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Interlude ~それぞれの夜~

「しばらく頭を冷やしてきなさい」

 そう師匠から命じられたメイリアがふらふらとした足取りで応接間を立ち去ってからしばらくして、エバンスとリズがふたたび応接間へと呼び出された。

 緊張した面持ちのリズと同様に、エバンスは彼らしくもない鹿爪らしい様子で居住まいを正している。エミディオとトトラは魔女の娘ララバイが食事を取らせてあげ、面倒を見ているので心配無用との話だった。

 応接間の窓の外にはしんとした青白い闇が広がっている。魔女の森に降り注ぐみっつの月の光が世界を銀色に照らし、浮かび上がった柔らかな木々の輪郭が幻想的な光景を描いていた。

 魔女の顔を真正面から見据えたまま、エバンスが分厚い唇を開いた。

「事情はわかりました。メイリアの実年齢が50歳を超えていて、本当は我々よりも歳上だというのは、少々衝撃でしたが」

「あ、もしかして〝50歳にしては子供っぽいなー〟とか思ったりしてる? 人間の精神年齢なんて、だいたい12歳から15歳くらいで止まっちゃうものなんだからそんなもんよ。いるでしょ、〝どうしてこのジジイはこんなにガキっぽいんだ〟とか〝感情のコントロールができないおばさんだなぁ〟みたいなひと。あたしなんかがいい例だもん、自他ともに認める精神年齢14歳のロリババア……このとおり、いつまでもガキのままよ。300年も生きてきてこの為体ていたらくなんだから。精神年齢なんてのは、積み重ねた経験とか、人間関係の軋轢あつれきとか、辛抱しんぼうで培った根気が本人の気質になっていくって話だけど、それはどうかとあたしは思うわ」

 埒もない世間話を切り崩すようにして、リズが魔女へ恐る恐るといった風情で言葉をかけた。

「ところで、メイリアの身の保証と引き換えにわたしたちが支払うという対価についてですが……」

「うん、まあ先方への紹介料、家賃、食費、その他をひっくるめて夫婦で払ってもらうとして……そうねぇ」

 ハニィ・スカイハイツは仲良し夫婦の顔を見比べつつ、唇の端を吊りあげて両手の指を順々に折り曲げていく。

「あたしの前で仲良く子作りをしてもら……ああいえ、これはメイリアにとって10年がかりのプランなんだから、ご両親にもおなじ期間、試練を背負ってもらったほうが面白そうね。じゃあこうしましょう。あなたたち、仲良しするたびに、その様子を日記に書いてちょうだいな。ペースは最低で週1回、月経や出産、ケガや病気などやむを得ない事情を除いてベッドをともにすること。交換日記みたいな感じで交互に書いてもらえるとなおよしね。文字数は1晩あたり500文字くらいで、体位とかかけた時間とかどんな言葉をかけあったとかを事細かに書き残すこと。あたしの庭で栽培しているペーパーリーフの葉をたっぷり渡すから、それに書いてもらえればいいわ。ああ、いいわぁ奥さん、そのイヤそうな顔♥ 恥ずかしがりつつも、娘のために自分と夫がどんな仲良しをしたかを日記に残さなくちゃいけないっていう羞恥プレイが、これまた」

 べろべろと唇を舐め回すエロ魔女へと、エバンスが胸を張りつつわら半紙製らしき分厚い書類を手渡してきた。

「……? なにかしら、これ」

「結婚してから10年分のオレたちの仲良し日記です。家内に内緒で毎晩の営みの思い出を綴ってきたものです。大切なものはいつも持ち歩く主義でして」

「だから先回りして答えを準備するんじゃないっていうのッ!」

 噴火しつつもちゃっかりと日記を受け取ったエロ魔女はパラパラとページを捲っていき「……毎晩ってマジ? 結婚10年目で……?」とつぶやきつつ、信じられないものを見る眼差しでホーランド夫妻の顔を見比べた。エバンスは毅然とした面持ちで魔女を見つめ返し、リズは羞恥心のあまり両手で顔を覆いながら「なんでそんなものを綴ってるのよ……」とうめき声をあげるばかりであった。

