崎のいない未来から。耐えられなくて逃げて二十年前(こんなところ)まで来てしまったんだよ。椎崎から逃げて君の好意に縋ってしまったんだよ。


 勿論そんな事は言えるはずも無い。


「……わたしは言ったよ?」

 水嶋は顔を上げてチラリと僕を見る。

「あ、僕も言う流れ?」

 付き合って数ヶ月。水嶋のいいところは沢山挙げられる。かわいいし、胸も大きいし、性格もいいし、細かいところに気が付く。料理も裁縫も得意だ。優しい。子供好き。一番好きなところはきっと――。


 多分、幸せだった。傍から見れば、きっと。


 十二月。迫る年の瀬とその前にクリスマス。その少し前に部活を辞めた。そして水嶋と別れた。


「……悪いところがあるなら直すから、頑張るからぁ」


 水嶋はポロポロと涙を流しながら文字通り僕に縋る。悪いのは僕で、弱いのも僕で、ごめんしか言えなくて、ごめんとは言えなかった。


「す――」


 その言葉を口から放つのが正解で無い事だけはわかった。正直は時に美徳ではない。もしかして、水嶋もかつての僕と同じ様に、これからの長い人生をずっと共に歩いていくと思っていたのかもしれない。高校一年、初めて付き合った相手。付き合って約半年。でも、きっと時間は関係ない。


 もしかして、僕は水嶋にかつての僕と同じ事をしようとしているのではないだろうか。


 ただ一方的に別れを告げられ、何の機会も与えられない。或いは別れとはそういうものなのかも知れない。それでも、もう少し言葉が欲しかった。


「――好きな人がいたんだ」


 放たれた、正解でない言葉。水嶋は目を拭いながら僕を見上げる。

「子供の頃からの幼馴染で、中三で告白されて付き合って、二十四歳で結婚した」

「……何を言ってるの?」


 水嶋の言葉はもっともだ。それでも僕は構わずに言葉を続ける。

「そして二十九の時に急に別れ話を切り出された。『好きな人ができました』って。僕はその子の事が、本当に好きだったから、その方が幸せになれるならって別れを受け入れた。それから五年と少し経ち、僕は三十五歳になった。ずっと一人だ」


 ある日の仕事帰り、ふと思い立ち二人でよく行った神社を訪れて願った。あの頃に戻らせて下さい、と。二十年後にあんな思いをする事になるのなら、初めから一緒にならずに良き友人として人生を歩めばいいと。そして、不思議なことに願いは叶った。僕は二十年前に戻り、彼女とは付き合わずに水嶋と付き合い今に至る。

 

