第5話 部屋は片付けましょう ※加筆
「こんにちは。突然申し訳ありません、あなたの研究を見せていただきたくて参りました」
そう言って手渡された明らかに高級そうな菓子を、少し驚いて見下ろした。
水色というか、灰色というか、くすんだ色合いの髪が、その目を半分ほど覆い隠している。一番印象的なのは、その大きな眼鏡だった。明らかに不釣り合いな、分厚い眼鏡。端的に言ってしまえば絶望的に似合っていないのだが、身なりに無頓着らしい彼はきっと気が付いていないだろう。
全体的に地味というか、印象に残らないような人ではあるが、さすがに言葉を交わしたことがあれば覚えているはずだ。全くの初対面、と思って大丈夫だろう。
「私は、エリック・グレイと申します。グレイ男爵家の次男です」
「ありがとうございます。アイリーン・セラーズと申しますわ。スレニア王国のセラーズ公爵家の娘です。どうぞよろしくお願いいたします」
そう言って少しだけ微笑みかければ、グレイ様、と名乗った彼は安心したように少し笑った。正直、眼鏡と髪のせいであまり表情は分からないのだが。少しだけ口元が持ち上がったから、きっと笑っている、のだと思う。笑っていたら、ありがたい。
私は、とにかく、単純に、緊張していた。
帝国に来てから、もちろんそれなりに交友関係を築いてはいたし、社交もこなしてはいた。いたけれど、王太子殿下の婚約者や公爵令嬢として挨拶するのと、私個人に興味のある人と話をするのは違う。全く違う。
幼い頃から殿下の婚約者だった私は、年頃の男性と私的な話をしたことがほとんどない。事務的な話や挨拶ならいくらでもできるのだが、今、どういう話を振るべきなのか全くわからない。
内心ひどく緊張しながら、震える手を誤魔化し誤魔化し、私はグレイ様を研究室に通し、かけて固まった。
どうしよう。部屋が汚すぎる。
言い訳させて欲しい。人が来るなんて、思っていなかったのだ。加えて危なげな研究を危ない微笑みを浮かべながらやっている私の研究室に来たがるような物好きな侍女はおらず、さらには私も研究道具を触られたくはなかったので、普段からこの部屋に私以外の人が入ることは全くなかった。
一応他国ということで部屋の入り口に護衛こそいるが、入って来ることはない。教授と話をするときは、いつだって私の方から訪ねていた。
つまり、汚いのだ。色々と積み重なった書類に本。散らばった紙に、隅の方に溜まった埃。虫は、さすがにいないと思いたい。
実験をする場所だけが、そこだけ別の部屋のように美しく片付いている。心なしか、床の色も違う気がする。
それが尚更他の部分の部屋の汚さを際立てていて、流石にこの部屋には通せないと分かった。
「……どうされました?」
「申し訳ありません、少しお待ちいただけませんか」
「あ、はい、それはもちろん構いませんが、お気になさらないでください。いきなり押しかけたこちらが悪いですから」
悲しいくらいに、全てを察されていた。
これは、恥ずかしい。こんなことなら、もっと片付けておけばよかった。自分では場所が分かるとはいえ、部屋の片付けをさぼってはいけない。教訓として語り継ごう、うん。
「……すみません」
「皆そのようなものです。僕も色々な方の研究室にお邪魔しましたが、ひどいところはひどかったです。男性ばかりですから、脱ぎ捨てた靴下が転がっていたり。あ、くれぐれも内密にお願いしますね」
そう言って悪戯っぽく笑ったグレイ様に、怒りの色は見えない。
悪い人ではないようだ。私を属国から来た女性だと侮る様子もない。少しだけ安心して、けれど私はもう一度頼み込む。
「流石に恥ずかしいので、少しお待ちいただけますか」
「それなら、何日だって。お手数をおかけしてしまい、すみません」
「ありがとうございます。すぐに終わらせますから。すみません」
そう言って部屋に引っ込んだ瞬間、私の限界片付けは始まった。
グレイ様を、あの時折変な匂いが漂ってくる研究室棟の廊下に長い間立たせておくわけにはいかない。片付けるのではない、誤魔化すのだ。
とりあえず本を積み上げてそれっぽく並べ、書類をまとめてそれっぽく積む。順番が違う? 知るかそんなこと。
どうしようもない場所は、布をかけて誤魔化す。とりあえず座れる場所さえあればいいのだ。本と書類がくつろいでいるソファを、人が過ごせる場所にしなくては。
必死で片付けること、10分弱。見違えるようになった、と言えればよかったのだが、かろうじて人間の住む場所になった、以外の何者でもない。けれど、これ以上待たせるのも申し訳なくて、乱れた髪を整え、荒くなった息をどうにか誤魔化しながら、私はグレイ様を招き入れた。
「失礼します」
そう言って入ってきたグレイ様の顔を、横目でこっそりと見る。ものすごく失望した顔をされる覚悟をしていたのだが、明らかに汚い部屋を見ても、その表情は露ほども変わらなかった。紳士だ。
「突然申し訳ありません。ぜひ研究を見せていただきたくて、失礼を承知で参りました」
「それは、構いませんが。……なぜ、私の研究を?」
この学園はそういった研究が盛んで、学校側も費用から指導から、積極的に支援をしている。だから、私は留学先にここを選んだのだが。
