【書籍2巻発売記念SS】隣にいつも
時間軸的には1章と2章の間くらいです。
ややシリアス注意。
「……ど、うした」
狼狽えた声を溢し、全身を強張らせたヴィクター様を無視して、後ろから抱きつく腕に力を込めた。
エルサイドに来てからしばらく経ち。ひとまず色々なものが落ち着いて、お互いに忙しくなってきた頃。
普段なら、おやすみなさい、と声をかけて寝るはずだった。お互いにとんでもなくやることが多くて、私も早く寝た方がよくて、けれどどうしてもそんな気になれなくて。
とろんと目を細めながら眠る支度をしているヴィクター様に、後ろから抱きついた、そんな格好。
「……」
答えない私に、ふ、と笑った気配がした。そのまま、くるりと上半身を捻ろうとしたヴィクター様を押し留めるように、抱きしめていた腕に力を込める。顔は、見られたくなかった。
しばらく私の力に抗っていたヴィクター様だったが、やがて諦めて力を抜く。代わりに回ってきた右腕が、とん、と私の頭の上に乗った。そのまま、髪が乱れるのも気にせずにわしゃわしゃと掻き回す。
「お疲れ」
さすがだな、と思うと同時に、苦しかった。
この人は、これ以上ないくらいに優秀で、期待されている人で。そういう人に選んでもらえたことは言いようもないくらいの喜びなのだけれど、当然そこには責任も伴うわけで。
お礼を言わなければ、と思った。けれど今口を開いたら、涙声になってしまう気がした。
黙って腕に力を込めれば、とんとんと、軽くヴィクター様の手が頭を叩く。まるで子供をあやすかのような仕草に、じわりと涙が溢れた。気づかれたかと焦ったが、今のところその様子はない。
簡単に言えば驕っていたのだ。想像以上にこの状況が堪えている。
圧倒的に知識が足りない。ヴィクター様に助けられるばかりで、対等どころか、足手まとい。けれどそれを、ヴィクター様に甘えることで誤魔化そうというのは、きっと間違っている。
ヴィクター様に気付かれないように、温かな背中でぎゅ、と目を瞑った。そうしてゆっくり開いて、心を決める。
「なんだか甘えたい気分だったので。珍しいでしょう?」
「ああ、天変地異の前触れか?」
「失礼ですね。甘えるとこうなるのなら、もうやめにしましょうか」
「勘弁してくれ。甘えるお前は可愛い」
咄嗟に熱くなった頬を押さえて、一拍置いてふふ、と顔を見合わせて笑って。
抱きしめ合って、一緒のベッドに入る。お互いに忙しいから、最近はこうして添い寝をするだけの日が多い。
恥ずかしくて落ち着かない、という私と、理性が試されて一睡もできない、というヴィクター様の利害が一致して、いつも寝る前には少しだけ距離を開ける。
しばらくして、ヴィクター様の規則正しい寝息が聞こえ始めたあたりで、私はこっそりとベッドを抜け出した。
途端に身体を包む冷たい空気に、ふるり、と小さく震える。けれど侍女に知られるわけにもいかないので、このままでいるしかない。
ベッドから一番遠いところにある私の机に腰掛けて、布に包んだ一番小さな灯りをそっと灯すと、私は分厚い本を開いた。
本当に良くしてもらっているのだ。皆私に優しくて、少しでも無理をしようとすると止められる。侍女にも、ヴィクター様にも。
けれど現実的な話、時間が足りないのだ。今この瞬間、私はヴィクター様に助けられてかろうじて及第点と言った具合。でも、それにうじうじと落ち込むより、こうしてなんとかしようと頑張る方が性に合っている。
薄闇の中、細かい文字を追う。そうして集中し始めれば、時間が経つのはあっという間だ。
そのまま数刻がすぎ、ヴィクター様が起きだす少し前の時間に、私は冷えてしまったベッドに潜り込んだ。
◇
「アイリーン、少し出かけないか」
「……また今すぐとか恐ろしいこと言いませんよね?」
「俺が年がら年中無茶振りをする馬鹿に思えるか? 今すぐと誘う時は、相手が今すぐ行けると確信を持っている時だけだ」
「それでは、いつのつもりだったんです?」
「三日後だな」
午後の私の執務室。なんだか既視感のある光景に、少しだけ笑ってしまった。
三日後。確かにその日は色々な人が私の休日と設定してくれたようで、やるべきことがない。せめて教育だけは入れてくれ、と主張したものの、誰も聞いてはくれず、それだったら自分で勉強しようと思っていた日だった。
「私にも予定があったんですが」
「その日は何もないはずだ」
「そうですが、私も勉強を」
「アイリーン」
