第28話 おかえりなさい
「……」
震える声を必死で押さえつけ、精一杯の微笑みを作って、もう一度繰り返した。
「おかえり、なさい」
ぴたりと動きを止めた彼に私の予想が合っていたことを確信する。腕を掴むと、引きずるようにして2人の部屋に向かって歩いた。本来なら私程度の力で動くわけはないのだから、どうやら素直について来てくれているようだった。
勢いよく扉を開け、すぐに閉める。
ばん、と扉がぶつかる音は、想像以上にうるさく響いた。
くるりと後ろを向けば、ちょうど彼が、その鎧を脱いでいるところだった。
揺れる銀糸。美しい青の瞳に落ちるのは、繊細な銀の睫毛。
「ヴィクター様」
「……その、久しぶりだな」
その気の抜けた挨拶に緊張が緩んだ瞬間、私は手を振り上げていた。
ぱん、と乾いた音が、室内の空気を揺らす。
赤く腫れ始めている頬を、何があったか分からない、と言った表情で呆然と押さえているヴィクター様。その姿を見た瞬間、駆け出していた。
抱きつく、と言うより、体当たり、と言った方がいいかもしれない。
ほとんど攻撃をするようにヴィクター様にしがみついた私は、溢れる涙を抑えようと必死だった。抑え切れなかった嗚咽が、小さく響いた。
「……アイリーン」
「私が、私がどれだけっ……! こんなの、いくらヴィクター様だって、酷すぎです!」
「……ああ」
「酷いです! 最低です! 絶対に、許せません」
ぐしゃぐしゃになっているであろう顔を見られたくなくて、私はヴィクター様の胸に顔を埋める。
くぐもった声で、私は啜り泣く。
「あり得ません。やりすぎです。こんなの滅茶苦茶です」
「そう、だな」
「無事で、よかった……っ」
最初は遠慮がちに、やがて力強く。
私の背をゆっくりと撫でていたヴィクター様が、耳元で囁いた。
「ただいま」
その声にいっそう激しく泣き出した私を、ヴィクター様はただ黙って抱きしめていた。
◇
「その、落ち着いたか」
「はい。まあ、一応」
そうして抱きしめられているうちに、ゆっくりと感情は落ち着き。時折鼻こそ啜るが、どうにかこうにか泣き止んだ私は、少しだけ距離を取るとヴィクター様を見上げた。
あまり、変わっていなかった。当然と言えば、当然かもしれない。私が勝手に長く感じていただけで、離れていた期間はそう長くもないのだ。
「事情を説明していいか」
「ある程度は察したと思いますが」
「まさか、見抜かれるとは思わなかった」
「ヴィクター様もスレニアにいる方々も、厳重警戒対象だったあの2人に遅れをとるわけがないでしょう。あの人たち、生粋の馬鹿ですし」
「馬鹿」
「馬鹿以外の何者でもないでしょう」
ヴィクター様から離れると、勢いよくソファに座った。
無言で手を伸ばすと、察したらしいヴィクター様が隣の部屋へ消えていく。しばらくして戻ってきたヴィクター様の手には、湯気を立てるお茶が握られていた。
受け取ったそれを、無言で飲む。
うん、苦い。とてつもなく苦い。
見た目から察してはいたけれど、どうやら加減というものを知らないヴィクター様は、大量の茶葉を突っ込んだらしい。少ないよりは良いだろう、という感性の持ち主だから。
「苦いです」
「……悪い」
「美味しくないです」
「仕方ないだろう、初めてなんだから」
「初めて」
それもそうか。皇太子たるこの人にお茶を淹れさせたのはきっと私が初めてだし、自分のために作るような人でもない。欲しくなったら、無言で私に要求するのだ。
「全然、全く、ほんの少しも、美味しくないですけど」
「そこまで言うか」
「これで、許してあげます」
温かいティーカップを、両手で包みこんだ。
「それで? 私に何も知らせなかったのは、あの式典の場で事実を私に伝えることで、ヴィクター様の死を確かなものと信用させるためと、私が暗殺に関わっていないことを多くの人間の前で示すためですか?」
「……そうだな」
「あの演技を求められても間違いなく無理ですし、それがかなり利益の多い策であることは理解しました。そのために、私だけをスレニアから帰したことも理解しました。あの時私に伏せていたのは、この策だけですか?」
