第26話 寂……いや、暇ではあった
「私、残念ながらそんなに騙されやすい人間じゃないんですよ」
「……」
「ガーディナ云々はもちろん事実でしょうが、色々と無理があると思わなかったんですか、その理屈。ヴィクター様がヴァージル殿下に遅れをとって、私にヴィクター様暗殺の嫌疑がかかるだなんて、本気で思ってるんですか?」
「……だが、俺が万が一殺された時は」
「『俺が、スレニア如きに遅れをとると思ってるのか?』でしたっけ?」
「…………前も言ったが、生まれる国を間違えたなお前は」
「お褒めに預かり、光栄ですわ」
くすり、と笑った。
素晴らしく気分がいい。ヴィクター様が人を掌の上で転がして遊ぶのが好きだと知った時には、とんでもなく良い性格をしていると思ったが、確かに癖になるかもしれない、これは。
少しばかり調子に乗ってしまった自覚があるので、真面目な口調に戻す。
「怒ってないですよ。私が、知るべきではないとヴィクター様が判断したことでしょうから」
「……まあ、そうだな」
「私を巻き込まないために何も知らせないのではなく、私に何も知らせない方が、事がうまく運ぶと思った、ということでしょう」
「悪い」
「どうして謝るんですか。それならば、怒るつもりはありません。むしろ、ヴィクター様の駒の一つとして扱ってもらえることを誇らしくすら思います」
「……強いな、お前は。普通利用されたと知ったら怒るだろう。それが理にかなった判断だと理解していても」
「利用されても良いくらいには、ヴィクター様の策を信頼しているということです」
敵わない、と零された言葉が嬉しい。日頃、私がヴィクター様に思っていることだから、尚更。
「ヴィクター様の張り巡らせた計画を理解できる日を、楽しみにしてますよ」
「あっと驚かせてやるよ」
「それは楽しみです」
「ところで」
「はい」
「自分で言い出しておいてなんだが、帰したくない」
「……何を言ってるんですか」
「抱き枕のないスレニアに価値はない」
不機嫌そうに呟いて、私を抱きしめるヴィクター様の腕に力がこもる。
「結婚してから、会わない日はなかっただろう」
「そうですね」
「だから、帰したくない」
「……呆れて良いですか」
「喜んでくれると助かる」
とん、とヴィクター様が私の肩を押して、2人の間に少しだけ間ができる。
「アイリーン」
「はい」
「キスしていいか」
「…………普通それ聞きます?」
「了解した、していいんだな」
「いや、ちょっとまっ」
その先は、ヴィクター様の口の中に吸い込まれた。
最初は、触れるだけ。段々と深くなっていくそれに、必死で息を吸う。
「ヴィクター様」
苦しい息の隙間で、どうにか言葉を絞り出した。
「なんだ」
「一つ確認させてください。今回の策、ヴィクター様に、危険はないんですね?」
「……こんな時に、そんな情緒のない話するか?」
「ないんですね?」
何を情緒のないことを、と言いたげに、ヴィクター様が私の唇を塞ぐ。それ以上の追求の言葉は、全てヴィクター様の口の中に溶けて消えた。
ヴィクター様の手が、縋るように私の腕を掴んだ。いつもよりも少しだけ強い力に思わず眉を寄せた私の表情に気がついたのか、その力がふっと緩む。
甘やかな触れ合いの中、ゆっくりと次の1日が始まる。もう今朝にも出発だと分かっているからこそ、その熱が名残惜しかった。
ヴィクター様に見送られ、私の乗った馬車はエルサイドに向かって勢いよく走り出す。来たばかりの道を引き返すのもなんだか複雑な気分だが、今回ばかりは仕方がない。
そうして、私の短すぎるスレニア滞在は終わった。
◇
ヴィクター様のいないエルサイドは、なんというか、平穏無事かつ平和だった。
問題といえば、私について帰って来ていたレオが時折女性に追いかけ回されている姿を見るくらいで、だがそれも些細な問題だ。
突然視察に駆り出されることもなく、雑すぎる報連相で急に呼び出されることもない。
気がついたら2人の部屋に見知らぬものが転がっていることも、せっかく掃除してもらったのにすぐに床中に書類が散乱することもない。