「……まあ、対価のほうはこれでよしとするわ。それはともかく」

 湯気のたつティーカップに口をつけて、小さくため息をもらしてから、不意に居住まいを正して、夫婦へと頭を下げてきた。

「エバンスさん。リズさん。メイリアの心をあそこまで救っていただき、改めて深く感謝しております。あの子とは10年ほどのつきあいですが、どこか危ういところがあってずっと心配していたんです。彼女があなたがたの子供として生まれてくれてよかったと本心から思います」

「えっ……あ、いえ、そんな」

 うろたえるリズ。色欲どスケベの魔女として名を馳せているハニィ・スカイハイツが平民に対してうやうやしく頭を垂れて敬語を使う姿など、想像だにしていなかったのだろう。

 リズは、気になっていたことをたずねた。

「あの、ハニィさま。メイリアは、本当に聖女になれるのでしょうか」

「いまのところ、百にひとつ、というところですね。けれど、数時間前までは千にひとつだったんです。わずか数分のあいだに、あそこまで人間の心の色が変化するところなんて見たことがありません」

 ハニィの端正な唇に浮かぶ笑みには嬉しそうな、それでいてどこか悲しげな気配が滲んでいる。

「リズさん。あなたがメイリアを抱きしめながら娘の代わりに自分が犠牲になると宣言したとき、あの子の胸の光が聖女シエルと似た、どこか懐かしさを覚える色に染まっていったんです。あんな、よい意味での劇的な変化は、滅多にお目にかかれるものではありません。あれは……そう、感謝と感動、ですね。感謝と感動が、あのわずかな時間で彼女の魂を高みへ押し上げたんです」

 メイド服を身にまとった銀髪の少年が、空になったティーカップにおかわりを注いで回る。えんじ色の液体からは心を落ち着かせる爽やかなハーブの香りが漂い、応接間を清らかな空気で満たしていく。

「メイリアを聖女として鍛えられれば……という発想はあるにはあったのですが、現実味がありませんでした。けれど、いまの彼女なら期待を持てるかもしれません。これからあたしは師匠として、あの子の仮りの親として、貸せる力はすべてあの子に注ぎます。どうか見守っていてあげてください」

「……こちらこそ、どうか娘をよろしくお願いいたします。ところで、どのようにしてメイリアを聖女として教育なさるおつもりか、おたずねしてもよろしいですか」

「ひとまず、聖女シエルの義母にあたるひとと、シエルと一緒に世界のあちこちを旅して回っていたパートナーにメイリアを託すつもりです。この世界において、たぶんもっとも聖女のひととなりを知るふたりに」

「そ、それって……」

 思わずソファーから腰をあげるエバンスに向かって意味深な笑みを浮かべた。

「ええ。大命樹イルド・ハーヴェスターと、賢者ノア・シルバーアークです」


 ──────


「わたくしが、聖女に……? そんなの……」

 頭を冷やしてこい、と師匠から命じられたメイリア・ホーランドは、闇のなかで仄かに光るハーブの咲き乱れる魔女の庭をおぼつかない足取りで歩いていた。

 湿度を含んだ夜の香りが森の底に浸透し、銀色に浮かぶみっつの月が秋の木々を照らしている。恋の季節を堪能する羽虫たちの輪唱が、星の光に蒼白く浮かびあがった魔女の庭に響き、ときおり遠くから寝ぼけたようなフクロウの鳴き声がきこえてくる。

 自分が聖女に──そんなの無理だ、とメイリアは思う。

 自分がどれほどの人間を死へと追いやってきたのか、ハニィさまが知らないはずないのに。『疫病風』なんていう非人道的な大疫病まで構築して、その根を自分の身体におろしてしまうほど腐った人間だというのに。

 妊婦さえ殺してしまえる女だというのに。

 聖女──最上位の祝福士。あらゆる癒やしと加護、恵みを人々へ与え、不浄なるモノを浄化するひと。過去の自分と対極の存在。そんな聖人の理想形に自分がどうやればなれるというのだ。どうすれば……。

