第21話 分かっては、いる
「どうして、こんなに部屋が狭いんだろうな」
「……」
明らかに4人が入る大きさではない、その部屋。
ヴィクター様が事前に予約していただけあって、別に粗末な宿と言うわけではない。むしろ逆だ。
こういった暮らしに慣れていない私のために、精一杯普段に近い環境を用意してくれたのだとも思う。
「どうして、俺は新婚旅行で男2人と同じ部屋に泊まっているんだろうな」
「ついに新婚旅行って認めましたね」
「何のことだ?」
「視察じゃなかったんですか?」
「……視察だ」
「もはや誤魔化そうとしても手遅れだと思いますよ」
ライアン様は、部屋の隅で小さくなっている。僕が使う場所は極力減らします、と宣言した彼は、先ほどから部屋の小さなくぼみにはまって出てこようとしない。
「……すみません」
「ライアン様、もう良いですから出てきてください。誰も本気で怒ってませんよ」
「ライアンが出てきた時点でこうなる覚悟はしていたからもういい。ただ単純に男2人と過ごす新……視察を悲しんでいるだけだ」
「今新婚旅行って言いかけましたよね」
「さあ?」
「まあ、苦労性先輩らしいんじゃない?」
これはこれで、一周回って楽しくなってきたところすらある。
何より、部屋の隅でカビが生えそうな雰囲気を漂わせているライアン様が不憫で仕方がない。
その人の良さは、性根が捩じくれた誰かさんが決して持ち得ない美点でもあるのだから。
「……すみません。ありがとうございます」
その言葉とともに隅からもそもそと出てきたライアン様は、それでもやはり壁の側で小さくなっている。
どうやって寝るのだとか、着替えはどうなるのだとか。元々協調性のない2人が、想定通り、散々揉めた挙句に、どうにかこうにか全員眠りについた。
はず、だった。
ぱたん、と扉が開いた気配に、ふっと意識が浮上する。
早朝なのだろう。瞼の裏が、うっすらと明るくなっていた。
何か、衣擦れの音。言葉までは聞き取れない、押し殺した話し声。
その声が間違いなくヴィクター様のものであると確信してから、私は静かに身体を起こした。
「ヴィクター様」
「アイ、リーン」
少しだけ疾しいことがあるかのような。
普段私を呼ぶ時に比べて、ほんの少しだけ強張った声に、私は嫌な予感が現実になったことを知った。
「どこへ行ってたんです?」
「いや、少しばかり、散歩に」
「剣まで持って、ですか?」
戦闘や激しい運動のために作られた、軽装ではありながらしっかりとした服。背負われた荷物に、しっかりと腰に下がっている剣。
ちょっとその辺に散歩、という格好ではないのは確かだ。
「……」
「新婚早々、浮気ですか?」
「は!? そんなわけ」
「そんなわけないじゃないですか。どこに剣持って女に会いに行く男がいるんです。冗談ですよ、それもわからなかったんですか?」
「……怒っているか?」
「いえ。どうして、私は新婚旅行で夫以外の男と2人きりで同じ部屋に泊まっているんだろうな、と思っただけです」
「……悪い」
ヴィクター様の隣で、身体を強張らせているライアン様。彼も、ヴィクター様と同じように、しっかりとした格好をしていた。
今起きた、とばかりに身体を起こしているレオ。けれど、レオもどうせ知っていたのだろう。同じ部屋に寝ていて、人が起きた気配に気がつかないほどレオは鈍感ではない。
「どうせ視察でしょう? 理解してますよ、昨日からヴィクター様、気がかりなことがある様子でしたし。夜、確認しに行っていたのでしょう?」
「……」
「沈黙は肯定とみなします」
「……ああ」
短い肯定に、ふっと息をついた。
「悪い」
「勘違いしないでください」
やり場のない怒りをどうして良いかわからず、私は布団を強く握りしめる。
「私は、置いていかれたことに怒っているわけでも、新婚旅行中にヴィクター様が視察をしたことに怒っているわけでもありません。もともと、これは視察ですし。どこまで本気だったかは分かりませんが」
「……」
「どうして、私にだけ何も言わなかったんですか」
堪え切れず、声が揺れた。
「連れて行かなかった判断については何も言いません。私は戦力外どころか足手まといです。無理についていくつもりもありません。でも、事情を話すことくらいはできたんじゃないですか? それができなくても、少し気になることがあったから視察に行ってくる、の一言を言うことさえできなかったんですか!」
「……悪い」
「……っ」
分かっているのだ、本当は分かっている。
