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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

大宜都比売(おおげつひめ)の黄泉路旅

作者: 川原にゃこ

愛されていないのだと思っていた。

神々の取り決めのひとつ、ただの形式上の婚姻。

彼は若く、私と彼の婚姻が成立したとき、まだ少年と言って差し支えないような風貌であった。



彼――(ひだる)は、飢えを司る神であった。

循環するこの世界の重要な役割を担う彼自身もまた、いつも飢えていた。

私はその彼の飢えを癒し、寄り添うために、彼に()したのである。



饑は物静かな神であった。

いつも私に何か遠慮をしているような、どこかよそよそしくも他人行儀な態度で、私の方を伺うことが多かった。


彼にしてみれば、私のような古臭い神が突然、妻となったとて理解が及ばぬ事もあろう。

私が彼の立場であったなら、その気持ちは充分理解出来る。

彼の飢えを癒すのは、私でなくとも勤まろうに。

私でなくてはならない理由などどこにもなかった。

しかし、彼は私が作ったものをよく食べて、はにかんだように笑むことが多かった。

私たちには、時間はたくさんある。

これから、彼と歩み寄ることも出来るだろう。



饑と過ごす日々は穏やかで、彼が青年となってからも夫婦としての生活をすることは終ぞなかったが、そんな日々も愛おしく感じていた、そんな折に、突如として終わりが訪れたのである。




「天照様からの書状だわ……」



誰に言うでもなく、困ったように私は独り言(ひと ご)ちた。

天照様は天を司る太陽神であり、この日ノ本での最高神である。

気高くお美しい方であるが、その実私は天照様が恐ろしかった。


保食神(うけもちのかみ)である私は、様々な植物や獣、魚を育て、その生命が皆の糧となるよう役割を与えることが使命であった。

だが、その仕事は一朝一夕で行えるものではなく、短絡的にその恵みを分け与えることは出来ない。

環境を、世界を壊してしまわぬよう、慎重に事を進めなくてはならないのだ。


それでも、天照様はそんな私を焦れったくお思いになるのであろう。


近く、天照様の弟君である月読様を遣わせるので、その際新たな植物の種を数種、寄越すよう――そんなことが書かれていた。


饑はまだ帰ってこない。

私一人で月読様をもてなさなければならないであろう。

月読様は天照様と並ぶ三貴神のお一人であるため、そんな貴神をもてなすにはやはりそれ自体を神事と見做(みな)し、酒が必要不可欠であるのだ。

だが、今から御酒殿神(みさかどののかみ)に依頼したとて、月読様の来訪に間に合うことはないだろう。



酒を作ること――それ自体が神事である。

私はあくまで保食神であるため、酒を醸すことは不慣れである。


私の醸す酒をお召しになられるだろうか?

けれど、御神酒を用意しなかったことにより、天照様と、そして月読様のご気分を損ねてしまったら?

わからない。


天照様の遣いが来ることは初めてではないが、月読様のような貴神が直々に来訪することはなかった。

自らの弟神を遣わせるとは、余程天照様は焦れていらっしゃるのであろう。


もう時間がない。


私は誰にも相談することが出来ぬまま、悩み抜いた結果、月読様に私の醸した御神酒をお出しすることにしたのであった。


私は身を清め、和妙(にぎたえ)の真新しい神御衣(かんみそ)を身につけて、注連縄を張った聖域内で御料米(ごりょうまい)を前に恭しくお辞儀をした。


御料米を口に含み、それを噛み、少しずつ白磁の瓶子に注いでゆく。


小さな瓶子(へいし)の中身を満たしてから、和紙で封をして、銀糸でその口を縛った。

そうして出来た口噛み酒を、月明かりの差し込む幣殿(へいでん)にお祀りした私は、ほうと胸を撫で下ろした。


古来より伝わる作法を違わず行い、これで無事に酒を醸すことが出来るはずである。

月読様は口にすることはないであろうが、何もないよりはいいだろうと、他の食物の用意をすべく、私は急ぎ荒妙(あらたえ)の神御衣に着替え、炊屋(かしきや)に向かったのであった。




月読様はお美しいが、氷のような冷ややかさを持つ男神であった。

先程から私の顔を直視することなく、天照様からの言付けを淡々と繰り返す。

私も形式的に言葉を紡ぎ、そして用意していた食物を勧める。

長居をするつもりはなかったであろう月読様は少しだけ眉を(しか)めたが、礼を失するとのお考えか、いくつかの食物を少量ずつ口にされた。

少しばかり表情が緩んだ月読様のお顔を見て、私は内心胸を撫で下ろした。


そして、月読様は私が醸し、月光に曝した御神酒を口に含む。

御神酒も口に合わないといったことはなかったようで、小さな瓶子であったこともありすぐに中身がなくなってしまったようであった。



「む……すまない、一人で飲み干してしまったようだ」

「あ、いえ……月読様のためにご用意したものですので。申し訳御座いません……お料理なども空になってしまっているものがございますね。配慮が不十分で、失礼致しました。すぐにご用意致します」