 水嶋はきょとんとした瞳のまま黙って僕の話を聞いていたが、話が一区切りついた頃一度目を閉じてふーと大きく溜息をつく。

「つまり、そんな馬鹿げた作り話をしてまでわたしと別れたいって事?」


 僕は首を横に振り、真っすぐと水嶋を見る。

「作り話なんかじゃない」


 そんな事を言って信じてもらえるとは思っていない。普通に考えるなら嘘つきか狂人の類と思われるのが関の山だ。


 心の奥を見透かそうとするかのように、水嶋はじっと僕の目を見た。僕も逸らさずに彼女の目を見る。

「何回も好きって言ってくれたのも、全部嘘だったの?」

「嘘じゃない。水嶋の事は好きだ。……好きだ、けど」

 人にナイフを突き立てるとき、もしかするとこんな気持ちになるのかもしれないと思った。

「水嶋を好きになればなるほど、椎崎の事がまだまだ好きだって気付いて、……辛いんだ」


 だから、また逃げるんだ。


「わかった」

 コクリと頷き、そのままうなだれたまま水嶋は呟く。

「……別れよう」


 水嶋に好きだと告げる度に、本当はまだ椎崎すみれが好きだと思い知る。そんな事、水嶋には何の関係もない。悪いのは僕で、水嶋は本当に何も悪くないんだ。


「もう彼女じゃないからね。キスだってしてあげないから」

「……わかってる」

 うつむく彼女の小さな肩は微かに震え、声も震えている。

「ただの隣のクラスの同級生だから。だから、もし廊下で会ったとしても……、挨拶くらいはして欲しいな」

 顔を上げた水嶋はやはり泣いていて、その原因の僕が泣くわけにはいかないので、ぐっと唇をかんでコクリと頷く。


「待って」


 立ち去ろうとすると、引き留める声。

「一つだけ……、何か一つだけでいいからこれから起こる出来事を教えて」

 その表情は、咎めるでも責めるでもなく、疑う様子でもない。『できれば良い出来事で』、と水嶋は付け加えた。

「……良い出来事か」

 意図は分からないがつい考えてしまう。悪いニュースや災害なら幾つも思い浮かぶけど、良い出来事って何だろう……、と。


 十秒ほど考えて、一つ思い付く。昔の事はよく覚えていないから、比較的最近の出来事。


「……オリンピック。2021年に東京でオリンピックをやるんだけど、それは良い出来事って言える?」


 それを聞いて水嶋は指で数えて首を傾げる。

「あれ?一年違くない?」

「あぁ、でもそうなんだ」


 迷いもなく僕が答えると、水島は少し嬉しそうに微笑む。

「じゃあ、そのニュースを聞いたら思い出すね。わたしが好きだった人は嘘つきじゃなくて、本当に未来から恋人を追いかけて来た素敵な人だったんだなぁって」


 その言葉に思わずきょとんとしてしまう。

「追いかけて?」


 そんなつもりはない。逃げたんだ。逃げて、逃げて、ここまで来た。


 耐えられないから逃げて、逃げる為に頑張って、椎崎ではない誰かと愛を交わして、忘れようとしても忘れられなくて、好意を向けてくれた水嶋を傷つける事になった。


「違う。僕は……逃げてきただけなんだ。二十年後にあんな風に別れるなら、最初から付き合わない方がよかったって!」


 ふるふると小さく首を横に振る。 

「でもわたしはそう思うことにする。いいでしょ?勝手に良い思い出にするくらいは。わたしが好きだった人は、そんなことで逃げないよ。毎日頑張って、走って、何かを追いかけてたって知ってるから」


 水嶋はトン、と両手で僕の胸を突く。

「だから頑張って。振られてももう慰めてあげられないけど」

 涙で濡れた瞳で水嶋は笑顔を作った。僕ももう我慢は出来なかった。

「……ありがとう」

 全部僕が悪いから、ごめんしか言えないはずの口からは不意にお礼の言葉が出た。


 深く水嶋に頭を下げ、ひらひらと手を振る彼女に背を向けて走る。


 もう逃げ出さない。逃げ出せない。


 簡単な話だ。単純な話だ。もしかしたら最初からそうしたかっただけなのかもしれない。情けなくも、水嶋を傷付けて、彼女に背中を押されなければ気付けなかった。


 僕は、椎崎を追いかけてここまで来たんだ。

 例え二十年後に別れるとしても、それでももう一度一緒にいたいと。

 


