第3話 もしかしなくても詰んでいる?
「あのアイリーン様、婚約破棄された後に他の男性とお話されていたんですって」
「え、どなたと?」
「それが、なんでしたっけ……名前も覚えておけないような、なんだか冴えない感じの、少々いまいちな男性だったので」
「そんなことありませんよ!」
殿下の宣言通り世話係なるものに任命され、渋々城に上がった翌日。早速噂になっているのを見かけ、本当は素通りしようと思ったのだが、聞き捨てならない発言を耳にしてしまった。自分の噂に乱入するのは居た堪れないが、背に腹は代えられない。
「あの方は、確かに印象は地味ですが! よく見ると綺麗なお顔をしてらっしゃいますし、思慮に満ち溢れた方ですし!」
「あ、アイリーン様?」
本気で戸惑った声を向けられ、私は慌てて弁明する。
「い、いえ。彼は体調を崩した私を介抱してくださっただけで、そういう仲ではございませんわ」
よく、考えれば。
殿下の正体を明かすことは、殿下自身に口止めされてしまった。しかも、話せば不敬とまで脅された。半分くらいふざけてはいるのだろうが、殿下の正体を明かすと終わり。
とはいえ、そんな重要な情報を隠し続けていたことが知られたら、私がこの国で裏切り者扱いをされるかもしれない。だから、私が殿下の正体を知っていると知られたら終わり。
しかし、このまま正体を知られぬまま行くと、この国に対する殿下の評価が底辺を彷徨うことになる。この国に深い愛着があるわけではないが、一応家族もいるし、友人もいる。だからそれは、見逃せない。
しかも、普通に殿下(仮の姿)の悪口を言っているので、一歩間違えたら、不敬。つまり、殿下の正体に誰も気づかなくても、終わり。
私、詰んでない?
そう思いつき、昨夜、散々考えた作戦がこれだ。
「素敵な方でしたよ? まるで、皇太子のヴィクター様のような」
私が正体を知っていると悟られないようにしながら、不敬を防ぎつつ、彼の正体に気づいてもらう。これしかない。
「何をおっしゃってるのですか? ヴィクター様はもっと素敵な方ですわ」
お願い、やめて、不敬。他ならぬヴィクター様の話をしているの私は!
「いえ! そういう言い方はあまりよくないと思いますわ!」
普通に会話が成立していることに、少し驚く。
婚約破棄された公爵令嬢、かつ帝国の皇太子の世話係となれば、どれだけ奇異の目で見られるかと思っていた。もともと世話係というのは、もしかしたら玉の輿もありうるということで人気の役割だったが、私自身には婚約破棄という汚点がある。嫉妬されるか、軽蔑されるか、遠巻きにされるか。
そんなことを想像していたのだけれど、想像以上に、普段と変わらない態度に驚いた。けれど様子を見るにつれて、納得した。
皆、なかったことにしたいのだ。究極の来賓がいる中で自国の王太子がやらかした過ちを、見て見ぬ振りをしている。
さらにいえば、こんな死ぬほど忙しい時期に、さらに王太子の婚約者の変更などという面倒な手続きをしたくないのだろう。今は、王太子の婚約者の座は宙に浮いていると言ったところか。きっと本人たちだけが、新婚気分で楽しんでいるのだろう。
そして帝国側も、面倒を避けるためにその芝居に乗ってやっているのだろうか。殿下の真意はよくわからない。
けれどそれは気にすることもない。今私がしたいことはただ一つ。
私は、できるだけ穏便に帝国へ逃げたい。だからそのために、自国からも帝国からも、不敬を、何がなんでも回避しなければならないのだ。