ヴィクター様が、私がこの旅行を楽しめるように、忙しい公務の隙間を縫って準備をしてくれていたことも。
そんな新婚旅行に、政治的な、仕事の云々を持ち込みたくなくて、私に余計な気を揉ませたくなくて、黙っていたことも。
分かっている。そういう人なのだ。
「私は部外者ですか。私には何も知らせず、ヴィクター様の作り上げた平穏の中で過ごしてほしいと、ヴィクター様はそう思ってるんですか!?」
「……」
「ただただ愛され、守られるだけのお飾りの皇太子妃になると思って、私を選んだんですか!? もしそうだとしたら、私は、ヴィクター様との婚姻を後悔します」
「……な」
「アイリーンちゃん。言い過ぎ」
緩やかに、レオが嗜める。
分かっている。分かっているのだ。
今回の行動は、ヴィクター様なりの私への気遣いだ。分かっているのに。
昔から、私はずっと蚊帳の外だった。
私の婚約者を決めるときさえも。私はいつだってその話し合いには入れず、決まったことをただ決定事項として伝えられるだけ。そこに私の意志や考えは入らない。
私のためだと言って、私には何も知らせぬまま、全てが決まっていく。
『それが悪いと言うつもりもありませんし普通だと思いますよ。でも私は、それが嫌だったんです』
かつて、ヴィクター様に言った言葉。
それが普通なのだろう。貴族の家に生まれた女性は、結婚し、子供を産み、社交をして生きていくことが求められる。政治的な難しいことは全て男性に任せておけばよくて、妻となった女性はその決定に従うだけ。普通だと、諦めていたつもりだったけれど。
期待していたのだ。もしかしたら、ヴィクター様なら、と。
私を蚊帳の外に置いて何もかもを隠し、決まったことだけを指示するのではなく、私に意見を求め、私を対等に扱ってくれるのではないか、と。
「……ごめんなさい。言い過ぎ、ました」
つん、と鼻の奥が痛んだ。
分かっている、最低だ。勝手に期待して、勝手に裏切られたと怒って、私のためにと用意してくれた新婚旅行をこうして滅茶苦茶にしてしまって。
ここで泣いたら、最悪だ。ヴィクター様ばかりを悪者にしてしまう。分かっているのに。
必死で表情を見られまいと俯いて、けれど堪えきれなかった涙が溢れた瞬間、はっとヴィクター様が息を呑む気配がした。
「……っごめんなさい。私が、悪いので。すみません、少し、頭を冷やしてきます」
早口に呟くと、部屋を飛び出した。
最低だ。分かっている。せめて迷惑をかけないように、安全な場所にいよう。
ちらり、と時折無遠慮に向けられる視線を避けるように、人気のないところを探す。
けれど、ちょうど早起きの人が起き出す時間だったようで。意味もなく、同じところをぐるぐると歩き回っていると、急に腕を掴まれた。
「……アイリーン」
「……」
躊躇いがちにかけられたその声が、怖かった。
失望されただろうか。我儘な女だと、呆れただろうか。あの言葉を本気にして、婚姻を解消、なんて言われてしまったら。
溢れそうな涙を抑えるために、必死で息を吸い込む。けれど、しゃくりあげるような音にしか、ならなかった。
「少し、つきあえ」
「……はい」
有無を言わせぬ口調。けれどそれが今は、ありがたかった。
喧嘩をしたいわけではなかった。仲直り、と言ってしまえばなんだか子供のようだけれど、本当は、そうしたかった。
妙なプライドと罪悪感が邪魔をしてそれを言い出せない私を、きっとヴィクター様は私以上に理解していて。だから、こうして強引に私の腕を掴んでいる。
私の腕を掴んだヴィクター様は、少し大股で宿屋の外に向かう。
その足取りに、今まではずっと、私に合わせてかなり歩く速度を落としてくれていたことを悟る。小走りになりながらついていくのは、出会ってから今まで、初めてのことだった。
入り口から出て、迷わずにヴィクター様は歩く。宿屋をぐるりと回って、そう経たないうちに、小さな裏庭、と言うほどのものでもないが、少し休憩できるような場所があった。
流石にこんな早朝からここでくつろぐ物好きはいないのか、そこは静まりかえっていた。
静かに、ヴィクター様の手が離れた。
何を言っていいのかわからず、謝ろうにもどうしていいか分からず、口籠もる私を見かねたのか、ヴィクター様が口を開く。
「こんな風に言い合いをしたのは、初めてか」
「……そうかも、しれません」
「それはそれで良くなかったのかもな」
ぐしゃり、とヴィクター様が髪の毛を掻き乱す。
視察に出かけた時の格好のまま、見慣れぬ平民の姿のまま。けれどその仕草は、驚くほどに、ヴィクター様だった。