『会いたい』

 恥も外聞も捨てて、ただ一言そう送った。


『私も』


 間を置かず、即座に返事が返ってくる。たったの二文字。それにどれだけの感情が込められているのか、多分わかる気がした。


 それ以降やり取りはせずに、すぐに息を切らせて、自転車を走らせた。場所も時間も聞いていないし聞かれていない。そんなもの、必要はなかった。


 時刻は夜十一時を少し回っている。町外れの石階段下に無造作に自転車を止めて走る。息を切らせて階段を上る。上る。上る。


 階段の上には古びた鳥居と神社。空には澄んだ空に満天の星、背後には星のような街の明かり。でもそんなものは目にも入らない。


 境内のベンチに腰掛ける椎崎しか見えない。

「ひ、久し振り」

 白い息を混じらせながらそう言うと、少しベンチを詰めて椎崎は微笑む。

「久し振り。元気だった?彼女さんとは上手く行ってる?」

「……別れた」

 ベンチの前に立ち短く答える。すると、椎崎は悲しそうな顔で両手を広げる。

「慰めようか?」

 多分、冗談では無いと感じた。

「振られた前提?」

 椎崎は手を広げたままふるふると首を横に振る。

「ううん。振っても、振られても。どっちも辛いでしょ」

 座って手を広げる椎崎に、もたれ掛かるように身体を預ける。椎崎は驚いた様子も無く、そのままぎゅっと抱きしめた。


 いつまでも、こんな時間が続けばいいのにと思って、いつまでもこんな時間が続くと思っていた。


 風呂上がりなのか、椎崎の髪からはシャンプーの匂いがした。


 何年か振りに感じる椎崎の体温、匂い、柔らかさに目の付け根がつーんとして、涙が流れてしまう。それに気付いた椎崎は何も言わず、僕の背中を優しく撫でてくれた。


「誰かを好きになろうとしたんだ」


 細い月が木々の隙間からさらに細い明りを漏らす中、懺悔の様に声が漏れる。椎崎は短く『うん』と答える。

「忘れたいと思ったんだ」


「うん」


「それでもやっぱり好きなんだ」


「……うん」

 椎崎がすっと鼻をすする音がした。椎崎も泣いている。


 僕は椎崎を強く抱きしめる。

「椎崎。好きだ」

 僕の背中に回った手にも微かに力が入る。

「うん」

「僕と……ずっと一緒にいて欲しい」


 付き合って欲しいと言おうとして、僕と椎崎を繋ぐ言葉としては適切で無い様に思えてしまった。付き合っていてもいなくても、結婚してもしなくても、別れても、それでもずっと一緒にいて欲しいから。


 椎崎の返事は無く、ぎゅっと僕を掴む手は震えている。僕はそのまま返事を待つ。


 嗚咽が聞こえたかと思うと、椎崎は声を上げて泣き出した。

「……ずるいよ。せっかく離れようとしてたのに、何でそんな事言うの?」

 涙声で、震える声を絞り出して、叫ぶように椎崎はそう言った。

「ごめん。でも、好きなんだ」

 離れようとした。その言葉だけが妙に耳に残る。


「二十五年後」


 抱きしめた手を離し、涙で濡れた瞳で、椎崎すみれは僕を見る。困った顔で、悲しそうな顔で、申し訳なさそうな顔で、憐れむように、慈しむように僕を見て言葉を続ける。


「わたしは病気で死んじゃうんだよ?ずっと一緒になんかいられないんだよ?それでも……好きって言えるの!?」


 ――その言葉で、勘違いかもしれないけど全部わかった。


「好きだ!」


 真夜中にそぐわない大声を上げる、町外れの神社。


 信じがたい話ではあるが、椎崎も僕の様に過去に戻っていたのだ。恐らくは同じ願いを神に願って。


 もう一度、あの頃に戻って、お互いを選ばない様にと。


◇◇◇


 卵巣がん。発見したときはかなり進行した状態だったらしい。一番進行しているステージⅣの五年生存率は10~20%程だという。僕と椎崎が離婚したのは五年前。それ以上は考えたくない。


