act.2 冷酷 (1)
放課後、アガサとマギは腹を抱えて笑いながら、職員室の前で僕を待っていた。
「なにしようとしたん、おまえ、あほか!」
まだ変声期を迎えていないアガサは、甲高くけたたましい声をあげて、笑いながら僕を罵った。つまり彼は大喜びしている。僕の目論見は大当たり、うまくツボを突いたってことだ。
「いや、びっくりさせようと思って」
「ぶったまげたわ、わけわからんし」
「お前じゃなくて先生をびっくりさせたかったんだよ。面白かったでしょ、あの顔」
「そら、びびるわな」
アガサの隣で、マギもポケットに両手を突っ込んだまま、ニヤニヤしていた。二人は、並ぶとまるで親子のようにみえる。アガサの頭はマギの胸か腹ぐらいまでしかないし、マギは顔立ちがいかついばかりでなく、いつも伏目がちなせいで、表情もすっかり大人びている。造形はあまりきれいとは言えないけれど、彼の大きな眼には長い睫毛が影を落としていて、気だるそうな眼差しが、ときどき妙な色気を醸し出す。
「絶対領域破れたらどうするん、先生死んじゃうでしょ」
マギは幾つかの単語を使うとき、公用語よりもやや古代フランス語っぽい発音をする。その言い方は気取っているように聞こえて、あんまり好きじゃない。
「破れないよ」
僕は先頭に立ってさっさと歩きながら言った。
「でもさ、もし先生が純血種じゃなかったら、とか考えんかったん?」
アガサの問いに、僕は足をとめた。
「純血種じゃない先生なんか、要らない」
〈絶対領域〉というのは通称で、正式にはアブソリュート・ドメイン・エリアという。ADEという呼び名も一部で使われているけれど、同じ略称で違う意味を持つものが多いので、アブソリュートと呼ぶほうが一般的。これは、アイデンティファイ・ドミネートコンピュータ――IDC――の持つ、人体保護バリア機能のこと。より正確にいうと「移動式安全保護制御機能」。それじゃ長いし味気ないので、俗に絶対領域と呼ばれている。同じものをさすのにどうして名前がいっぱいあるのか、僕には全然わからない。だって不便でたまらない。大人というのは規律や風紀を重んじるくせに、そういうところはまるでいい加減なんだよな。
でも、用途は簡単だ。ある一定以上のスピードで近づく物体を、不可視の壁が遮って通さないようにする。目には見えないけれど、体から約十センチ外側を覆う膜のような形で存在する、完全な防壁。これによって、急接近するものはすべて動きが止まるようになっている。もっとも、そのあとはゆっくりと近づいてくることになるんだけど。
純血種の人間は、一個体ごとにIDCを脳に埋め込まれる。誕生時に、必ずその手術を受けることになっている。EMIを使えるのは、このIDCを持っている者だけ。つまり、純血ではないキメラの奴らは、IDCを持っていない。だから知能が遅れるのか、それとも血のせいでそうなるのかはわからないけど。あいつら雑種は、どういうわけか頭が悪い。
この社会で、僕ら純血種の人間は優遇されている。「優位」という言葉は、なるほど僕らに相応しい。純血種は社会的優位に立つよう教育され、就職すれば優先的に高位のポストへ配置されるし、実際、能力的にも知能的にも、キメラよりずっと高いポテンシャルを持っている。もともとキメラは、人間のために奴隷として開発された人造人間だったらしい。といっても、見た目にはほとんど変わらないし、普通に言葉も話すし、意志の疎通も簡単にできる。でも、どこかぼうっとした間抜けなヤツばっかりだ。
キメラたちは、タブレットコンピュータを使うことはできても、システムを開発することはできない。彼らは、生まれつきごく単純な作業しか覚えられないように出来ているから。そして、運動能力が低いだけじゃなくて、表情を読み取ったり、言葉以外のコミュニケーションをとるのが、全般的に苦手なのだ。言うなれば「空気が読めない」。表情から、心理を読み取るのが下手なのだ。ただ、他者からの命令には従順に従うようにできている。純血のように怒ったり喚いたり、泣いたり、大声で笑ったりはしない。それがキメラ。大昔に純血種の人間たちが、自らの細胞をもとにして造った人工生物――じゃあ、人間はいったい誰に造られたんだろう?