第44話 沈みゆく船に、未練はない
ふう、と息をついて、目を通していた書類を机の上に置いた。
スレニアと、エルサイドガーディナ連合軍の戦争の模様が書かれているそれは、読むのになかなか体力を必要とする。凝り固まった身体を、ゆっくりと伸ばした。
結局ヴァージル殿下は、ガーディナからの同盟の話を呑んだ。今回の戦いでエルサイドの味方をする代わりに、ガーディナは緩やかな自治の体制に移っていく予定、らしい。まさか明日から自治を始めます、などというわけにはいかないだろうが、ゆっくりとエルサイドは手を引いていくことになるだろう。
少しばかり引っかかるような気がするのは、あの時のヴィクター様の話のためか。
本当にエルサイドはガーディナの取引を呑む必要があったのか。ガーディナごと武力制圧する方が、利益は大きかったのではないか。
けれど、そうすることによって多くの血が流れるのは確かだ。侵略の時代は終わり、と言っていたヴィクター様のように、これ以上の戦闘を避け新しい体制を組み上げていくつもり、なのかもしれない。
陛下の体調は未だに良くないらしく、ヴァージル殿下にほとんどの権利が渡っている状態のようだ。こんなことならいっそ、ヴィクター様が姿を現して全権を奪ってしまっても、などと思うけれど、ガーディナのことを思うとそれも言っていられない。
駄目だ、頭が爆発しそう。
もう一度手に持ったそれを、放り投げた。先日届いたばかりの顧客リストを手に取る。こちらの方がまだ楽に読めるだろう。一時休憩だ。
「人に丁寧に扱えと言っておいて、お前は書類を投げるんだな」
「それとこれとは別問題です。これはどうせ私しか読まないんですからいいでしょう」
手に持ったそれから、目を上げずに答える。その瞬間、手から書類が引き抜かれた。
「……ヴィクター様」
目線で、返せ、と要求する。気づいているだろうに知らないふりをして、ヴィクター様は楽しげに笑った。
「そういえばアイリーンも片付けが苦手だったな」
「ヴィクター様と一緒にされるのは不本意ですが、あまり得意ではないですね。場所が分かれば良いでしょう」
「それは常日頃俺が言っていることだが」
「自分の部屋なら好きにしてください。私の部屋だから文句を言っているんです」
「お前の部屋だったら、実質俺の部屋でもある」
「なんですかその暴論」
私の書類をひらひらと揺らしながら、我が物顔にソファにひっくり返るヴィクター様を睨む。返して欲しい。私にとっては大切な書類なのだ。
「戦況を見ていたのか」
「急に真面目な話振りますね。そうです」
「なんか、余裕、なんでしょ?」
「……レオ」
お馴染みの声に窓の方を見れば、綺麗に窓枠に嵌ったレオがいた。
何がどうなっているのかよくわからないけれど、両手両足を使って窓枠の間で器用に身体の均衡を取っている。身体が浮いているのだから、いつ落ちてもおかしくないと思うが、その身体は全く揺らがなかった。
「レオがいると言うことは、ライアンもすぐに来るな」
「……もしかして、いつの間にか、僕はレオの付属品だと思われていたりしますか?」
「私の印象は逆ですね。ライアン様の後ろにレオが付いて回っているという認識です」
「ひどいなあ、アイリーンちゃん。あの時はあんなに素直に俺を頼ってくれたのに」
「レオ。その話、詳しく聞かせろ」
一言言うなり立ち上がって窓枠の方に歩いていくヴィクター様。待ってほしい。絶対に本人に聞かれて良い話ではない。
「いやあ? アイリーンちゃんがジェクター殿下に素直になりたいっていうから、ちょっとアドバイス?」
「レオ!」
「ん? あ、違ったっけ、ジェクター殿下に触ってもらう方法? だっけ」
「レオ黙って」
「こわ! そんな顔しないでよ、だって殿下が言うから。一応、主だし? 逆らえないって言うか」
「アイリーン」
くるりと振り返ったヴィクター様が、じっと私を見つめる。怖い。
「後で、な」
怖すぎる。後でなんなのだ。
その顔を見るに、もちろん悪いことではないのだろうけれど。むしろヴィクター様は喜んでいる。でも、機嫌の良い時のヴィクター様は、それはそれで良くないのだ。主に私の心臓に。
