act.1 憂鬱 (4)
「いいからやりなさい、ミカ・クズユ」
仕方なく教壇のボードに向かうと、クスクスとしのび笑いが聞こえてきた。アガサとマギがそうやって笑うと、キメラの生徒たちが困ったような顔で彼らをチラ見する。笑いの理由がわからないからだ。でも、二人が連想したものが何なのか、僕にはよくわかっている。単純な話だ。先生が僕を呼ぶときの発音を漢字に直すと、「葛湯」になってしまうから。「九頭竜」と「葛湯」じゃ、あまりにも意味が違いすぎる。だから僕も、軽く鼻で笑ってやった。僕ら三人の目配せに気づくと、先生は必ず不機嫌になる。侮蔑されているように感じるのだろう。それはまあ、まったくその通りなんだけど。
僕はボードに提示された問題を読んだ。すごく簡単。授業の内容が耳を素通りしていっても、この程度の証明問題なら一回読めば難なく解ける。そりゃ、出来の悪い奴らは頭を悩ます難問なんだろうけど、僕は五歳のときから数学オリンピックのためのドリル問題を山ほどやっていた。
どうして最年少受賞者の僕が、こんな最低ランクのクラスに入れられてしまったのか?――そりゃ、もちろん態度が悪いからだ。アガサもマギも、頭はいいのに僕と同じくらい反抗的だから、Cクラス名簿に悪名を連ねることになってしまった。職員室で古代語の先生に付けられた僕らの渾名は、三人まとめて「三羽鴉」。一見古臭くってダサダサだけど、元の意味合いを考えてみると、なるほどぴったりの呼び名だと思う。それにカラスは嫌いじゃない。なかなか賢い鳥だから。そう、その辺でのろのろやっているキメラたちなんかよりは、ずっといい。
プラスティックペンを手にとって、僕はボードに解答を書き込んだ。そして、最後にそれを赤い丸で囲ってやった。これは「正解」のしるし。本来は先生が書くものだ。僕は、ボードの横に腕組みして立っているモリス先生の顔を見た。気持ち悪いほど無表情だった。
「解答だけじゃなくて、証明の経過を書きなさい」
僕はペンを教壇の上に置いた。
「さっき、先生は『この問題を解きなさい』と仰いました」
「証明の経過を書きなさい」
先生は語気を強めて言った。彼女は、口論で僕とやりあっても無駄だと知っている。仕方なく僕はもう一度プラスティックペンを手に持って、さあ、今日は何をしようかと首をひねった。
とりあえず、僕はそれを左手に持ちかえた。いつも右手で書かされているけど、ほんとうはこっちが利き手。アガサとマギのほうをちらっと振り返ると、二人は両手で頬杖をつき、目をらんらんと輝かせている。次に僕が何をするか、一瞬も見逃すまいと待ち構えているのだ。期待のこもった熱い視線を浴びて、僕は「あいつらの意表をついてやらなくちゃ」と考えた。こうなったら、誰も思いつかないことをしなきゃいけない。そうでないと、彼らをがっかりさせてしまうから。
いきなり、僕はそのペンを先生に向かって投げつけた。
ペンは、先生の眼鏡の十センチ手前で止まり、床に落ちて転がった。
絶対領域は超えられない。
これは、彼女が人間である証。