【書籍1巻発売記念SS】試合に勝って
「アイリーン」
「……」
「おい無視するな」
執務机にぐったりと上半身を伏せた状態のヴィクター様を、冷たい目で見つめる。
「仕事中にヴィクター様がそうして私の名前を呼ぶときは、大抵ろくなことがないんですよ」
「心外だな。だが、どうだここらで休憩でも」
手元の書類はある程度片付いていて、少しくらい他のことをしたところで問題なく終わるだろう。私自身少し疲れてきていて、休憩でも挟もうかと思っていたところなのだ。
こういうタイミングを狙ってくるあたり、やはりヴィクター様はよく分かっている。
「分かりましたよ」
「おう」
無言で突き出された手を諦めの目で見つめて立ち上がる。お茶の支度をして戻ってくると、ヴィクター様の机の上には3枚の小さな紙が置いてあった。大体、手のひらくらいの大きさだろうか。
「なんですか、それ」
綺麗な紙だった。上質な素材で出来ているのだろう、見慣れたものより少し厚い。表面には鮮やかな色彩で、美しい文様のようなものが描かれていた。
「ここ最近王都周辺で流行している娯楽だな」
「随分と綺麗なものですが、どう使うのです?」
「それはだな」
重々しく言ったヴィクター様が、私にそのうちの1枚を手渡す。裏と表の両方に絵が描かれているようで、先程は伏せられていた側がちょうど見えるようになっていた。
数字、だろうか。凝った字体で、1、のようなものが描かれている。
「今、俺の手元には2枚の紙があるわけだが」
「はい」
「1枚は、今お前が持っているのと同じものだ。1、と書いてある。もう1枚は違う絵だ。簡単なことだ、俺の持っている紙のうち、1を選んだらお前の勝ち。違う方を選んだら続行。今度は俺が、お前の2枚から選ぶ」
「……理解しましたが、それはただの運勝負ですよね?」
「それはどうだか?」
楽しげに口元を釣り上げたヴィクター様が、2枚持っているうちの1枚を上に突き出す。
「俺はお前のことが大好きなんでな、お前に勝たせてやりたい。というわけで、こっちを引けばお前の勝ちだ」
「……そういうことですか」
2枚の紙をじっくりと見つめながら考えたあと、私はヴィクターの突き出した方の紙に手を伸ばす。
「ヴィクター様の戦略は、私に『俺の愛を疑ったからこうなったんだ』と勝ち誇ることだと推測します。のでこっちで」
「まさか、それで俺の真似をしたつもりか?」
「……似ていないのは自覚しています。引いていいですか」
「ああ」
勢いよく引き抜くと、くるりと裏返す。
「……私を勝たせたいのではなかったのですか?」
「すぐに終わってしまっては面白くないだろう」
美しく繊細な絵柄で書かれた女性。不正解、である。
悔しくなってきた。これは、何がなんでもヴィクター様を負かしたい。私が勝ちたいというよりも、ヴィクター様を負かしたいのだ。
「どうやら乗り気になったようだな?」
「分かりました、休憩で良いですから。そうですね」
私は2枚の紙を扇のように持って、ヴィクター様へと差し出す。
「どうぞ引いてください」
「なんだ、何もやらないのか? てっきり何か仕掛けてくると思ったんだが」
私は、ふっと笑うだけに留める。
その微笑みに何かを察したのだろう、ヴィクター様も少し笑って、私から見て右の紙へと無造作に手を伸ばした。
「……アイリーン?」
「はい?」
私は紙を握る手に全力で力を込めて、ヴィクター様が引き抜けないようにする。
ぴくりと、ヴィクター様の頬が動いた。
「俺は、こっちを引きたいんだが?」
「そうですね」
私は笑顔を浮かべたまま、ひたすら手に力を込める。一部分に力を込めると破ってしまいそうなので、片手で紙を包み込むようにして。
「なるほど?」
ゆっくりと、ヴィクター様が手を離した。そのまま、指先が顎に添えられる。さらりと、銀の髪が頬を滑った。
別に、見惚れてなどいない。
「こうしてお前が頑なにこれを引かせない、ということは、これが正解だと考えるのが順当だが……お前がそんな稚拙な手段を取るわけがない。だからもう片方が正解、いや、俺がそこまで考えることを見越してあえて正解の紙を抑えつけている可能性もあるな?」
「そうかもしれません」
「もしくはその裏まで読んで、やはりこれが不正解の紙か?」