 ふと、蛍光草の淡い緑色の光に浮かびあがる宵闇の森から、エミディオとトトラのはしゃぐ声がきこえたような気がした。

 家へ放置しておくわけにはいかないと、エバンスがこんなところにまで連れてきてしまったふたりの子供。大切な弟と妹が、スケベ大好きな魔女の庭に響いている。

 あ、これはまずい、とメイリアは思う。

 ハニィ・スカイハイツは子供に手を出したりするほど人格破綻者ではないものの、直接にいたずらをしないからといって、悪影響を及ぼすもの──例えば媚薬成分の含まれているハーブやら、うねうねと淫らに茎をうねらせる触手キノコやらを子供の目の届かないところへ隠すほどの人格者というわけでもないのだ。メイリアは早足に、子供たちの笑い声の響くほうへと駆けていった。

 メイリアの弟と妹は庭の片隅で、なにやら巨大な黒色の四角いキューブらしきものの上で高くジャンプをして遊んでいた。

 その半透明のゼリー状の物体は厚みが子供の背丈ほどあり、縦横の幅は5メートル四方ほどだった。大はしゃぎで飛び上がったエミディオとトトラが重力に引かれてゼリーに着陸すると、落下の衝撃がぷにぷにの黒い物体によって和らげられて、ふたたび空へ向かってバウンドする、という遊びを何度も何度も繰り返していた。ただそれだけの反復運動が、子供たちの冒険心やいたずら心を大いに刺激しているらしい。彼らは裏返った声をあげながら、手足をバタつかせて歓声をあげていた。

「あははははっ。楽しいですかぁ? これはねぇ、トランポリンっていって、お父さまが昔いた世界のオモチャなんですよぉ。ぽぉん、ぽぉんって、いっぱい遊んでくださいねぇ。あははははっ、きゃーっ♪」

 黒い半透明のキューブの表面を震わせるようにして、幼さを感じさせる可憐な少女の声が周囲に響いた。子供たちを遊ばせているというより、もはや自分自身が子供と一緒に無邪気に遊んでいるような、無垢で楽しそうな声。

 少女の声は、黒いゼラチンキューブそのものから響いていた。

「はぁい、そぉれっ。よいしょおっ♪ ……あ、トゥースちゃん! そこにいるの、トゥースちゃんですよね? お父さまから話はきいてるですよ。いまね、トゥースちゃんの弟さんたちと一緒に遊んでいたです。そろそろ、ベッドで眠らせてあげるつもりだったですよ」

「ああーん、もっと遊びたいーっ」

「また明日、いっぱい遊んであげるですよぉ。ほら、そろそろベッドへいきましょうねぇ」

 そんな言葉とともに黒いキューブが徐々に体積を小さくしていき、人間の姿へと変貌していった。

 魔女ハニィの娘、ララバイ。俗にスライム娘と称される彼女は、人間の形状を取った際の身長は140センチ程度の小柄な体格で、体色は半透明かつほんのりと黒く、スライム特有の光沢があった。頭髪を模した触覚のようなものが頭から生えており、それが少女の裸身へ螺旋状に絡みついている様は、どこか淫靡な雰囲気を漂わせている。彼女の上半身の形状は人間と酷似しているものの、膝から下は両脚の粘体が合流してひとつとなり、くるぶしあたりからナメクジのような形状になっており、彼女が前へと進む仕草は歩くというより這いずるといったほうが適当かもしれない。粘体生物であるにもかかわらず、母親に似た顔立ちは非常に整っており、美少女といって差し支えないだろう。彼女の瞳にはスライムらしからぬ知性と好奇心の光が宿っていた。

 かつて右も左もわからないトゥースに文字を教えてくれた教師役であり、なにかと世話を焼いてくれた恩人のひとりで、彼女の天真爛漫な性格はトゥースの記憶に鮮明に焼きついている。