「ひどい別れ方しか出来なくてごめん。……でも、わたしに縛られないで幸せになって欲しかったの」


 手を繋ぎながら並んで座る。午前一時過ぎ。

「そんなので……、幸せになれるわけないだろ」


 治療にはお金も時間も掛かる。正確に言えば治療ではないのかもしれない。延命。最期を看取れば一生縛ってしまうと考えて、椎崎は僕に別れを告げたと言った。

 そして、弱っていく身体で、僕との記憶を思い出す中で、この神社を思い出し、まだ歩けるうちに、藁にも縋る思いでここを訪れた。


「昔みたいに神様に祈ったの。神様、お願いします。もう一度中学生の頃に戻して下さい、って」

 パンパンパン、といつもの3回拍手。


 僕と付き合わず、定期的に婦人科を受診して病気の早期発見を目指す。進行は早いが、早期なら高い確率で治るそうだ。


 いつの日か本当に発症の心配が無くなったら、僕に告白をするつもりだったと椎崎は照れくさそうに笑った。

「その間に、彼女が出来て幸せになってくれたらそれはそれでよかったんだよ。わたしじゃなくても、別の誰かでも……そのつもりだったんだけど、あははやっぱりダメだね。嫉妬深くて」

 

 そっと椎崎のお腹に手をやる。椎崎は僕の手の上から手を重ねる。


「本当は、一人で怖かったんだ」


 二十数年後にがんで死ぬ。中学生の少女がそう言ったところで誰が信じてくれるのだろうか?通院だってタダじゃない。いつ発病するのかわからない。本当に防げるのかもわからない。椎崎も、僕の幸せを願っていただけだった。


 でももう一人じゃない。


「二十年後に別れるなら、初めから付き合わなければいいって思った」

「……私も」

「でも間違ってるって気が付いた。いつか別れるとしても、それが例え死別だったとしても……、最後まで一緒にいたいんだ」

 椎崎は声を出せずに、コクリと頷いた。


 長くも短くも人はいつか死ぬ時が来る。だからと言って、『いつか死ぬから一緒にはいない』事を選ぶだろうか?選ばない。その極端な理屈を突き詰めると、『いつか死ぬなら生きていても無駄だから今死ぬ』になるんじゃないのか? それが完全に間違いだとは言わない。けれど、そんな理由で椎崎すみれと共に過ごす宝石のような二十年を棒に振るのは勿体ないと言えるのではないか?


 ありふれた陳腐な言葉になるのかもしれないけれど、そこに至るまでの過程が大事なんじゃないのかと、三十五年とプラス一年生きてようやく気付き実感した。いつかいなくなってしまうから、だからこそそのひと時を大事にしよう、と。


 皮肉な事に、そんな簡単で単純な事に気づけなかったからこそ、今ここで、二十年前の世界で、僕はまた椎崎すみれと出会えた。椎崎すみれを一人にせずに済んだ。


「結婚式、今度は違う場所でしようね」

 隣に座り、手を繋ぎながら、月を見上げながら椎崎すみれは少し嬉しそうに呟いた。月に照らされた白い頬には、まだ涙の跡が見える。

「なるほど、二周目だからそんな楽しみ方もできるのか。じゃあ今度は和装?」

「ふふ、好きな方でいいよ。新婚旅行も別の所に行ってみようか」


 僕はぎゅっと椎崎の手を握る。


『好きな人が出来ました。別れてください』


 二十年後の未来、椎崎すみれは僕にそう言って別れを告げて、物分かりのいい振りをして僕は黙ってそれを受け入れた。彼女がどんな気持ちでそんな言葉を吐き出したのか慮りもせずに。


 だから、誓おう。


 もし、もう一度あの日に戻ったとしても、もう二度と君の手を離さないと――。

 



 終




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― 新着の感想 ―
相変わらず、水嶋さんが可哀想としか思えないかな。 いい歳した大人の夫婦なのに、どっちも身勝手で無責任というか。 多分、読んだ人の年齢で感想変わると思う。 社会人としての知識や責任感がないのが気になって…
未成年の学生なら兎も角、前も含めたら40年以上?の人生経験があるのに主人公身勝手で酷いヤツやな~
幼馴染同士で結婚したくらいだから、過去に戻ってもやっぱり……簡単には別々の道を選べないですよね。 水嶋さんも良い子だから、2021年になったら未来がどうとか言っていた元カレいたなって思い出すくらいで…
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