【書き下ろし3巻発売記念SS】全て本音、だから
「アイリーン、観劇に行くぞ」
休みの日の朝。開けられたカーテンの隙間から差し込む穏やかな日差しに、目を細めながら身支度をしていたとき、何の前触れもなくヴィクター様が言った。
「はい?」
「だから、観劇に行くぞ」
「今日ですか?」
「今日だ」
「……事前に言っておくとか、できなかったんですか」
深くため息をついた。ヴィクター様はいつだってそうだ。こちらの都合を聞くこともなく、唐突かつ当日に予定を入れてくる。
……けれど。
「お前だって、今日は俺と出かけるつもりでいただろう?」
「……まあ、そうですね」
久しぶりに2人で休みが合ったのだ。それは私だって、ヴィクター様と1日過ごすつもりではあったし、まあ、楽しみにしてもいた。
けどヴィクター様が何も言ってこないから、私から誘うべきかと悶々としていたのだ。結局当日まで何も言えなかったけど。悩んでいたあの時間を返してほしい。
「俺に声をかけるかどうか迷っていたお前は可愛かった」
「……性格が悪いですよ」
「どこが? 俺は夫としての正当な権利を行使しているだけだ」
「意味がわかりません」
「それに、もしお前から誘ってもらえたら、これ以上に嬉しいことはないからな」
ヴィクター様は微かに青い目を細めた。笑い混じりの口調だが、その瞳の奥に灯る色は少しだけ熱を帯びている。
心底愛しいものを見るような、そんな目。
「まあ、万が一にもないだろうが」
……やっぱり一言余計なのだけれど。
そう思っているのだとしたら、次は絶対私から誘ってやろう。そして驚く顔をしっかり至近距離で見てやるのだ。
私ばっかり振り回されていて悔しい。私だって、たまにはヴィクター様を動揺させてみたい。
「後は、」
ヴィクター様はすでに身支度を終わらせていたようで、先に扉へと向かっていく。扉に手をかけて、足を止めたヴィクター様は、顔だけ傾けてこちらを振り向いた。
「事前に予定を伝えたら、お前は下調べなり何なり、準備するだろう?」
ふ、と小さく笑みをこぼして、そのままヴィクター様は部屋から出ていく。扉が閉まる直前、ひどく甘く響く低い声が聞こえた。
「こういうのは、俺に任せておけ」
ぱたん、と扉が閉まる音がして、部屋には私一人だけが残される。
少しの静寂。それを破るように、両手で顔を覆った。
やっぱりいつまで経っても、ヴィクター様には敵う気がしない。
◇
……と、思ったのだけれど。
「アイリーン、行くぞ」
馬車に揺られ、2人で取り止めもない話をしながら劇場へと辿り着き。
ヴィクター様にエスコートされて馬車を降りた段階で、気がついてしまった。
急に足を止めた私を不審に思ったのか、ヴィクター様が首を傾げながら振り返る。
「どうした?」
「ヴィクター様」
「なんだ」
「私に何も知らせなかった理由、わかりましたよ」
「それは朝に説明しただろう? お前が何の気兼ねもなく楽しめるように予定を考えるのが、俺は好きなんだよ」
「そうですか。ちなみに、それが本音の何割ですか?」
「……」
観劇に来た。そこまではいい。
問題は、その内容だ。
帝都に位置する、エルサイドで一番立派な劇場。見上げるほど大きな建物はたくさんの人でごった返していて、今日の演目に相当人気があることが窺える。
そして劇場の壁には、どこからでも見えるような大きな文字で、今日の演目を書いた紙が貼ってあった。どうやら恋愛もののようだ。説明書きによれば、その内容は、
小国の公爵令嬢が、たまたま訪れた大国の王子に見初められ、幸せな結婚をする話。
……ん?
どこかで聞いたことがある話、のような気がする。いや気のせいだろう。気のせい、気のせいだ、
不誠実な婚約者に苦しめられていた主人公が、本当に幸せな恋を知る話。
……んー?