急に真剣な光を灯したヴィクター様の声に気圧されて、言おうとしたことが口の中に引っかかる。珍しく笑いを収めたヴィクター様は、真っ直ぐに私を見つめていた。
「根を詰めすぎだ。休め」
「……まさか、ヴィクター様に言われる日が来ると思ってませんでした」
「茶化すな」
「そっくりそのまま、さっきの文を繰り返したいですね。まさか――」
「アイリーン」
私の机に両手をついて、ぐっとヴィクター様が顔を近づけてくる。
「なんですか」
「俺が気がついていないとでも思ったか?」
低い声で、夜、と囁かれる。
一瞬の動揺を見逃してくれるようなヴィクター様ではない。
「いいか、無理と無茶は別だ。お前のそれは無茶だ」
「……そうかも、しれませんが」
なんとなく身体に影響が出ていることは気がついていた。体調は万全、とは言い難い日々が続いている。怠慢、と一掃するには危険な状態であることにも、私が倒れでもしたら今以上に迷惑をかけてしまうことにも、気付いてはいる。
「分かっているなら、休め。倒れられたら迷惑だ」
「そこは、心配、じゃないんですか」
「お前にはその方が効くだろうから、あえて迷惑と言った。俺の本音としては心配だし、その程度お前もわかっているだろう」
はあ、と深い溜め息。だから茶化すな、という声は、そろそろ本気で怒られそうだ、というもの。
「……分かりました。夜は寝ます」
「話を逸らして完結させるな。今は無茶をするなという話をしている」
「……」
返す言葉が見つからなかった。
この人のこういうところが怖い。皇太子として育ってきた威圧感と迫力と、有無を言わせぬ口調で突きつけられる正論。そういえば研究中もそんなことを思ったな、と現実逃避のように思い出した。
「すみません」
「ああ」
短い返事。そして近い距離で、私を逃さないようにして、ヴィクター様は明らかに答えを待っている。
このままだと泣くな、と思った。
「……すみません、少し時間をください」
「時間?」
「忙しくて、余裕がないんです。またきちんと話しますから、今は少し待ってください」
「……」
「失礼します」
返事がないのに甘えて、部屋を飛び出した。待て、という制止の声は聞こえなかったことにしよう。
分かっている。ヴィクター様も他の人も、全て私を心配して言ってくれている。けれどやはり、少しでも早くヴィクター様に追いつきたいのだ。いつまでも助けられてばかりでは嫌だ。少しでも早く、ヴィクター様の隣に立ちたい。
ヴィクター様の言う通り倒れたりしたら迷惑だから、ぎりぎりそうならないようにやればいい。
優しさはありがたい。本当に嬉しい。それでも。
そうしてそれからはヴィクター様からそのことに触れてくることはなく。ベッドを抜け出すと気づかれるようなので、寝る前に懐に入れておいた紙を窓から差し込む灯りで暗記する程度に留めた。確実に前よりは睡眠時間は増えている。ヴィクター様の優しさを、無碍にしたいわけではないのだ。
そして、ヴィクター様に誘われていた日になった。
早朝。いつも通り起き出した私は、2人の寝室を抜けて私室に戻ろうとする。今日読もうと思っていた本は既に机の上に置いてある。
だが、がくんと身体が引っ張られ、私は渋々足を止めた。こんなことをする人は1人しかいない。
振り返れば、案の定、寝乱れた髪のまますっと目を細めたヴィクター様がいた。
「どこへ行く気だ?」
「……意地が悪いですね」
私がどこへ行く気かなど、良く分かっていてヴィクター様は問う。
「ああ」
「何か用ですか」
「俺と出かける予定では?」
「受けた記憶はありませんが」
「断られた記憶もない」
「……では改めて断ります。時間がないので今日は無理です」
まだ何か言いたげなヴィクター様にくるりと背を向ける。
「お気遣いありがとうございます」
「アイリーン」
名前を呼ぶ声。私の手首を握る手の力は一切緩まない。全くもって私を離す気がないということを理解して、話からこれ以上逃げ続けることが不可能なことも悟った。
「私を心配してくださっていることは理解しています」
「それなら――」
「ですが、このままでは遅すぎるということも、ヴィクター様は分かっているはずです」
「……」
「ひと月後に近隣国を集めた夜会が。その少し前に視察もあります。国内貴族とのお茶会など、挙げればきりがありません。それら全てに、私の補助をしながら参加するつもりですか?」
