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溺愛②

「牧野さん。ちょっといいかな」

「はい」


 パート先の上司に呼び出されて、明里はオフィスの部屋を出た。

 レジ打ちなどの不特定多数と関わる仕事が苦手だった明里は、オフィスワークを探した。派遣が多いので厳しいかと思われたが、運良く中小企業の事務員として働けることになった。

 女性のパートは三人。長年勤めているお局が一人、二児の母が一人、そして明里。直属の上司は四十歳ほどになる男性の課長。


 課長は明里を資料室に連れて行った。

 ドアを開けてくれた課長に御礼を言うと、課長はそのままドアを閉めた。

 明里は、嫌だな、と思いながら口に出せなかった。もう若くもないおばさんが、異性と部屋に二人きりにされたくらいで不快感を示すなど、自意識過剰だと言われるのではないかと躊躇った。

 上司なのだし、何か内密な話なのかもしれない、と自分を納得させる。

 しかし、明里の不安は的中した。


「牧野さんはさぁ、お子さんいないよね」

「ええ、まぁ」

「それって、夫婦仲が良くないの?」


 不躾な質問に、明里は顔を顰めた。


「そんなことを答える義務はありません」

「いや、ごめんごめん。子どもが大きくなって、ってパート始める人は多いんだけどさ。専業主婦から、なんでもないのに急に働き始めるって珍しいから。旦那さんとうまくいってないのかなって」

「課長には関係ありません」

「いや、うちもさぁ。もう夫婦仲なんて、すっかり冷え切っちゃってて。お互いどこで何してようがお構いなし。だからさぁ」


 課長に手を握られて、指で手の甲を撫でられる。

 その手つきにぞっとした。


「お互い、割り切った関係とか、どう?」


 恐怖と羞恥で声が出なかった。今すぐ殴ってやりたいのに、握られた手は氷のように動かない。

 せめて罵倒してやりたい。けれど、上司にそんなことをして、クビにならないだろうか。やっと見つけた事務職なのに。やっと仕事にも慣れてきたのに。

 そんなことをぐるぐると考えていると、黙っていることを肯定と取ったのか、青ざめた明里の顔が見えていない課長は更にその手を明里の腰元へ伸ばした。


「――失礼」


 割って入った声は、低く冷たかった。

 誰もいないと思っていた二人は、驚いて声の主を見た。


「な、君、い、いつから!?」

「最初からいましたよ。ここは資料室なんですから、誰がいてもおかしくはないでしょう」

「そ、それはそうだが……君、うちの社員じゃないな?」

「顧問弁護士の顔くらい覚えておいたらどうですか」

「顧問弁護士!?」


 来客用の来館証を下げたその男性は、名刺を取り出して課長に差し出した。


「御社の顧問弁護士、霧崎です」

「あ、ああ……」

「ところで。一部始終を聞いておりましたが、上司が部下にする発言としては不適切なものが含まれていたように思いますが」

「あ……! あれは、コミュニケーションの一種で……な、なぁ!?」


 課長に振られて、明里は肩を揺らした。

 課長のぎらついた目に、言えばどうなるか、という恐怖が喉を詰まらせる。

 そんな明里に、霧崎がゆっくり視線を合わせる。


「本当ですか」

「あ……」

「セクハラは被害者の訴えがなければ無効です。あなたの意志表示がなければ、これは()()()()()()になります」

「セ、セクハラだなんてとんでもない! 弁護士だかなんだか知らないが、この程度のことで口出しされる謂れは」

「あなたには聞いていません。彼女に聞いています」


 じろりと睨まれて、課長が口を噤む。霧崎は体格が良く強面だったので、弁護士という肩書を抜きにしても、中肉中背の課長からしたら威圧感があり怖いのだろう。

 明里も、初対面の弁護士が僅かばかり怖かった。その表情は優しくも柔らかくもなかった。けれど、目が。


「私は、セクハラだと感じました」


 震える声で言いながら、ぎゅっと手でスカートを握りしめる。


「立場の差を利用して、関係を迫るような発言は恐怖でしかありません。二度と私に関わらないでください」


 ――その目が、大丈夫だと言っている。


 セクハラだと言い切られた課長は声を荒げようとしたが、霧崎がそれを制した。


「お聞きの通り、被害者の証言も取れましたので、あなたの処分は追って通達があるでしょう。では」

「ま、待て! そんな勝手なことが」

「行きますよ、牧野さん」


 促されて、明里は半ば呆然としながら資料室を出た。後ろから課長が何か言っているようだったが、耳に入らなかった。ただ黙って歩く広い背中だけを見て、明里は小走りで付いていった。



