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肉片をフォークに突き刺し、口元へ運ぶ。鼻先に焼いた肉の匂いが漂ってきた。
一瞬、脳裏に若いころに味わったあの味がよみがえり、えづきそうになる。さすがに、場所が場所だけに、必死に抑える。口を開き、その中へ肉片を放り込もうとするのをためらう。
覚悟を決める。そして、脂汗を垂らしながら、口の中へ肉片を放り込んだ。
鼻をつくかぐわしい肉の焦げる匂い。舌が火傷しそうな熱。それらを包み込むまろやかな油。
その肉片はまったく獣臭くなく、えぐみもない。肉はホロホロとくずれ、中からあふれだす肉汁はジューシー……
「こ、これは……!?」
若いころに食べた肉団子とはまったく別の代物だった。
別どころか、異次元の違い! これは……! これは……!
服がはだけて、口から虹色の雄たけびを上げながら、走り出してもおかしくはない。いや、しないが。
これは…… これは…… とてつもなく、うまいっ!
気が付いた時、私の前の鉄板プレートの上には肉片が消滅していた。一瞬の出来事だ。一体、どこへいった? いや、本当は分かってる。すべて、私の胃袋の中へと収められていた。
とても、とてもうまかった!
ふと、視線を感じた。隣の菓子店の手代さんが、してやったりという顔をして、私のことを見つめている。
「どうでしたか? 予想以上だったでしょう?」
正直に答えるしかない。この圧倒的な満足感・充実感には敗北するしかない。
「ええ、完敗でした。今日、ここへ誘っていただいたことを心から感謝いたします」
「ははは、なんの。なんの。こちらこそ、いつも感謝していますよ。ファブレスさんには、いつもお世話になっていますからね」
そうして、私たちは笑みを交わしあっていた。
しばらく世間話をしつつ、周囲をそれとなく観察してみる。
どの客もみな一様に満足した顔で口元を布巾で拭っている。だれもが今日の料理を気に入ったようだ。不快そうな表情を浮かべている者は一人もいない。
それぞれの前にあるプレートはどれも空。付け合わせの温野菜ですら、残している者はいなかった。
――これは、もしかすると……
近くを女神官が通りかかったので、質問してみる。
「これは、なんという料理ですか? 聖女様の世界の料理ですか?」
女神官は、慣れた様子で、笑顔でうなずきながら答える。
「ええ、そうですよ。今日の料理は聖女様の故郷では『ハンバーグ』と呼ばれているそうです」
「なるほど、ありがとうございます」
――ハンバーグか。
耳慣れない異世界の料理名。そっと口の中でつぶやいただけで、口の中につばがあふれそうだ。食べたばかりだというのに、また食べたくなる。
絶品だった。
時間さえも忘れさせる幸福感だった。いつまでも、いつまでも、この幸せをかみしめていたい。いつまでもこの場所を離れたくはない。だが、そういうわけにもいかないのはわかっている。
やがて、隣で手代さんが、しぶしぶというように立ち上がった。
「さて、もう少しこの美味しい食事の余韻に浸っていたいところですが、そろそろ戻らないと、旦那様に叱られてしまいそうですわ」
「もうそんな時間になっていましたか! もっとここにいたいですが仕方ないですね」
「ええ、私もです」
「今日はありがとうございました。このお礼はまたいずれ」
「いえ、今後ともよろしくおねがいしますね。では、また」
私たちは固く握手をし、そうして、別れた。
帰り道、ずっと脳裏に一つの想いを浮かべながら歩いていた。
――ハンバーグ、これは絶対に来る!
レストランであの味を再現することができれば、王都といわず、ヨックォ・ハルマの人々に引っ張りだこになるに違いない。大流行は間違いなしだ。
そのためには……
どうにかして、ハンバーグをこの手で再現しなければ!
とっくに気が付いていたが、あの場には我がファブレス商会のライバル商会の関係者たちもいた。そして、絶対に彼らもまた、今の私と同じ感想を抱いて帰っていったに違いないだろう。そう、それはつまり、
――ハンバーグのレシピ争奪戦が、今この瞬間から始まったってことか。
それでも、なんとか我がファブレス商会がその争奪戦に勝ち残り、あの味の再現に一番乗りしてみせる!
東の夕空に輝き始めた一番星に、私はこぶしを伸ばして宣誓した。
「ああ、ご苦労様。よくやってくださいました」
「いえ。私のほうこそ、おいしいお料理を御馳走していただきありがとうございます」
「これは約束のレシピです。聖女様の世界では『チップス』というそうですよ」
「ほお、これは、これは。いただきます」
「野菜類を薄くスライスして油で揚げたお菓子です」
「うすくスライスですか? 材料は野菜ですか?」
「ええ、つぶしてペースト状にしてから薄くのばして、揚げる方法もありますがね」
「ですが、薄くしてしまうと野菜がもつうまみを感じられずに、おいしくないと思うのですが? ある程度は厚みがないと……?」
「ところが、そうでもないのですよ。油で揚げることで、うまみが凝縮し、野菜の本来もつうまみを十分に味わえます。さらに薄くスライスし、揚げることで生ではありえない、パリパリとした食感をたのしめたりするのです。一度食べ始めるとなかなか手が止まらなくなりますよ」
「なるほど。野菜をつかったお菓子とは。なんで今まで思いつかなかったのだろう。盲点でした」
「ですね。こちらの世界では全然見かけませんしね。チップスは塩を振って、そのまま食べるもよし、砂糖をまぶしたり、クリームなどを塗るのもまたよしですよ」
「なるほど」
「もちろん、野菜以外にも果物でも結構いけます」
「おお、そうなんですか」
「一応、こっちの世界の食材でも作れるように食材の翻訳もしてありますので、このレシピ通りに作れば、すくなくとも聖女様の味を再現できるでしょう。それ以上は調理する側の腕しだいですが、そちらなら大丈夫でしょう」
「本当に、なにからなにまでありがとうございます」
「いえいえ。その代わり、今日のことはご内密に。あの傾きかけているあちら様を、私どもが裏から手を回して手助けしたなどと、今さら知られたくはないですからね」
「ふふふ。よほどの恩義がおありなようですな」
「まあ、そんなところです。では、また」
「はい。また、なにかあれば、ごひいきにお願いいたします。王女様にもよしなに」
「はい」
そうして、二人の人物は道を左右に分かれていった。