「そうかもしれませんね」
「これ以上の情報を与える気はない、か」
「そうかもしれません」
「……アイリーン」
同じ言葉を、同じように繰り返す私に、ヴィクター様が苦笑する。
私は本気でヴィクター様を負かしにいっているのだ。ここで終わるつもりはない。
「駄目だな、考えるだけ無駄だ。というわけで」
怪しい笑顔を浮かべたヴィクター様が、私の抑えつけている紙へと手を伸ばす。
既視感溢れる笑顔。少し待ってほしい。絶対にあの顔は見たことがある。
そう、あれは、私がライアン様とレオに頼まれて、ヴィクター様に甘えに行った後。より正確に言うと、ヴィクター様に甘えようという計画の最後に私が口を滑らせて、そうして攻守が交代した瞬間。
「アイリーン、俺はこっちが欲しい」
そう言ってヴィクター様は、紙を握りしめる私の指先をそっと撫でた。
人差し指の先、爪の際をくるくると滑った指先は、そのままゆっくりと人差し指を撫で下ろしていく。
上から下へ、時折引き返して、触れるか触れないかの繊細な手つきで。
人差し指が終われば中指、次に薬指。全ての指が終わった後は、指と指の隙間に指先を滑り込ませて、前後に数度往復して。
「っヴィクター様!」
そのくすぐったいような焦ったいような、どうにも色を思わせる手つきに、次第に頬が紅潮していくのが分かる。
最後の意地で、必死で紙を抑え込んだ。
「なんだ?」
全く動じた様子もなく、ヴィクター様は私の手に触れ続ける。
大きな手で私の手を包み込んで、軽く力を入れて刺激したかと思えば、特に感覚の鈍い関節の骨の上に一瞬だけ触れて、すぐに離れて。
手の震えが隠せなくなってきた私にその笑みを深めて、ゆっくりと距離をつめたヴィクター様は、私の前の床へと膝をつく。
「ちょ、ちょっとヴィクター様!? 何やってるんですか!」
「なんだ?」
先程の仕返しとばかりに、ヴィクター様は同じ言葉を同じように繰り返す。
伸ばされたヴィクター様の両手が、私の手をそっと包み込んだ。
そして、まるで騎士の誓いのように。
そっと紙を握りしめた私の手に、優しく唇を落とす。
「――っ!?」
頭が真っ白になり、気がついた時には、その紙はヴィクター様の手に渡っていた。
ちらりと横目で紙を確認したヴィクター様は、肩をすくめてそれを放り出す。
ひらひらと舞って床の上に落ちた紙に描かれるのは、美しい女性の姿。――不正解だ。
「ヴィクター様なら」
立ち上がって紙を拾い上げているヴィクター様に、勝ち誇った笑みを向ける。
「私が何がなんでも手放さない紙なんて、絶対に手放させたくなるでしょう?」
「さすが、俺のことをよく分かっている。……だが」
楽しそうに笑ったヴィクター様は、指先を伸ばすと私の頬をなぞった。
「随分と顔が赤いな?」
「……それは!」
「俺としてはお前のその顔が見れただけで十分だな」
「でも負けは負けです」
「いや? まだ勝負は終わっていないだろう」
きらりと、ヴィクター様の目が光る。
なんだかんだで、この人は本当に負けず嫌いだ。いくら私相手といっても、負けたままではいられないはず。
ふっと笑ったヴィクター様は、拾い上げた紙を背中の後ろに回す。どうやら、私がずっと不正解の紙を目で追っていたのに気がついたようだった。
後ろで紙をかき混ぜているらしいヴィクター様は、どうだ、と言いたげに笑う。一応、確認しておいた方が良いだろう。
「ヴィクター様、仮に、私が次回で不正解の紙を引いたら、もちろんもう片方の紙も見せてもらいますからね」
「どういうことだ?」
「そこで惚けるのは悪手ですよ。とりあえずヴィクター様が卑怯な手を使おうとしていたことは理解しました」
「なんのことだか」
「今からヴィクター様の後ろに回っても良いんですよ。もう一枚の不正解の紙、どこに隠してたんですか? 事前に部屋に仕込んであったのか、もしくは袖の中とか」
「……分かったよ、俺の負けだ」
ヴィクター様の思考はお見通しだ。
私に見えないように紙を混ぜるふりをして、その実こっそりと2枚とも不正解の紙に変える。私が不正解を引いた後は手元の紙を見せないようにして、私の隙をついてもう一度すり替えるだけ。手先が器用なヴィクター様のことだから、平然とやってのけるのだろう。