ヴィクター様を見上げた。ヴィクター様が、ん、という顔で首を傾げる。
目線だけで壁を示した。私の視線を追って紙に目を止めたヴィクター様は、そんなことか、というように頷く。
「今最も人気、というか、未だかつてない人気を誇る演目だそうだ。チケットを取るのはなかなか大変だったぞ」
「……どこかで聞いた話のような気がするんですが」
「そうか? 俺に心当たりはない」
「とぼけるのも大概にしてください」
「何がだ? ああそういえば、少し俺とアイリーンにも似ているように思うが、少し違うな。俺がお前を見初めたのではなく、お前が俺を惚れさせたんだろう」
「……それ、何が違うんですか?」
「全く違う。だいたいお前のせいという意味で」
「意味がわかりません。というかそんなことより!」
ヴィクター様を見上げて、この場から一歩も動かない意思を示す。
「絶対、見に行きませんからね」
「なぜ?」
「なぜも何も、正気ですか? 羞恥心をどこかにおき忘れてきたんですか?」
「……?」
「本気で理解できないという顔をしないでもらえませんか?」
困惑したように私を見下ろしてくるヴィクター様に私が困惑する。
冷静になって考えてみてほしい。自分たちがモデルになった演劇なんて、とてもじゃないが見られたものではないだろう。ただでさえ自分たちの馴れ初めがエルサイド国内に向かって発信され続けていたという事実が信じられないのだ。というか、信じたくない。
「だが、ここまで来て帰るのも勿体無いだろう? 貴重な休みだ」
「それは、そうですけど」
「俺はお前と過ごす今日を楽しみにしていたんだがな。お前は違うのか?」
「……その言い方は、ずるくないですか?」
「まあお前がどうしても嫌だというのなら仕方がないが。今日のところは城に帰るか」
「…………卑怯だと思います」
「まあ」
ヴィクター様は楽しそうに笑い、指を一本立てた。
「これも一つの戦略だ。俺たちの立場を揺るぎないものにするためのな」
「……有効性は、認めます」
「そうだろう? 見ろ、ここにいる誰もが俺たちの物語に熱狂している。自ずと俺たち自身のことも応援してくれるというわけだ」
「私たちの物語って、認めましたね」
「……それはともかく」
「話の逸らし方が露骨ですよ」
ヴィクター様は肩をすくめて、私へと手を差し出す。
表情は逆光になっていてうまく見えなかったけれど、その手つきは流れるように美しく、それでいて優しかった。
銀色の髪が、さらりと揺れる。
「今日一日、俺と出掛けてはくれないか? 俺はお前と過ごしたい」
だから。
気がついたらヴィクター様の手を取っていた自分が恨めしくて、思わずため息をつく。
このため息が嫌なものではないという事実が、余計に悔しくて仕方がなかった。
◇
結論から言おう。
劇としての質は非常に高かった。モデルなり何なりを全て置いておけば、脚本自体は素晴らしかったし役者のレベルも高く、衣装等も作り込まれていた。文句のない出来だ。
それはそれとして。
「……羞恥で死ぬかと思いました」
「そうか?」
だって、とにかく甘かったのだ。砂を吐くようなひたすら甘い台詞が、よくネタが尽きないなと思うくらいに沢山、沢山使われていた。途中から逃げ出したくなったくらいだ。
世の中の人はよくあんなものを真顔で見れるなと心から思う。
劇が終わった後も、私たちはまだ会場にいた。チケットを手に入れるのに苦労したと言いつつ、ヴィクター様は2階の一番良い席、しかも個室をしっかり押さえていたらしい。かなりの広さがある上に調度品も上等なもので、もはやちょっとした応接室である。
劇が終わった後も、どうやらしばらくここにいていいようだ。先ほど届けられた簡単な飲み物を、ヴィクター様は平然と傾けている。
理解できない。どうしてあれをみて平静でいられるのか。
「そうかって、ヴィクター様は平気だったんですか」
「ああ」
「どうして」
「本物のアイリーンの方が、よほど心臓に悪い」
「………そういうことを平然と口にできるヴィクター様の方が、心臓に悪いです」
抗議しつつ、熱くなった頬を両手で覆えば、ヴィクター様は楽しそうに笑い声を立てた。
「事実だからな。確かに主演の女優は美人の部類に入るんだろうが、アイリーンとは比べ物にならん」