「ああ。本当に、これだけだ」
じっと、ヴィクター様の目を見つめる。その目が逸らされないことを確認して、真っ直ぐに私を見ていることを確信して、私は頷く。
「どうやら、本当のようですね」
「信頼、ないな」
「当然でしょう。ですが、肝心のところが私にはよく分かっていないんですよ。ヴィクター様は、どうしてまた死んだふりなんて狂った……いえ頭のおかしい……いえありとあらゆるところに度を超えた迷惑と心配をかけまくるような真似を始めたんですか」
「文句を言いたいなら、言い直すふりなんてしなくていいぞ」
「文句も説教も愚痴も不満も言いたいこともありますが、事情を聞いてからにします」
「……怖いな」
ぼそりと呟いたヴィクター様が立ち上がると、隅にあった見慣れぬ荷物を持ってきた。
ソファの横に置かれた小さなサイドテーブルに、取り出した紙を広げる。どうやら、手紙のようだった。
「……まさか、ここまで想定してたんですか」
「まあ、一応」
私の動揺も怒りも、全てヴィクター様の手のひらの上だった、というところか。
もちろん怒りこそ湧くが、嫌な感じはしなかった。いや、嘘だ。嫌だし、普通に腹が立つ。けれど、これは私自身が望んだことでもある。
『ヴィクター様の駒の一つとして扱ってもらえることを誇らしくすら思います』
今回私は、駒として素晴らしい働きをした。ヴィクター様の死が真実であることをありとあらゆるところに確信させ、加えて私自身の潔白もほとんど証明できた、と思う。
あまり思い出したくはないが、あの時の私の反応は流石に演技ではないと分かったはずだ。私は役者ではない。むしろ演技をしたり、感情を隠すのは苦手だ。そしてヴィクター様も、城に仕える他の人も、それを理解しているからこそ、こういう策に出たのだろう。
「ありがとうございます」
「なんだ、突然」
「どうやら、『ただただ愛され、守られるだけのお飾りの皇太子妃』ではなく、一応戦友のようなものとしても扱ってもらったようなので」
別に、私に真実を明かす必要なんてなかったのだ。
「あの時ヴィクター様がすぐそこにいたのは、すぐに、私にヴィクター様の死が嘘だと伝えるためでしょう?」
「そうだな」
「私がただの駒なら、最後まで黙っていればいいんです。私はただの属国出身の公爵令嬢で、ヴィクター様がいなくなれば後ろ盾も何もありません。私にできることなんてたかが知れています。私には本当のことを伝える必要なんて、どこにもないんですよ」
「なくはないだろ。頼りになる。意見を聞きたい。それでは駄目か?」
「駄目なわけ。分かって言っているでしょう。だから、嬉しいんです」
小さく笑った。
「危険から遠ざけるため、私を傷つけないため、こっそりと本当のことを伝えて城で守るのでもなく、ただ駒として利用するのでもなく。私の価値を認めて利用した上で、これからの作戦に加えてくださったことが、何よりも嬉しいんです」
「……良かった」
ぼそり、と呟いたヴィクター様が、空を仰ぐと片手で顔を覆った。
「正直、相当傷つけると思っていた」
「傷つきはしましたが」
「そうではなく。今回の策を黙っていたことに、だ。お前に演技させることも考えたが、それはお前の能力では無理があると判断したから黙っていた。その選択が、傷つけるか、と」
「悔しくはありますが、事実ですから。自分の実力を過信するつもりはありません。能力が不足しているのを自覚した上で挑むのは、勇気ではなく無謀です」
「本当、お前を選んで正解だったよ」
ヴィクター様が、すっとお茶に手を伸ばす。
喝采をあげる内心を抑えつつ、あえて黙って見守っていると、一口啜ったヴィクター様が咳き込んだ。
「っ不味い」
「だから言ったじゃないですか」
「アイリーン」
遠回しな要求に顔を顰めて見せつつ、私は立ち上がる。淹れ直したお茶を、ヴィクター様の前に置いた。
一口飲むなり満足そうな表情を浮かべたヴィクター様が、先程の手紙を指さす。
「続きを話していいか?」
「ああ、脱線させましたね、すみません」
「いや。俺が、死んだふりなどした理由だが」
ゆっくりと語られ出した話に、私は黙って耳を傾ける。