「大丈夫ですか」


 小さな休憩スペースにつくと、ようやく霧崎が口を開いた。それにはっとして、明里は慌てて頭を下げた。


「た、助けていただいてありがとうございました!」

「いえ、仕事ですから」


 淡々と言われて、明里は何故だか少しだけ気落ちした。そんなことはわかっていたはずなのに、どんな言葉を期待したのか。


「先ほどの会話は録音してあります。詳しい調査はこれからになりますが、最低でもあなたと部署が離れるように配慮しましょう。報復行為があるかもしれませんから」

「報復……」


 不穏な言葉に顔が青くなる。霧崎は気遣う気配を見せたが、そのまま言葉を続けた。


「他にも証言が取れて、被害者が複数存在し、かつ悪質だと判断されたら懲戒処分も可能ですが。今回の件のみでは、厳重注意と、できて異動までかもしれません。継続性があればまた別ですが……会話からすると、あれが初回ですよね?」

「……はい」


 明里は暗い顔で俯いた。あの場での危機は脱したが、明里の感じた恐怖に見合う制裁はあの男には与えられないのだ。

 異動というのだって、課長が異動になるのではなくて、明里の方が異動になるのかもしれない。やっと仕事に慣れてきたところだったのに。

 それでも、会社からすれば、パートの方がどうとだってできるのは当然だ。


「男の人って、いいですね」


 脈絡がないと思える明里の発言に、霧崎は戸惑うように眉を上げた。


「あんな風に人を踏みつけにして、ちょっと怒られたら、それで済むんですね。学校みたい」


 先生に怒られて、喧嘩両成敗で、はい仲直り。我慢するのはいつだって被害者の方だけ。

 向こうはそれで済むことを知っている。許されることが織り込み済みなのだ。


「セクハラしても、知らなかったとか、からかっただけとか。不倫しても、男の甲斐性とか、満足させない妻が悪いとか。なんでそんな、子どもみたいな言い訳、するんでしょうね。それが通っちゃうんでしょうね。こっちばっかり、仕事辞めさせられたらどうしようとか、生活費渡されなかったらどうしようとか、いつも立場が弱くって。逆らえないことばっかり」


 黙っている霧崎は、女は話が飛んでばかり、とでも思っているだろうか。

 霧崎に不倫のことを零しても仕方ないとわかってはいるが、課長のセクハラで、明里は忠のことを思い出していた。

 どうせ明里が逆らえないと知っている。離婚なんかしたら生きていけないことを知っている。

 いつも有利な立場から、人をコントロールして。生殺与奪を握っている。

 でもそんな弱音を吐けば、世間は握らせた方が悪いという。

 悔しくて、明里は涙を零しながらも、嗚咽は漏らさぬようにと唇を噛みしめた。


「……どうぞ」


 差し出されたハンカチを明里は黙って受け取った。自分のハンカチは持っていたが、こんな状況でも相手に恥をかかせるまいと働いた頭が滑稽だった。

 霧崎はそれきり、ただ黙って明里の前に立っていた。

 肩を抱くことも、頭を撫でることもしなかった。セクハラになるから当然だろう。

 けれど、慰めの言葉一つかけないとは。

 今まで出会った男性で、泣いている女にこんな態度を取る人は初めてだった。大抵は機嫌を取ろうとするか、興味がなければ放置するか。

 けれど、言い訳もせず、慰めもせず、立ち去りもせず、本当にただそこにいるだけの男が。

 今まで出会った男性の中で、最も誠実だと思った。



 暫く静かに泣き続けて、明里が落ち着きを見せ始めると、霧崎は名刺を取り出した。


「これを」

「ええと……?」

「社内で話しにくいことがあれば、いつでもご連絡下さい。或いは、別件でも」


 別件。つまり、セクハラの件以外でも、相談にのってくれるということだろうか。


「わたくしの専門は企業案件ですが、家庭問題に強い者を紹介することもできますので」


 どきりと、明里の心臓が鳴った。不倫と零してしまったから、慰謝料や離婚の相談をしたいと思われているのかもしれない。

 正直、まだそこまで踏み切れてはいない。夫婦間のことは夫婦で解決できたら理想だとは思う。けれどこの名刺は、御守として持っておくのもいいかもしれない。


「……ありがとうございます」


 名刺を受け取ると、霧崎は次の仕事があると言って、足早にその場を立ち去った。

 もしかして、次の予定が詰まっているのに、明里が泣き止むまで付いていてくれたのだろうか。そう思えば、自然と頬が緩んだ。


「……あ、ハンカチ」


 返しそびれてしまった。

 汚れたまま返すわけにもいかないし、洗って返さなくては。何か御礼の品の一つでも付けた方がいいだろう。何がいいだろうか。

 そんなことを考えながら、明里は自分の心が久しぶりに浮かれているのを感じていた。

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