「僕、ずっと疑問だったのですが」
「なんだ?」
「どうしてこの4人が集まると、本題が忘れられるんです?」
「ヴィクター様のせいですね」
「ジェクター殿下が」
「……俺のせいか?」
不満げなヴィクター様が、指先でぴっと私を指す。身体を傾けて避ければ、それすら読み切っていたらしい指先が私を追った。悔しい。
「アイリーンが可愛すぎるのが悪い」
「そうやってすぐに惚気る殿下が悪いです」
「ヴィクター様、時と場合を考えてください。58条が倍くらいに膨れ上がって渡されますよ」
「もしかしなくても、お前慣れてきたな?」
「こう毎日のように言われていればさすがに慣れますね」
それは半分くらいが本当で、半分くらいは虚勢だ。跳ねてしまった単純な心臓を、気づかれないように両手で押さえる。
「ねえ、ところで本題は?」
「まさかレオに言われる日が来るとはな」
「なんか最近、ジェクター殿下俺に冷たくない? いや、最初からか」
「最初からだな」
「ところで本題はなんでしょう!」
叫べば、ようやく終わりのないやりとりが途切れた。ようやく本題に戻れる。というか、もはや何を話していたか忘れてしまった。
仕方がないので、正直に口にする。
「なんの話でしたっけ」
「スレニアの戦況の話だな」
「想像以上に重い話をしていて驚きました」
「まあ、な」
指先を顎に当てたヴィクター様が、もはや壁にかけられるようになった地図に目をやった。
「なんの疑いようもなく、余裕だな」
「先程の資料を見ていても、そうだと思いましたよ」
「殿下に言われて、戦況を見てきましたが」
ライアン様が地図を指さす。
まさか、戦場まで行ってきたのか。信じられない。確かに姿を見ないとは思ったけれど、いくらなんでも人使いが荒すぎやしないだろうか。
「正直ですね、相手になりません」
「だと思いました」
「一周回って、重傷者がほぼいません。スレニア側も、です」
「手加減する余裕があるってこと? 弱すぎない?」
レオの容赦ない物言いに、苦笑する。
「そういう国なんですよ、スレニアは」
「今まで良く生き残ってたね」
「占領したところで、大した利益もありませんし。エルサイドの属国に手を出す国もありませんから」
「それもそっか」
ヴィクター様の手が、とん、と私の肩に乗った。驚いて振り返れば、思ったより近いところにヴィクター様の顔がある。
「嫌か?」
「スレニアとエルサイドの戦争が、ですか?」
「ああ」
「そうですね……もちろんスレニアに知り合いは多いですから、そういう人たちの安否は気になりますが、スレニアという国が潰れかけていることに対してはなんとも。何度も言いますが、私はエルサイドの方が好きなんですよ」
「そう言ってもらえて助かる。お前の方で、スレニアの中に使えそうな人材がいたら教えてくれ。保護するように取り計らう」
「ありがとうございます」
きっとこれがヴィクター様なりの気遣いなのだろう。私が大切に思う人がスレニアにいたら、という。
けれど、そこまでして守りたい人がいない、と言うのも事実だった。いや、この言い方には語弊があるか。今回の件で責任を取らなければならない保守派貴族や、エルサイドに害をなすと判断された人たちの中に、守りたい人がいない、と言う方が正しいだろう。
ヴィクター様もエルサイドも、無実の人間に危害を与えるほど馬鹿ではない。そして私が大切に思う人たちは、この情勢の中でも上手く立ち回っているのだろう。エルサイドに亡命してきた私の家族のように。
さすがに、彼らにはまだ会えていない。ヴァージル殿下との話の結果だ。手紙のやり取りも禁止されているから何も言えていないけれど、あの2人のことだ、それくらいは察しているだろう。
「すぐに、この戦いも終わる。戦いとすら、呼べないものかもしれないが。……早急にスレニアが降伏することを祈っていてくれ」
その言葉は、ちょうど数日後に現実になった。
スレニア降伏の知らせと、ガーディナからの祝勝の式典への招待が私の元に届いたのは、ほぼ同時のことだった。