「どうして分かった?」
「ヴィクター様に常識が通じないのは、今まで散々思い知らされましたので。大人しく規則に縛られているとは思えなかったんです」
「お前が想像以上に俺のことを理解しているようで、なかなか嬉しいな」
「これは、その……というか、そこまでして私に勝ちたいんですか!」
「話を逸らしたな? まあ良い。残念ながら違うな、お前に勝ちたいというよりもお前を負かしたいんだ」
「どの口が私を好きだから勝たせたいって言ったんですか?」
「いつ言ったか? お前が好きというのは常日頃言っているから、どれと言われても全く分からん」
「ヴィクター様!」
はっと我に返って、紙を持っていない方の手で口を塞ぐ。この人の口に乗せられたら負けだ。
「……そうですね」
今度は私から攻めてやろう。守備ばかりでは面白くない。
私は、何事か考えているらしいヴィクター様を上目遣いに見つめる。
「取引をしましょう」
「今度はなんだ?」
ヴィクター様の目が楽しそうに光ったのを見て、私も微笑む。
「私に正解の方の紙を教えてください」
「その対価は?」
「一つ、ヴィクター様の要求を聞きます」
「ほう? 何でも?」
「何でもなんて、そんなわけないでしょう。まず、願いを増やす系の願いは一切禁止です。他の人に迷惑をかけるものも駄目ですし、あまりにも長時間、そうですね、一日以上継続するものは――」
私の注意を目を細めて聞き流しているらしいヴィクター様を睨みながら、私はあえて声を小さくしていく。一番良いのは、ヴィクター様が私の注意をろくに聞いていなかったという言質を取ってから、危険な要求が出た時にそれは禁止したと却下することだ。
そうでなくても、今私が挙げている条件を通り抜けられる要求など、ほぼありはしないのだ。ヴィクター様と私の間で完結して、周りに迷惑をかけず、私に触れないことで、ヴィクター様が私に要求しそうなことなど思いつかない。
そして、私が口を閉じたあと、ヴィクター様は満足そうに笑った。そして、あっさりと一枚の紙を突き出す。
「これが正解だ」
「嘘だったら、要求は聞きませんからね」
「要求なんて、また色気のない言い方だな。お願い、でどうだ? 安心しろ、こんな素晴らしい状況で俺が嘘をつくと思うか?」
嫌な予感が襲いかかってきて迷った瞬間、ヴィクター様が強引にその紙を私の手へと突っ込んだ。柄は、当然、1。
恐る恐る顔を上げれば、とっても良い笑顔のヴィクター様がいて。
「さて、アイリーン、何でも一つお願いを聞くんだったな?」
「語弊のある言い方はやめてください!」
「俺のお願いは一つだ。ヴィクター、と呼んでもらおうか?」
「……呼んでるじゃないですか?」
「違う」
楽しげに目を光らせたヴィクター様は、立ち上がると私の隣に腰掛ける。
私の言葉通り、決して私に触れる様子はない。けれど、何というか、追い詰められた感じが凄い。
「ヴィクター、と。様はいらない」
「そんな、いや……不敬では」
「お前が今更俺に対して不敬を気にするのか? 命がいくつあっても足りないぞ」
「それはそうですが! そういうところが気に入ってるんでしょう」
「ああ、そういうところが好きだ」
必死の逃げ道をあっさりといなされ、黙るしかなくなった私に、さらにヴィクター様が笑みを深める。
「さあ、呼んでもらおうか? 約束は守ってもらうぞ」
私を見下ろしたヴィクター様は、目を細めて要求する。その目が怖い。有無を言わせぬ迫力に満ちた顔に、もう諦めるしかない。
消え入りそうな声で、早口で呟く。
「……ヴィクター」
「ああ」
満足そうに笑ったヴィクター様を、恨みがましく見上げる。もう一度、という要求は無視して、視線を逸らす。すぐに腰に手が回った。
「私に触れない約束です!」
「もう取引は終わっただろう? お前が言ったんだ、長時間続くのは駄目だってな」
「……っ!」
「ほら、アイリーン?」
強引に上を向かされて、羞恥に赤く染まった顔を至近距離から見つめられる。
確かに勝った。ヴィクター様を負かした。けれど。
試合に勝って、勝負に負けたような、そんな気がして仕方がない。
お読みいただき、ありがとうございました!
電子書籍1巻の方も、どうぞよろしくお願いいたします!