「確かにお前はまだ完璧ではないかもしれないが、それは勉強に使える時間を考えれば当然だろう。それで考えれば、もう十分すぎる。明らかに非凡、想像以上だ。誰もが驚くべき成長速度だと褒めている」
「それでも、私にはまだ補助が必要なんですよ。ただでさえ忙しいヴィクター様の仕事を、私はこれ以上増やしたくありません」
ヴィクター様、と呼びかけ、真っ直ぐにその目を見つめた。
「お願いですから、目を覚ましてください」
「……」
「賢君と名高いヴィクター様なら分かってますよね。今の私では不足です。もちろん不足のまま終わらせるつもりは一切ありませんし、それに泣いて甘んじるわけがありません。ですが、事実、不足なんですよ。私を気遣って、その事実から目を背けて看過して、国の面子を潰すつもりですか?」
「そういう話では」
「では聞きます。ここに立っているのが、私ではなく、政略結婚で無理やり結婚させられたどこぞの御令嬢だったら、同じことを言いましたか?」
「……」
「情に流されて国を疎かにするなど、ヴィクター様らしくもありませんね」
言いたくなかったのだ。私を気遣ってくれているヴィクター様には、一番。きっと傷つける、と思うから。こういう状況に私がいることで、心を痛める優しい人だと知っているから。
けれど、ヴィクター様の言い方を借りれば、これが一番効くだろうから、私は尚も言葉を紡ぐ。
「この程度で私は死にません。迷惑をかけるほど体調を崩す前に休みを取ります。けれど、私はいつまでも不足のままでいたくはありません」
「……」
「私は少しでも早く、ヴィクター様に追いつきたいんです。この間のあれは無茶でした、認めます。睡眠は増やしました。心配かけてすみません。次は上手くやりますから――」
ぐい、と腕を引き寄せられて、そのままヴィクター様の胸元へ抱き込まれた。驚いて言葉を途切れさせれば、その隙間を埋めるようにヴィクター様が話し出す。
「なるほど、正論だな」
ひとつ、溜め息をついたヴィクター様は、ぐいぐいと私を抱き寄せる。
「情に流されたところがあるのは認める。相手がお前だ、分かってくれ。確かに、お前なら倒れるぎりぎりのところで追いついてみせるんだろう。だがな」
身をかがめて私の耳元に口を寄せたヴィクター様は、優しく囁いた。
「辛いだろう」
「……」
「心配になるくらい、思い詰めた顔をしている自覚は?」
「……あまり、ありませんでした」
「お前は正しい。だが正しいだけだと辛いと思わないか?」
「多少の辛さは覚悟の上ですから」
「そうか。覚悟は足りたか?」
「……」
今度こそ沈黙した私の頭を、ヴィクター様がとんとんと叩く。
「俺は皇太子で、お前は皇太子妃だ。立場と責任がある。だからお前の言う通り、頑張らなくていいとは言えない。もう言わない。悪かった」
「……はい」
「だから、代わりに、俺を頼れ。甘えろ。辛いなら言え」
「……」
「いつぞやの素直なお前が、今出てきてくれたら良いんだがな」
身体を離され、強引に顔を上げられた。そのまま、なんの前触れもなく流れるように唇を奪われて、私は硬直する。
ようやく状況を理解したときには、もうヴィクター様の腕の中に戻されていた。
「もう一度言う。俺を頼れ」
「…………はい」
蚊の鳴くような声で答えれば、ヴィクター様が苦笑する気配がした。声が小さい、なんてふざけて言う声に少しだけ滲む安堵を感じ取って、私は俯く。
「心配かけて、すみませんでした」
「ああ」
「辛いです。自らの力不足を思い知らされるのも、ヴィクター様の仕事を増やしてばかりなのも辛いですが」
ヴィクター様の胸元を押して強引に距離を取ると、真っ直ぐにその目を見つめた。
「すぐにでも追いついてやるので、よく見ていてください」
そう言えば、ヴィクター様は満足そうに笑った。楽しみにしている、と答えて、私の頭に手を乗せる。
「それなら、今日は俺の膝の上で読書でもするか?」
「……集中できないので勘弁してください」
「なら俺がアイリーンの膝を枕に」
「もう一度繰り返しますか?」
「分かったよ」
不満そうに顔を顰めてみせたヴィクター様に冷たい視線を向けて、くるりと踵を返す。一瞬迷って、ありがとうございます、と呟けば、ヴィクター様がふっと笑う気配がした。
「仕方がないので、私の膝なら貸さなくもないです」
「二言はないな?」
後ろからついてくる足音を感じながら、ずっと軽くなった足取りで、私は自室へと向かった。
お読みいただき、ありがとうございました!
電子書籍2巻の方も、どうぞよろしくお願いいたします!