 メイリアの胸に、ララバイへの罪悪感が浸透してきた。魔女の娘である彼女は、素性のあやふやだったトゥースに裏表のない笑顔を向けてくれた優しい少女だった。なのに当時のトゥースはララバイと親密な関係になるのを拒んでいた。敬語はやめてほしいと、〝さま〟と呼ぶのはやめてとお願いされてもトゥースは固辞した。偉大なる魔女さまのご令嬢と自分が対等な関係になれるはずもないと思っていたし、なにより呪術を嗜むにあたって必須である憎悪と怨嗟の心が弱まる気がしたから。

 寝室を兼ね備えている客間は魔女の屋敷の二階にあった。ハーブの香りが漂う寝室に子供たちを寝かしつけたララバイは、エミディオたちの寝顔をじっと見つめながらそのほほを人差し指でぷにっとつついた。

「かわいいですねぇ。トゥースちゃんに家族ができて、わたしすっごく嬉しいです……あ、いまはメイリアちゃんでしたっけ」

 10年間の経緯いきさつなどどこ吹く風というように、ララバイはメイリアへと屈託のない笑顔を向け、

「おかえりなさいです」

 といった。

 どうしてその言葉がメイリアの琴線に触れたのか、彼女自身にもうまく説明がつかない。けれど、自分すら意識しないうちに、メイリアの目尻から涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。

「ララバイさま。わ、わたくしは……」

 メイリアは、自分がいまどんな顔を浮かべているのかわからなかった。

「ひどいことを、いっぱいしてしまったんです。許されないことを、たくさん」

「うんうん」

「わたくしのせいで、たくさんのひとが、死んでしまうかもしれないんです」

「そっかぁ」

「わたくしは、それを、止めないとならないんです。けど、わたくしにそれができるとは……」

「できるですよ。だってトゥースちゃん、すっごくがんばりやさんですもん」

 ララバイはあっけらかんと、明日の天気を予想するかのような気軽さで断言した。

「わたしはずっと見てきたですよ。トゥースちゃん、いっぱいがんばって強くなろうとしてたですよね。だれにも負けたくないって、もう踏み潰されるのはいやだって、弱いままでいるのはいやだっていって、夜も寝ないでお勉強して、がんばって魔術の練習をしていたです。そんなトゥースちゃんなら、なんだってできるですよ」

 たぶん、ララバイはこの大陸に迫る危機についての詳細をハニィからきいていないのだろう。殺人鬼だったメイリアが聖女を目指さなければならないという皮肉な現実すら、おそらく知らない。根拠もなくなぐさめの言葉をかけて屈託なく笑う──ララバイはそんな少女であった。

 そんな彼女の無垢な性質が、いまのメイリアにはありがたかった。

「ねえトゥースちゃん……じゃなくってメイリアちゃん、お話するですよ。メイリアちゃんがどんな家族と一緒にいるですとか、どんなものを食べてるですとか、どんなお友達ができたですとか、眠くなるまで、いっぱいお話したいです」

 それは義務的な情報共有や、深い目的のある提案ではなかった。ただ単にメイリアの辿ってきた道について知りたい、駆け引きなしにメイリアと仲良くなりたいというお願いであった。ララバイはもともと、南の大陸で発見された超希少な結晶に魔女ハニィの生殖細胞を与えたことで誕生したモンスター娘である(そのため彼女はハニィを父と呼んでいる)が、とてもあの魔女の血を引いているとは思えないほど素直な性質な持ち主であった。

 どうして自分はあんな頑なに、このひととのあいだに壁を作っていたのだろう──と、いまのメイリアは思わずにはいられなかった。

「わたくしもララバイさんのお話をたくさんききたいです。それとお姉さんたち……えっと、オルゴールさんやピーカブゥさんたちにもちゃんと謝りたいのですけれど、また明日、紹介していただけますか」

 メイリアは我知らず、魔女の娘にしゃちほこばった敬称をつけるのをやめていた。ララバイはきょとんとした面持ちをしたあと、はにかんだ笑みを浮かべて、

「もちろんですよ。ねえメイリアちゃん、なんだか前よりもお話しやすくなったですね。変わりましたねぇ」

「……そうかもしれません」

 どうして自分は変わることができたのだろう。自分はどこまで変わっていけるのだろう──そう思いながら、メイリアは弟たちの寝顔を見つめるのだった。


──────


 夜の帳が降りきった魔女の庭には、ぽつりぽつりと間を置いて蛍光草が咲いており、ぼんやりとした柔らかな光を放っている。魔女の森に充満している微細な魔素マナと反応して発光するヒカリゴケは、月光や星明かりとはまた違った趣きのある優しい輝きで夜闇を照らしていた。