「……いや、流石に本職の方と私を比べないでほしいんですが」
「アイリーンの方が立ち振る舞いに品があるし、可愛い」
「……まあ、一応貴族ですし。というか最後のは完全に主観では、」
「やはりアイリーン役を務められる役者というのはなかなかいないものだな。……そうだ」
良いことを思いついた、というようにヴィクター様が私を見下ろす。
「お前が出るか?」
「名案みたいな顔しないでください。ありえません」
「確かにありえないな」
意外にもヴィクター様はあっさりと引き下がった。そして大きく頷きながら、言う。
「台本の上だとしても、お前と他の男が心を通わせるなど許さん」
「だったらヴィクター様も出ればいいんじゃないですか?」
半ば投げやりに言えば、ヴィクター様の目が見開かれる。
「名案だな」
「ふざけないでください」
ため息をついて、受け取ったグラスに口をつける。少しお酒も入っているのだろう、かすかに鼻の奥を抜けるような香りがする。
丁度いい。これで火照った顔をお酒のせいにできる。
ヴィクター様は誉めすぎなのだ。絶対に変な補正がかかっていると思う。
でも、まあ。ヴィクター様役を務めた彼は、確かに顔立ちは整っていたけれど、その纏う雰囲気というか、向き合った人に与える印象は、ヴィクター様には遠く及ばない。目を合わせただけで思わず膝を折りたくなるようなあの圧力は、生まれながらにして次期皇帝として育てられた人間特有のものなのだろう。
……いや。後継者であれば誰もが持つものというわけでもないから、ヴィクター様特有のものか。
ちらりと横目でヴィクター様を見上げてみる。座っているだけで一枚の絵画のような空間を生み出してしまうその姿。
まあ、再現は無理だろう。
一人で結論を出し、小さく頷く。これを口にすればヴィクター様が調子に乗るのはわかっているから、何も言わない。
「なんだ?」
「別に、なんでもありませんよ」
私の視線に気づいて聞き返してきたヴィクター様を軽く流し、立ち上がる。
「そろそろ戻りましょうか」
「そうだな。次の予定に差し障る」
「次はもう少し、心臓に優しい場所にしてください」
「安心しろ、紅茶が美味いという喫茶を抑えてある」
「それは」
思わず笑みが漏れた。
「くつろげそうですね」
「これを見たお前の状態くらい想像がついたからな」
「わかっててどうして連れてきたんですか……」
もう何を言っても無駄だ。わかっている。
ヴィクター様に連れられて劇場を出る。遠巻きに視線を感じるが、まあ、この場所だし仕方がないだろう。見られること自体には慣れている。
できるだけ気にしないように背筋を伸ばし、停めてあった馬車に向かって歩き出したところで、ヴィクター様がふと口を開いた。
「そういえば、あの台本には俺も携わっていてな」
「……全て知ってたんですか」
「それはもちろん。俺が確認もせずに俺たちの話を世に出すわけがないだろう?」
「……さすが、用意周到ですね」
「だろう? それで俺が少しだけ手を入れたのが、俺の台詞でな」
「あ、れですか」
あの甘すぎる台詞の数々か。思い返せば思い返すほど両手で顔を覆いたくなる。
「全て俺の本音なんだがな」
「……」
「直接お前に言うと怒られそうだから、劇の形にしてみたわけだ」
ヴィクター様がふっと微笑んだ。エスコートしていた腕をそっとほどき、私の方へと振り返る。
「だが、観ていたら思い直した。やはりこういうのは、直接伝えるべきだろう」
近づいてきたヴィクター様が、私の手を取る。
こつり、と額がぶつかる音が、頭の奥を揺らした。
「お前に恋をしてから、世界の色が変わった」
私にだけ聞こえるくらいの、小さな小さな囁き声。
「責任をとって、これからも俺の側にいてくれ」
世界から音が消える。
この場に私とヴィクター様しかいないような、そんな錯覚。
「……っ!」
ふっと全身の力が抜け、無言で崩れ落ちかけた私を支えたヴィクター様は、それはそれは楽しそうに笑ったのだった。
お読みいただき、ありがとうございました!
全編書き下ろしの電子書籍3巻が、2/6にエンジェライト文庫様より発売されております!
そちらもぜひお手に取っていただけますと嬉しいです……!