学生とは言え、とても高度な研究をしている人もいるし、実際に収益を出している人もいるはずだ。他国の、しかも属国の留学生が趣味でやっている研究なんかに用があるとは思えなかった。
「ずっと昔から、変身薬に興味がありまして。実用性の低さからきちんと研究されている方にお会いしたことがなく、とても優秀な方が研究されていると聞いて、いてもたってもいられなくなってしまって」
「ありがとうございます。……ぜひ、ご覧になってくださいませ」
断るかどうか一瞬悩んだが、私の頭はすぐにグレイ様が持っているカップに持っていかれた。お茶も出さないのは部屋の主人としてどうかと思って一応お出ししたが、私はお茶を淹れるのが大してうまくはない。別に絶望的に下手くそとか、黒い煙が出るとか、そこまでではないのだが、貴族として育ってきたグレイ様の口に合わない可能性は高い。
あと、茶葉が、ソファで本と一緒にくつろいでいたものなのだ。そこまで古いものではないはずだが、少しばかり怖い。
私の淹れたお茶からとにかく注意を逸らしたくて、すぐに承諾する。そして立ち上がって実験をしている場所に向かえば、グレイ様はカップを手放してついてきた。よし勝った。
「……こちらが、今の研究です。資料はこちらに。何かありましたら、いつでも聞いてください」
手渡した書類にグレイ様が目を奪われたのを横目で見て、眼鏡の奥のうっすらとしか見えない目が真剣に文字を追い出したことを確認すると、私は部屋をこそこそと移動する。
そして、さりげなく、例のお茶を回収した。冷めてしまったことにしよう。本来なら代わりのものをお出しするべきだろうが、どうやら何か書類の中に夢中になることを見つけたらしい彼は、こちらを見ようともしない。しれっと回収しても、きっと気付かれないだろう。
それが終わってしまえばやることもなく、とはいえ読みかけの本は全てそれっぽく積み重ねてしまったので読むこともできない。取り出したら確実に雪崩が起こる。
手持ち無沙汰に座っているのももったいなく、私は静かにグレイ様に近寄った。
相変わらず彼の視線は私の資料から離れない。そこまで夢中になられると、少し恥ずかしいような気もする。
私の気配を感じたらしく、彼が少し驚いたように顔を上げた。
「すみません、驚かせてしまいましたか」
「いえ。すみません、質問させていただいても?」
「ええ、もちろんです」
「ここ、なのですが。ここの反応終了を、どのようにして見分けるおつもりですか?」
「え、ああ、この水溶液は、特定の強い性質を持ちますから。こちらの試薬で判断します。反応が終了したら、中和されていた性質が出ますから。えっと、確か反応式が前のページに」
「これですね。ですが、試薬自体の成分干渉はないのですか?」
「あると思っていますので、こちらの紙を使います。少しばかり手間がかかるので主流ではないですが、これなら液体自体に干渉することもありませんから」
「あ、そうですね。ごく昔に使ったことがありますが、不便すぎて忘れていました」
「まあ、少しくらい入れ過ぎたところで、次の反応式で――」
反省している。後悔はしていない。
初対面であるはずのグレイ様を前に、私はあっという間に話に夢中になった。
彼が悪い。聡明な彼は私の研究内容をあの一瞬でほぼ理解して、的確な質問を投げてくるのだ。私も気づいていなかった穴を発見されたときは、さすがに絶句した。嫌味な指摘ではなかったので、ありがたかったけれど。
気がついたら、研究室は薄闇に包まれていた。はっと我に返った私の様子を見て、グレイ様も焦ったような顔をする。
「すみません、こんな時間まで」
「いえ、楽しかったですわ」
心からそう言って、微笑む。教授に見ていただくときは、もちろん楽しいのだが、抑えきれない緊張があった。ミスが、穴があったらどうしようという恐怖があった。
けれどそれがなく、単純に、研究の話をするというのは、想像以上に楽しかったのだ。
「あの、差し支えなければ」
躊躇いがちに、グレイ様が言う。
「また、来てもいいですか」
「っもちろんです!」
思わず食い気味に答えてしまい、グレイ様は驚いたようにびくりと身体を震わせた。意識して気持ちを落ち着かせると、私はきちんと答え直す。
「ぜひ、来てください。楽しかったですから。先程の穴、次にグレイ様がいらっしゃるまでに解決策を見つけておきます」
挑戦的に笑いかければ、その薄い唇が持ち上がった。今度は、笑っていると確信できる。
「ありがとうございます。私の方でも考えておきます」
楽しげに言うグレイ様に、燃え上がった対抗心を隠そうともせず笑う。次にグレイ様がやってくるのが、俄然楽しみになった。
「では、今日はここで失礼します」
そう言って部屋を出て行く地味な、いや落ち着いた色の髪を確認して、私は研究に戻り、かけて片付けを始めた。
まずは片付けよう。話はそこからだ。新しい茶葉も買って、侍女に淹れ方を教わっておこう。
かろうじて人の住処と言えなくもない部屋を、ぐるりと見渡す。
その長すぎる道のりを思って、思わず溜め息が漏れた。
お読みくださり、ありがとうございました!
ここから数話、書き下ろしの留学時代編が続きます。
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