07
コンコン――
「失礼する。トム、起きているか?」
すこし強めにドア越しに声をかけるが、中から返事がない。人の気配もしない。
いつもなら、夜通し遊びまわり、帰宅して間なしってころ。この時間ベッドに入ってすぐぐらいだろうか。なら、まだ寝入ったばかり。深く眠ったなら、ノックの音や声が聞こえなくても仕方ないだろう。
再度つよくノックし、声をかける。同じ。
仕方なく、ドアノブに手を伸ばした。
カチャ――
カギがかかっておらず、なんなくドアが開く。
「トム、いないのか?」
部屋の中に入っていくと、中にはだれもいなかった。それどころか、ベッドには寝た形跡もない。
「まだ戻ってきていないのか……?」
ドアを閉め、廊下へ出る。
――従業員に指示して、ミ・ラーイの盛り場を探させた方がいいか。
そう算段しつつ歩いて行くと、奥の奥、リチャードの書斎のドアの隙間から明かりが漏れているのに、気が付いた。
コンコン――
「失礼します」
一瞬、ドアを開けた先、リチャードが書き物机に腰掛けているのかと錯覚した。すぐに、それは別の人物だと気が付いたのだが。
「トム、ここにいたのか」
トムはおびえたような顔をして、部屋の中へ踏み入ってくる私を見上げてきた。
執務室のすべての窓は開かれており、運河を渡る風が吹き抜けていく。だが、それでも、その部屋にこもっている匂いは――血。濃い血の匂いが部屋の床から立ち上っていた。
床の敷物は不自然に裏返されており、調度品は争った跡のようにあちこちにひっくリ返っている。
そこでなにがあったのかは一目瞭然だった。
ここは建物の三階の奥の部屋、窓の下は運河に面していて、この場所から人間の体を投げ落とせば、大きな水音するだろう。昨晩、私が耳にしたような。そして、その死体は運河の水の流れに乗って、下流へと流されて……
「はぁ~ トム、怪我はないか?」
トムは私の顔を見上げながら、首を振る。その手は血のこびりついたナイフを握っている。血にまみれてはいるが、自分の血ではないようだ。
「なら、いそいで自分の部屋へ戻って、シャワーを浴びてきなさい。ここは私に任せ、着替えて、自分のベッドでなにも考えずに眠りなさい」
トムはノロノロと立ち上がった。だが、その場に立ち尽くしたままで一向に動こうとしない。私は景気をつけるように両手をパンパンと叩く。そして、トムの背後に回ってナイフを取り上げてから、その背をドアの方へ押した。トムはよろめくようにして、書斎を出て行った。
次にガムバを呼び寄せる。
部屋の惨状を目にした途端、すごく驚いた様子だったが、すぐにここで何があったかを察したようだ。即座に心を決めた様子で、私の指示を待つようにじっと見上げてきた。
「手伝ってくれ。倉庫に外国との取引用の敷物や調度品があるから入れ替える。もし、部屋に血痕が残っていたら、ふき取っておいてくれないか?」
「はい。マリナスさん」
女中頭もオリジナル10の家のもの。結局は私と同じような存在なのだろう。どんなにファブレス家に不平不満を言おうと、代々身についた忠誠心からはのがれることはできないと。本当の危機のさいにはファブレス家を見捨てるなんてできない。
そうして、私と女中頭の二人で書斎の片づけを済ませた。
血がこびりついていた敷物やナイフなどの調度類は、誰も使っていない空き部屋へ放り込み、だれも入ってこれないようにドアにカギをかけた。
すべてを始末し終え、トムの部屋へ顔を出すと、トムはすでに寝巻に着替えて、ベッドの中でいびきをかきながら眠っていた。
幸せそうにのんきな寝言をつぶやきながら。
「見ろよ、こないだまでお前の女だったこいつは、今は俺のものだぜ。ほら、こいつもいっているだろ、お前みたいな負け犬になんか興味がないとよ。ざまあみさらせ、ヒューゴー!」
その日のうちにサムという衛士長に率いられた衛士隊たちが事務所に来て、運河に面している各部屋を調べていったが、結局、なんの収穫もなかったようだ。
目撃者も犯行現場もわからず、凶器も発見できなかった。ただ刺殺死体があるだけ。なんの手がかりも得られず、捜査に進展もなかった。
事件は結局、うやむやのままで終わった。
数日後、葬儀の実行委員長になった市長のもと、リチャードの葬儀は粛々と執り行われた。トムも殊勝な顔で喪主として葬儀に参加し、大人しくしていた。
そして、ミ・ラーイを揺るがす次の事件が起こったのは、葬儀の翌日、リチャードの遺体がミ・ラーイの神殿裏の墓地に埋葬されたその夜だった。
唐突にミ・ラーイの街を市長が逮捕されたという知らせが駆け巡った。
夜分に王都から宰相からの使いが来て、ミ・ラーイの市長を詰問したらしい。しかも、言い逃れができないほどの完璧な証拠を宰相側は握っていた。ミ・ラーイの市長はそれでもなんとか言い逃れしようとしたようだが、宰相側から次から次へとでてくる決定的な証拠の数々に、ついに自身の不正行為を認めるしかなくなったのだ。
ミ・ラーイの市長はそのまま逮捕され、拘留されたという。
翌日から市長とつながりがあった者たちの取り調べが行われた。もちろん、我々ファブレス商会もその例外ではなかった。新会長のトムだけでなく、先代のリチャードの下で大番頭として仕えていたラウレ・ワッズや番頭だった私までも尋問の対象とされた。
もっとも、リチャードは裏の悪事に関しては、自分一人の胸の内にとどめることが多く、私たちが知っていることなどさほど多くはなかったのだが。
なので、取調官たちが裏帳簿を示して、あれこれ質問してきたとしても、正直戸惑うばかりでしかなかった。あげく、取調官たちに対して、その裏帳簿類を保管している隠し金庫は事務所のどこに設置してあり、それを開けるにはどうすればいいのかと、逆にそんな間の抜けた質問をするしかなかった。
さすがに、取調官たちも、取調対象からそんな質問をうけた経験もなく、大いに呆れていた。
そういうこともあり、宰相側から派遣された取調官たちは、今回の不正に関しては、ファブレス商会の先代であるリチャードの一存で行われたもので、現当主のトムや従業員である私たちの関わりしらないことだという結論に到達するまでに時間がかからなかった。
だからといって、長年の不正行為があきらかになった以上、なんの咎めも課さないというわけにもいかない。他の商家と同様、ファブレス商会にも重い罰が課されたのだ。
非常に重い罰ではあったが、他のミ・ラーイの商家たちのように取りつぶしにまでならなかったことだけでも、幸いとすべきだろうな。
そうして、私たちはミ・ラーイを離れ、王都へ拠点を移した。