「すみません、つい興奮してしまいました。あの方を地味眼鏡と仰らないことだけ、お願いいたしますわ」
「……まさか、アイリーン様はその話をなさるために私に?」
「ええ。どうしても聞き流せなくて、失礼とは存じましたが。申し訳ありません」
「い、え……」
これで1人目。こうして少しずつ、不敬の芽を摘んでいくしかない。その途中で誰か、気づいて欲しい。私1人が背負うには重すぎる。
彼女の元を離れ、ゆっくりと客間に歩いていく。その途中で、再び殿下が話題になっているところを見つけた。
「だって、地味眼鏡で」
「違いますわ! 一見そのように見えますが、深く関わっていくにつれて、あの方の懐の深さや、思慮深き皇太子と謳われるヴィクター様のようなそのお考えの深さにお気づきになるに違いませんことよ! 浅慮によって彼を悪く言うのは、得策ではないと存じます!」
「アイリーン様?! は、はい」
「ご理解いただけました?!」
「……っはい!」
呆然と私を見る2人の令嬢に背を向けて、私は城を歩く。
◇
そうして、冷や冷やしながらもなんとか乗り切っていた数日後。
噂をしている様子の令嬢数人を見かけた私は、大股で近寄った。私と殿下が会っていた姿は、一応介抱してもらっていたという設定にはなっているが、色々な人に目撃されていたらしく。なんであんな地味眼鏡なんだとか、あのアイリーン様と地味眼鏡は釣り合わないだとか、ちょっと信じられないレベルの不敬が飛び交っているのだ。本当に、心の底から、やめてほしい。怖い。寿命が何年あっても足りない。
そもそも殿下の変装だって、変身薬を使っているとはいえ、顔はほぼ変わっていないのだ。
私が初めて会った時には顔まで変えていたが、拒否反応が恐ろしくて無理矢理やめさせた。だから、見る人が見れば彼の正体には気づくと思ったのだが。今のところ、気づいている人には出会えていない。
そういうところも含めて、きっと殿下は試しているのだろう。
風に乗って、彼女達の話し声が届いてくる。
「アイリーン様、もしかしなくてもあの方のことを慕っていらっしゃるのでしょうか?」
「あれだけ必死に噂を訂正なさっているんですもの、きっとそうですわ!」
「婚約破棄された日に介抱された方に恋に落ちる……まるで物語のようで素敵ではありませんこと!」
ちょっと待ってほしい。私が言いたかったのは、断じてそういうことではないのだ。
「違いますわ!」
「あら、アイリーン様。ごきげんよう」
「ごきげんよう。なんだか、違いますわ、と聞くとアイリーン様を思い出すようになってしまいました。最近で何回聴いたかしら」
「ごきげんよう。ではなく、どうして私があの方を慕っているという話になるのです?!」
「違いますの? あれだけ必死に庇ってらしたのですから」
「違いますわ! ただ私はあの方の本当の姿をお伝えしようと」
そこまで言いかけて、黙る。流石にこれ以上言及すると終わりか。正体を明かした扱いになるのか。
「素敵ですわ! きっとアイリーン様の瞳の中に映るあの方の姿は、さぞ美しくていらっしゃるに違いありません」
「別に、お慕いしているわけでは」
「あら、照れていらっしゃるのですか?」
そうじゃない!
内心の全力の否定を顔に出さないように気をつけながら、曖昧に笑う。色々と不本意な方向に噂が広がってしまった。殿下の機嫌を損ねたらまずい。即不敬コースだ。それだけは避けたい。
けれど、今の私が否定したところで、彼女たちは聞く耳を持たないだろう。
「今度、お会いしたいですわ」
あなたが会いたがってるのはヴィクター殿下だよ!