立ち上がる私を見て、月読様は俺も手伝おう、と立ち上がろうとするが慌ててそれを制止する。



「貴神であり、お客様でもある月読様に炊屋に立たせたとあっては私の面目が立ちません。夫にも叱られましょう。どうか、おかけになったままお待ちくださいませ」






そう言って、私は炊屋に急ぎながらどうしようと頭を悩ませる。

どうせなら、もっと醸しておくのだった……うっかりしていた。

食物であれば、すぐにご用意することが出来るのだけれど。

しかし、今更悔いても詮無きことであるので、私は炊屋の一角にある祭壇で、簡易的な神事を行い、再び酒を醸すことにした。



かたり。

小さな物音がして、私は驚いて後ろを振り向くと、そこには月読様がいらっしゃった。

月読様は驚きに目を見開き、そしてすぐさま月読様の顔がみるみるうちに怒りに満ち、薄紅であった目が憤怒に赤くなる。

驚きに声も出ない私を前に、月読様は瓶子を乗せた三方を薙ぎ払うと、「この悪神(あくじん)め!」と私を罵った。



「口噛酒のような不浄なものをお前はこの俺に出したというのか!」

「月読様、お赦しください、私はただ……」



月読様の猛烈な怒りに萎縮した私は直ちに平伏し、月読様に赦しを請うた。

しかし、次の瞬間、私の存在は無に帰した。

私は、月読様に殺されたのであった。








薄暮(はくぼ)黄泉比良坂(よもつひらさか)をひとり歩く。

私の周りには、影のような存在が胡乱に蠢いていた。



黄泉比良坂を流れる川のほとりに腰掛けて、私はふと川を覗き込む。


すると、不思議なことに、川の水には無惨に切り捨てられた私の遺体が映し出されていた。

私は瞠目して、食い入るように自分自身の死を見つめる。


私の死体の側には呆然とした月読様が立ち尽くしていて、そして炊屋の隅で月読様は嘔吐した。

しばらく肩で息をしていた月読様であったが、私の死体に振り向くと、驚いたように後ずさった。


私の死体には、いくつもの新しい穀物が芽吹いていたのである。


これが、私の保食神たる由縁だ。

おそらく、天照様は、この穀物を欲したのであろう……。

だから、天照様はきっと……。

口にするだに恐ろしい考えが私の脳裏に浮かんだので、私はかぶりを振ってその言葉をかき消した。




月読様は少しの逡巡ののち、炊屋から姿を消した。



しばらくして、炊屋の戸が開いた。

夫である饑が、どうやら私の死体を見つけたらしい。

饑はその場で崩れ落ちるように膝をつくと、私の死体に這うようにして近付いた。

饑は哀れなほど身を震わせて、私の死体を掻き抱く。

私の顔を見つめて、何度も揺すって、それでも反応のない私の死体に縋って饑は大泣きした。

血だらけの私の右手を固く握り締め、何度も何度も私の名を呼んでいるようにも見える。

そんな饑を見つめていた私の心に、ある考えが芽吹いた。



もしかすると、饑に愛されていたのではないか?



――そんな一抹の希望を、今更になって抱く私を愚かだと笑うでしょうか?


饑は随分長い間、私の死体に縋って泣いていた。





私の死体のほとんどが穀物に覆い尽くされた頃、天照様の使者が穀物の回収に来たようであった。

饑ははじめ、私の死体を差し出すことを断固として拒否していたように思うが、天照様に献上することを拒否し続けることは出来なかったのか、穀物を回収する使者たちを虚ろな目でただ見ていた。

その瞳に込められたものは、水面に揺らぎ、よく見えないけれど……饑の胸中を推し量るには充分であった。





私がこうして川のほとりに座り続けて幾年が過ぎたのか――この根の国では時の経過がわからなくなる。

一つ所から動くことのない私にはいつしか根の国の植物が寄り添うように絡み付いていた。

そうして、文字通り根の生えた私は、川のほとりで大いなる川の水面に映る夫の姿を見つめ続けていた。

心を鎮めて耳を澄ませると、夫の悲痛な泣き声が聞こえてくる。

心悲しげなその声に、私の心は張り裂けんばかりだ。

ぶるりと小さく身体を震わせる。

この根の国は、寒い……。

死者の哀しみが、孤独が、心の奥底にするりと入り込み、体の芯から凍えてしまいそう。

饑のあたたかな手を思い出す。

ふとした何気ない日常に、触れ合ったこと。

そんな饑との思い出が、ともし火のように私の胸の奥であたたかい。

饑との思い出が、私の心身を凍えさせなかったのだ。

けれど、その思い出も次第に根の国の寒さに蚕食(さんしょく)されつつある。



「ここは…とても寒いわ、饑……」



饑に聞こえるはずなんてないのに、口からひとりでにそんな言葉が零れ落ちる。



「あなたがいないと凍えてしまいそう」



私が死んでから、何かを探すように彷徨う夫の姿をずっと見ていた。

泣いて、私の名前を呼んで彷徨い歩き、飢えと恨みを撒き散らす我が夫。

祟り神にすらなれず、神格をなくし妖へと身を落としてもなお、彼の孤独と憎しみと空腹は癒されないようであった。



「あなたも飢えと孤独に泣いているのね」



私の頬を一筋の涙が伝う。



「今すぐあなたの飢えと孤独を癒してあげたい……けれど、私は死んでしまったから……そんな簡単なことすら叶わない」



私は静かに目を伏せて、小さくなった。

根の国の植物は優しく私を包み込み、私を慰めてくれる。



「ごめんなさい饑……愛しいあなた」


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