 魔女の息子クレードルは、ゼンリョー王国からはるばるここまでホーランド夫婦を運んできてくれた功労者たるツチケムリや荷馬車の馬たちを庭の外へと連れていき、そこかしこに生えている柔らかな草を食べさせていた。この森に生えている雑草には動物の肉体を活性化させる成分が微弱に含まれているため、愛馬たちの腹も膨れて疲労した身体も癒えるだろう。

 あの女がしでかしたことを、クレードルは完全に許したわけではない。

 当然ながら、クゴズミ街でのテロも『疫病風』も人道にもとる行為だ。トゥースが過去にどれほど悲惨で不幸な人生を歩んでいたにせよ、責任を取らなくてはならないのは間違いない。

 さっき、メイリアが「お願いします」と口にしかけたタイミングでクレードルがドアを開いたのは故意である。自分の存在の抹消と引き換えにしてまで『疫病風』を封じ込めるだけの悔いと責任感が彼女にあるのか見極めたかった。もしクレードルが邪魔をしなければ未来は書き換えられていただろう。

 ともかく。

 たしかにメイリアは責任を取ろうとしていたし、母がいうのであればメイリアが聖女となれる可能性も絶望的なほどには低くはないはずだ。それがうまくいくのなら、これ以上の犠牲者を出さずにすむベストな選択だろう。さらにひとりの聖女がこの世界に生まれることになるので、今後、この大陸で苦しんでいるたくさんの人々がメイリアによって救われていくことになる。

 ただ。

 それは贖罪になるのか──というのが、クレードルの疑問なのだ。

 反省しました、更生しました、今後は心を入れ替えてまっとうに生きて社会の役に立てるようにがんばります──耳障りのいい言葉ではあるが、大罪を犯したものにそんな余地を与えるのは本当に正しいことなのだろうか?

 罰とは、すなわち犯した罪に相応しいだけの苦痛を与えられることだ。

 聖女という祝福士たちの目標であり夢であり、ときには妬みの的にすらなるほどの存在まで押し上げることが、メイリアにとって罪滅ぼしになるのか? 殺されたひとたちの無念はどうなるのか。いまさらなにをどうやったところで、死んだものたちは甦らないのだ。

 死んで──いや、不老不死のイモムシとなって永遠に苦しむことが正しい贖罪なのか。

 それとも聖女という、人々から尊敬され感謝される存在になって人々を救い続けるのが善いことなのだろうか。

 いずれにせよ、自分は──。

 母から命じられたことを淡々とこなすまでだ、と彼は思う。今後、送迎や物資運搬、メイリアのボディガードなど、状況に応じて様々なサポートをするようにハニィから頼まれている。母がそう望むのであれば、自分もそれに従うまでだ。クレードルは、馬たちの栗毛色の毛並みを撫でながら、そう思うのだった。

 そのときふと、記憶にない臭いが周辺に漂っていることに気づいた。人間の体臭。

 神狼の血を引く彼は、人間ひとりひとりの体臭を嗅ぎ分けられるほどの嗅覚を備えており、その五感が侵入者の存在を訴えかけていた。ただ、臭いの発生源が妙に薄い。もしかしてなんらかの手段で消臭をしているのか。

 体臭は、エバンスが乗ってきたという馬車の下から漂っていた。

 身をかがめて場所の下を覗いてみる。そこに人影はなく、代わりに臭いの残滓が魔女の屋敷へと続いていた。

 クレードルははっきりとした警戒心にとらわれた。馬車の下に侵入者が潜んでいたことに、いままで気づかなかったとは。クレードルほどの嗅覚の持ち主を欺けるほどの隠密技術の使い手など、まだ数えるほどしか遭遇したことがなく、そのどれもがハニィの知識や技術や生命を奪おうとする密偵か暗殺者であった。屋敷のなかには脳天気なハニィだけでなく、クレードル以上に警戒心が強くボディガードに最適な妹のオルゴールもいるため最悪の事態にはならないだろうが、いずれにせよ侵入者を放置などできるはずがない。