全力で言ってやりたい気持ちを抑え、微笑みながら、2人から離れた。それから殿下の部屋に行くまでの間、耳にすること何十件。
「アイリーン様、すっかりあの地味な方を慕っておられるのね?」
「アイリーン様があんなに頬を紅潮させてお話になられるの、初めて見ましたわ」
「ベタ惚れ、ですのね?」
うふふ、と楽しそうな笑い声が聞こえて来る。
いつの間にか、私は地味眼鏡のことが好きで好きでしょうがない公爵令嬢になっていた。どうして。本当にどうしてこうなった。
殿下の部屋に辿り着き、軽く扉を叩いて様子を窺ってから入室する。
「おー、アイリーン」
「殿下」
今日は公務はまだらしい。変身薬を飲むことなく、だらりとソファに身体を投げ出した殿下が、こちらにゆるりと手を振った。
すらりとした長身。眼鏡で覆われていた目は美しい青。髪と同じ銀糸の睫毛が、その瞳に深い影を落としている。相変わらずの美貌と、それを無駄使いするようなだらしない姿勢に、変わっていないなと苦笑する。
「殿下。先ほどから信じられない噂を耳にしているのですが」
「俺とアイリーンが恋仲というやつか?」
「色々と語弊があるようですが、殿下ではなく地味眼鏡の姿の殿下です。そして恋仲ではなく私の一方的な片想いです」
「揶揄っただけだろうが。それくらいは分かっている」
「でしたら、少しくらい慌てたらどうでしょうか」
「なぜ?」
なぜも何も、婚約破棄された公爵令嬢に想いを寄せられているなんて噂が広がったら、それこそ面倒なことになるだろう。彼の望んでいた視察も、目的とは異なった形になるはずだ。
私はこれでも、一人歩きした噂を申し訳なく思っているのに。
何か問題でも、という顔をして寛ぐ殿下に、申し訳なさを通り越して腹が立ってくる。
「なぜも何も」
「アイリーン」
ほら、というふうに手招きする殿下に、呆れた。
いつもこの人はそうだ。こちらの感情を掻き乱すだけ掻き乱して、本人は飄々としたもの。強引な話題転換と、それを可能にしてしまう何かが、この人の腹が立つところですごいところでもある。
「失礼します」
ゆっくりと近寄って、前のように彼の手を取った。
皮膚の色、心拍数、水分量、その他色々。
触れたり眺めたり、時には耳を押し当てたりしながら、簡単な健康観察をしていく。国にとって大切な身であるだろうに、いつだってこの人は自分の健康に無頓着だ。それでいてどうにか生活を送れていたのだから丈夫ではあるのだろうが、見ている方は気が気ではない。
留学時代、そうして構ってしまったのがいけなかった。完全に、主治医のような扱いをされている。私は変身薬には強いとはいえ、あくまでも趣味の研究に過ぎないのに。
目を上げれば、静かに目を閉じた殿下の綺麗な顔。黙って目を閉じていればこんなに綺麗なのにと、腹が立ったので軽く肌をつついた。うっすら開けられてこちらを見た瞳も、すぐに閉じられる。
こんなふうに、全てを私に預け切って。身体の力を抜いて、完全に信頼しているというように目を閉じて。時折、悪戯な手が私に触れて。
こういう触れ合いを、なんとも思わずにできてしまうのも、この人の凄いところなのだろう。
少しだけ熱を持った頬を冷ますように、殿下の身体から離れた。
「まあ、今のところは特に変身薬に関する不調はないようです。ですが、私が分かるのはあくまでも変身薬の部分だけですので、その他は――」
ぐっと腕を引かれ、私はバランスを崩す。為す術もなく殿下の上に倒れ込んだ私をあっさりと腕の中に抱きとめて、殿下は私の肩に顔を埋める。
「疲れた」
「なっ、離してください?!」
「良いだろう、世話係なんだから」
「そういう世話はしないと最初にお伝えしました!」
「何、そういう展開になると思ったのか」
「っ違います!」
「俺のことが好きで好きで堪らないのでは?」
「た、ただの噂ですし、本当の殿下じゃありませんから!」
「そのくせ顔が赤いが」
「これは、その、とにかく違うんです! 疲れたなら休んでください!」
最初は全力で抵抗したが、決して腕の力を緩めようとしない殿下に、抜け出すのは無理だと悟った。
今は婚約者もいないし、抵抗するだけ無駄だと身体の力を抜けば、満足したようにふっと微笑む気配がした。そのまま腰に手が回される。
唖然とした顔でこちらを見る側近の人に申し訳なくなる。留学時代の同級生だったと、説明しておかなければ。それも知らなければ、本気で不貞を疑われかねない。
ゆっくりと規則正しい寝息が伝わってきた。かつてのように、本気で寝てしまったようだった。
こうなった殿下は、本当に起きない。何をしても起きない。私の研究所のソファで爆睡する殿下の対処に、酷く困ったのを今でも覚えている。
そして私も、それが変身薬の副作用のせいだと分かっているから、何もできない。何もできないことを知っている殿下は、さも当然のように私の近くに陣取って寝始めるのだ。
そうして、こうして何もかもを私に預けている彼の姿が、満更でもないなんて、本人には口が裂けても言えないけれど。
なんだか本当に接待係のようなものになってしまったと思いながら、私は置いてあった本を手に取る。完全に私の趣味の本で、笑ってしまった。ここまでこの人は、計算済みらしい。
熱を持った頬を冷ますように、そしてその理由を考えないように、私は手に持った本に視線を落とした。