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事態が劇的に動いたのは、今いる従業員たちの間では最年長者『おじいちゃん』というあだ名で呼ばれているスエイトが王都の市場で、これまで見たことがない野菜を買ってきてからだった。
コンコン――
「失礼する。総支配人」
支配人室のドアをノックし、私の返事を聞かずに部屋へ入ってきたのがスエイトだった。
従業員の中の最年長者で、かつオリジナル10出身者。耳が多少遠くなって、部屋の中からの私の声を聞き取りにくくなっているという事情もかんがみて、勝手に入ってきたことをあまり強くは咎められない。
「ああ、スエイトさん。どうした? 私に用事か?」
「今日はいい天気だね、総支配人。昔は旦那様に代わってファブレス商会全体を取り仕切っていた人間は大番頭って呼ばれていたが、これも時代の流れかね」
「そういう古い呼び方は、当主様がお嫌いになられているからね」
「長年続いてきた伝統を大切にしないなんて、ご先祖様に顔向けできないぞ。まあ、とはいえ、わしも総支配人という呼び方は気に入っておるがの」
「ははは。それはよかった」
「総支配人と言えば、昔、フリューゲルスがファブレスから独立する前に……」
私に用事があって、支配人室へ顔をだしたのじゃなかったのか?
露骨に顔をしかめてしまった。
だが、そんなことを一向に気にしないスエイト老、来客用のソファーを占領して、寛ぎ始める。しかも、そのあとすぐにやってきたガムバにお茶を入れてもらって、例の呪文を三人でやらされる羽目に。
はぁ~ 私たちは何をやっているのだか……
ため息を何度も連発していると、その原因になっている老人が心配そうに声をかけてくる。
「そんなにため息をついていると、幸せが逃げていくぞ。人間、悲観的になっちゃいけない。なにごとも気楽に、楽観的にだ」
「はいはい。そうですね」
このお気楽老人め! 隠居道楽で仕事をしている老害め!
「なんじゃ、年長者にむかって、おぬしがまだ生まれて間もないころ、わしがおむつを替えてやった恩を忘れたか?」
「いつの話だよ!」
「ったく、薄情なヤツじゃ」
「はいはい。で、結局、スエイト老は何をしにここへ?」
途端に、キョトンとした顔で私の顔をマジマジと見つめて来る。
「はて、わしは何をしに、来たのじゃったかの?」
「知るかっ!」
思わず、声を荒げてしまった。無駄な時間をつかわせやがって、このじいさんは!
「そう怒るではないわさ」
「このクソ忙しいときに、無駄な時間をつかわせられたら、だれだって怒るでしょうが!」
「仕方ないのう。そんな総支配人に今朝市場で買ってきた最近のわしのお気に入りの野菜をプレゼントしてやろうかの」
そう言ってデスクの上に並べたのは、こぶしほどの大きさの球形の白い野菜。泥がところどころついているところを見ると、土の中から掘り出してきたものか。
「ちょっと前から総支配人、珍しい野菜を探していたであろう。おそらく、そいつのことじゃろうて」
「……」
「こいつを炒めてあめ色にしてやると、料理に絶妙な甘みとコクを生み出し、うまみを凝縮するんじゃ。それに肉料理につかうと、肉を柔らかくもする。しかも、こいつがあれば、肉のもつ臭みもずいぶん抑えられるんじゃ。本当に優れモノじゃて」
「……」
ど、どこかで聞いたことがある効能。いや、求めていたもの。いや、今まさに探していたもの!
「ど、どこで! どこで、これを!」
「これか? 売っていたやつらはたしか、タマネギとか呼んでおったかの。ずいぶん、へんてこな訛りをもっておったが。アヤツらは王国の人間ではないのかもしれんの」
「た、タマネギ!」
「じゃが、王都の市場で売っとったということは、王都近隣に住んでいるってことかの? でないと、市場の管理官の許可なんぞ下りるはずないしの」
「どこだ? 市場のどこで手に入れた?」
「ん? そんなにこいつが気に入ったのかの? それはよかった。持ってきた甲斐があったってもんじゃ」
「そんなことより、これはどこで手に入れた? 市場のどのあたりで売っている?」
「はて、どこじゃったかの?」
「はやく、はやく教えてくれ!」
「あれはたしか……そんなことより、昔は旦那様に代わってファブレス商会全体を取り仕切っていた人間は……」
部下にスエイト老からもらったタマネギを渡して、王宮の副料理長の弟を急いで呼び出し、調理するように命じてから、外套を羽織って町へ飛び出した。
目指すは王都の東門の前に広がる市場。その一番端。
近隣の農民たちが畑で取れた新鮮な作物を持ち込み、王都の人たちに売っているエリアだ。
事務所の前の通りに飛び出し、ちょうど通りがかった辻馬車を呼び止める。
「東市場まで行ってくれ。いそいで手に入れなきゃいけない野菜があるんだ」
「旦那、夕飯の食材の買い出しですかい? 買い忘れの食材を入手するために辻馬車をつかうなんざ、よっぽど奥さんが怖いと見えますな」
「まあな、そんなことろだ。急いでくれ!」
「へい、それでは出発しやす」
辻馬車は私を乗せて、一路東門の方へ向かう。石畳の道を車輪がリズミカルにカタカタ音を立てて進んでいく。馬が蹄鉄を鳴らして、パッカパッカ。
まったく眠気をさそう情景だ。
普段なら、すぐに寝入ってしまって、目的地についたときに、御者に起こしてもらわなければならないが、今日ばかりはそうも言ってられない。
なんとか目をランランと見開き、馬車の窓から見える周囲の景色を見つめていた。
通りを行き交う人、通りに沿って店を出している行商人たち、そんな人々がさっき見かけたばかりのタマネギと同じものをもっていないか、売っていないか、気を付けていたのだ。
だが、結局は、その努力は実をむすばなかった。
東門前に広がる東市場につくまでに、タマネギを再び目にすることはなかった。
御者に料金を払い、市場の北端を目指す。
だが……
「ない……だと」
そこで物を売っている行商人は一人もいなかった。まったくの空っぽ。人っ子一人いない。
慌てて、東市場を統括する管理官事務所へ向かう。
「そりゃ、当然だろ。農家のやつらは、朝早くから作物を収穫して売りにくるんだ。みんな午前中で店じまいにきまってるだろが」
「そんな……」
「夕飯の食材の買い忘れかい? だったら、気の毒だがここでは諦めな。どうしても必要なら町中の八百屋をまわりな」
がっくりきてしまった。
折角、喜び勇んできたというのに、空振りとは……
一応、管理官から店を出している者たちの名簿を見せてもらったが、いずれも近隣の村の人間ばかり。管理官自身もだれがどの作物を売りに来ているかまでは把握していないようだった。
「まあ、今日は残念だったが、なに、諦めることはないさ、市は明日も立つからな。ただ明日はこんな夕方ではなく、早朝に来いよ」
というわけで、私は帰路についた。さすがに、帰りは辻場所を呼び止めるような気にもならなかった。