 クレードルはひとっ飛びで木造二階建ての邸宅まで戻り、足音を殺しつつ人間の体臭を追っていく。

 一階の窓の下に小さな人影があった。窓は開けられておらず、どうやら人影は屋内の様子を探っているだけのようだ。クレードルは冷たい声を発した。

「そこでなにをしている」

 ひっと息をむ気配がして、人影がこちらを向いたのがわかった。その段階になってクレードルは、その人影から呼吸音すらほとんど漏れていないことに気づいた。隠密のプロか。それにしては背格好がかなり小さいような……。

 そこにいたのは8歳くらいの、目立たない顔立ちをした少年であった。一見したところ武器の類は携帯していないらしく、栗色の身近な髪を揺らして不安げな眼差しをクレードルへ向けている。

「あ、あの、オレは……その、イスキ……です。メイリアちゃんがここにいるってきいたから、おじさんの馬車にこっそり隠れてたんですけど、そしたらここについて……」

「……。体臭をどうやってごまかしたんですか」

「? た、体臭って、なんのこと……?」

「ちょっと失礼」

 クレードルは無遠慮にイスキ少年へと近寄るなり、彼の首筋に鼻を押し当ててその臭いを嗅いだ。少年から漂ってくる臭いは、もはや存在しないに等しいほどに薄いものだった。天然の隠密体質、という言葉がクレードルの思考をよぎった。

「……きみは、メイリアの友人なのですか」

「は、はいっ。あ、あのメイリアちゃんは……」

「いまは外にいますが……とりあえず、こちらへどうぞ。こんな時間に子供が外を出歩くべきではありません」

 ひとまず少年に危険性はないと判断した魔女の息子は、イスキ少年を応接間へと招き入れた。

 伝説の魔女を前にした栗色の髪の少年は、ひどく緊張した様子で、その小さな身体をさらに小さく縮こめてソファに腰掛けた。わずか1日のあいだにたくさんの来客の相手をしたハニィは、相変わらずなにかを面白がっているようなニヤニヤとした笑みを口元に張りつかせ、不躾な眼差しを投げかけたまま少年に語りかけた。

「あなた、イスキくんよね。メイリアからあなたのことをきいてるわよ。なるほどねぇ、あなたが……」

 トゥースに自殺を思いとどまらせるキーパーソンである少年は、うつむいていた顔を持ち上げた。その瞳には喜びをたたえた光が瞬いている。

「メイリアちゃんが、オレのことを? な、なんていっていましたか」

「ん? えーっと……たしか、とても優しい子だって」

 イスキがトゥースの自殺を思いとどまらせるための最重要人物だ、という情報以外についてはさして掘り下げずにいたため、ハニィもクレードルもイスキという少年のひととなりをほとんど知らなかった。「10年後のトゥースと引きあわせればいいだけの人物」としか考えていなかったせいだ。

 優しい、という想いびとからの評価がよほど嬉しかったのか、栗毛色の少年の表情がぱっと華やいだ。

「え、えへへ……あの、メイリアちゃんは、いまどうしていますか。オレ、きいてたんです。メイリアちゃんが聖女になるために、いっぱい修行をしてがんばらなくちゃいけないって。魔女さま、なにかオレがメイリアちゃんのために手伝えることってありませんか。もし勉強とか修行とか、そういうのをしなくちゃいけないんでしたら、一緒に身体を鍛えたり、本を読んだり、なんでもいいからオレ、メイリアちゃんの役に立ちたいんです」