すぐに言い合いを始める2人に悩まされることもないし、不憫すぎるライアン様に心を痛めることもない。
勝手に抱き枕にされることも、完全にヴィクター様の気分で散歩に付き合わされることも、私の反応を面白がって揶揄われることも、ない。
夜眠る前に必ずかけられていたおやすみ、の声も、気まぐれに私に触れる体温も、アイリーン、と私の名前を呼ぶ声も、ない。
「……あーもう!」
いつも通り仕事をしているだけだ。別に変わったことはない。
その内容も別に煩わしいものでもなく、疲れているわけでもない。ない、のに。
「寂しくないって言ったら、嘘、かもね」
あの時、帰りたくない、と駄々をこねたら、私はまだスレニアにいただろうか。
しても意味のない想像をしてしまうくらいには、堪えているのだろう。
「それ聞いたら、ジェクター殿下、泣いて喜ぶんじゃない?」
「……レオ。ノックはして」
本当に、この城にはノックをせずに部屋に入ってくる人が多すぎる。秘密も何もあったものではない。本気で勘弁してほしい。
「ほんと、アイリーンちゃんって殿下のこと大好きだよね」
「……悪い?」
「わお、素直。妬けちゃうな」
このひねくれた返事が素直だと思われるほど、私はヴィクター様に対して素直ではなかったのだろうか。いや、間違いなく、なかった。恥ずかしくて、態度にも出せなかったし、言葉にもできなかった。
少しだけ、後悔した。
「なんか、意外と結構しっかり寂しがってる?」
「そう、ね」
「それくらい、ジェクター殿下にも素直になったら?」
「……レオには言われたくないわ」
「なんで?」
「レオも、一途に誰か愛したらどうなの? 花から花を渡り歩くんじゃなくて」
「なぜ?」
その声が少しだけ冷えているように思って、私は目を通していた書類から顔を上げる。
「なぜって、そう言われても」
「1人を愛したら、失った時に辛いでしょ? だったら、誰も最初から愛さない方が楽じゃん」
「……」
レオは、窓枠に寄り掛かるようにして立って、外を見つめていた。肩の辺りまで伸びたクリーム色の髪が、さらりと揺れる。
「だからね、俺はジェクター殿下やアイリーンちゃん、苦労性先輩のことなんて、全然、少しも好きじゃないんだよ」
「……そう」
「うん。ジェクター殿下の行動力には呆れるけど、それ以外は女の子も環境も充実した悪くない職場だからここにいるだけ。でもまあ、俺は金で雇われてここにいるわけだから? 解雇されたら普通に離れるし、それに対して別になんとも思わないんだけど」
その薄い水色の目が、すっと細められるのを見た。唇が、柔らかな弧を描く。
「なんか、つまらないなって」
「……」
「ジェクター殿下も苦労性先輩もいないのが、こんなにつまらないなんて、ちょっと意外だったかも」
そう呟くレオの表情は、その顔を窓の外に傾けてしまったから見えない。けれどその声音は、温かいようで、戸惑っているようで、いつものレオとは少し違うように思う。
「レオ」
「ん?」
「私は、レオのこと、それなりには大事に思ってますよ」
「……ジェクター殿下に聞かれたら、殺されそう」
楽しげに笑ったレオが、ふわりと飛んで窓から離れる。そのまま手を振って、ひらりと私の部屋から出て行ってしまった。
相変わらず神出鬼没というか、その気まぐれっぷりは相変わらずだ。
そんなこんなで、特に変化のない日常は過ぎていき。
ヴィクター様のいない寂しさ、いや少しばかり残念に思わなくもない気持ちを抱えつつ、仕事をこなす日々。繰り返しの仕事に飽きてきたころ、次の大きな仕事が私のもとへ回ってきた。
「……式典?」
渡された資料を、ぱらりとめくる。
民の前で行われる、春を寿ぐ宴。ヴィクター様がいない今回は、私が代わりに出ないといけないようだった。面倒そうな部分もあるが、この寂……暇を紛らわすことができるのなら悪くはない。
忙しくなりますよ、なんて言われたけれど、嵐のような誰かがいつだって滅茶苦茶な忙しさを持ってくるので、正直大したことはなかった。寂……余計なことを考える余裕すらあった。
そうして迎えたその日は、快晴だった。