「んー……いまのところ、そういうのはないけど。あなた、どうしてそんなに彼女の役に立ちたいわけ?」

「好きだからです!」

 微塵も躊躇せず、イスキは即答した。

「……。どういうところが、好きなの?」

「全部です!」

「あ~、全部って?」

「なにもかもです!」

「いやいや、そうじゃなくって、具体的にどこが好きか、教えてちょうだいな」

「はい! メイリアちゃんは優しくって、かっこよくって、強くて、きれいで、かわいくて、頭がよくて、クールで、努力家で、笑顔が素敵で、品があって、大人びていて、清らかで美しくって、そばにいるだけでみんなを幸せにしてくれて、弱いひとたちを守ってくれるんです。家ではお父さんやお母さんのお手伝いをちゃんとするいい子で、弟や妹の面倒を見てあげていてるし、メイリアちゃんが育てた野菜や果物はとってもおいしくて、お勉強もできて、運動も得意で、料理も上手で、おしとやかで、いつも落ち着いていて、礼儀正しくて言葉遣いもきれいで、きっと将来はきれいなお嫁さんになるんだろうなぁって思わせる子で。学校での彼女はいつも真面目で、先生からの質問にはすぐに答えられるし、運動も得意でクラスで4番目くらいに足が速いんです。当番の仕事もきちんとやって、絶対にいじめなんてしないし、動物の面倒も見てるし、そうだ、虹実祭ではオレたちの孤児院にまでパイを持ってきてくれたんです。結局、ワイバーンがメチャクチャにしちゃったけど……けど、そのおかげでオレはトゥースさんに命を助けてもらったんですよ。あのときのトゥースさん、メチャクチャかっこよくって、たった一言、なにかいっただけでワイバーンを倒しちゃって。そうなんです、メイリアちゃんの昔の姿も、すっごくクールで大人びてて、強そうなのにどこか儚くて、寂しそうで、〝だれか助けて〟っていうふうな瞳でこっちを見ていたんです。あの目を見たとき、オレ、なにがあってもこの恩人の役に立ちたいなって思って、だからメイリアちゃんがなにか少しでも困っていることがあったら、力になってあげたいなって。そのために、オレもメイリアちゃんの役に立てるように強くて賢くてかっこいい男になりたいんです! ……そうです、ぶっちゃけるとオレ、メイリアちゃんのなにもかもが好きなんです。あの子は、オレの天使さまなんです!」

 少年の一方的な独白が一段落したとき、応接間にはなんともいえない空気が充満していた。ドアのそばに待機していたクレードルの顔は引きつり、伝説の魔女は自分の顔を両手で覆いつつ「やべぇ……たまんねぇ……」と肩を震わせて笑っていた。

 ひとしきり爆笑した魔女は、

「うんうん、いや、いいわねぇ。すごくいいわ。で、あなたはメイリアの力になりたいと、そういうわけね? 知ってるみたいだけど、あの子は聖女になるために修行を積んでいくのよ。よかったらあなたも一緒に修行を受けてみる?」

「えっ、いいんですか!? オレ、男だけど、聖女になれるんですか」

「あ~、聖女は無理だけど、メイリアと一緒にいてあげればあの子の心の支えになってあげられるだろうし、ついでにイルドやノアから鍛えてもらえば、あなたもメイリアを守れるだけの素敵な騎士ナイトになれるかもしれないわよ♥」

 無責任極まりないハニィの物言いに、イスキは瞳いっぱいに星を瞬かせた。

 クレードルは、言葉を選びつつ母親へと語りかけた。彼が客の前で意見を表すのは珍しいことだ。

「ああ、母さん。いいんですか。彼はその……ちょっと変わっているといいますか。なにかトラブルが起きる可能性もありますし、あまりメイリアのそばに置かないほうがいいのでは」

「いいのいいの。いやぁ、メイリアからこの子の話をきいたときは〝いくら命を救われたからって、一回会っただけの言葉を交わしたこともない女に恋心を告げるために10年間も追い続けるって、そんな異常者いるわけないでしょ、メイリアってばどんだけ話を盛ってるのよ〟って思ってたけど、こういうわけだったのねぇ♥ うんうん。お姉さん、あなたの恋路を応援しちゃうわよぉ」

「あ、ありがとうございます! オレ、がんばります!」

 真っ直ぐな眼差しで魔女とその息子を見つめる少年の瞳には、一点の曇りもない。

 イスキは生粋のストーカー気質だった。

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