第2話 傍迷惑な地味眼鏡
私の暮らす国、スレニア王国は、北方の隅にある小さな王国だ。大きな利益をあげる特産品もなく、特に裕福なわけでもなく、必要最低限の外交をしながらひっそりと存在していた。
そして、南の帝国、エルサイド帝国の支配を、真っ先に受け入れた王国でもある。最初は散々に非難されたと聞いているが、抵抗した隣国のガーディナ王国が圧倒的な国力差で叩き潰されているのを目の当たりにし、今では英断と称えられるようになった。
その温情として、スレニア王国はかろうじて自治を許されている。と言っても、実際は放置に近いのだが。
何度も繰り返すようだが、特に国防の要でもなく、経済の要でもなく、ただ単にひっそりと存在するだけの王国なのである。気楽でいいとも言う。
とはいえ完全な放置でもなく、時折、帝都から視察と称して役人がくる。そのはずだったのだが、最近いきなり、皇太子その人が来ると知らされて国内は大騒ぎになった。
そしてさらに。
「まさかその皇太子まで偽物なんて、普通思わないでしょうが!」
「相変わらず騒がしいな、アイリーン」
「うえっ!?」
急に後ろから声をかけられ、淑女にあるまじき声を上げた私を、楽しそうに見るこの男。
水色と言うか、灰色と言うか、なんとも言えないくすんだ色の髪。高くもなく低くもない身長と、やや長めの前髪。顔の多くを覆うのは、明らかに不釣り合いな大きさの眼鏡。
エルサイド帝国皇太子、ヴィクター・エルサイドその人である。ただし、変身後の姿。
「お、お久しぶりですわ殿下」
「ん? 俺は、ただのしがない下級役人だが?」
「私相手に惚けても無駄だと存じますが」
「お前も俺相手に取り繕っても無駄だろうが」
「……」
そして口の減らないこの男は、私の留学時代の友人でもある。大変に、不本意だが。気に入らないが。認めたくはないが。
私が、王太子妃教育と称してエルサイド帝国に留学したのは数年ほど前のことだった。私としては現地の学園に通い、趣味の研究に没頭しつつ社交をしつつ、平穏に留学を終えるはずだったのだが。
この地味眼鏡に絡まれ、さらにひょんなことからその正体を知ってしまい、友人と呼べなくもない関係になった後に帰国した。そして、もう二度と言葉を交わすことはおろか会うこともないと思っていたのだが。
「久しいな」
「しれっと挨拶する前に、なぜこんなことになっているのかご説明願えますか!?」
「落ち着け。禿げるぞ」
「禿げっ」
まさかないとは思うが、咄嗟に髪の毛を押さえた私を見て、いつの間にか瀟洒なベンチに偉そうに腰掛けていた殿下は、揶揄うように笑った。
とはいえ、いい加減落ち着いた方がいいかもしれない。大きく息を吸って、面倒になってその隣に腰を下ろした。庭園はしんと静まり返っており、人気はない。それもそうだ、ホールでの混乱を抑えるのに必死なのだろう。
「殿下、なんでまた、変身して視察など滅茶苦茶なことを。変身薬の乱用はやめてくださいと留学時代に散々申し上げましたよね?」
「お前は母親か」
「主治医みたいなものでしょうが。私は、純粋に殿下のお身体を心配して」
「分かっている」
ため息をひとつついて、大きく足を組む。その地味な造形に似合わない姿に、思わず眉を寄せた。ものすごく偉そうな下級役人がいる。あと、素直に感謝してほしい。
「だがこれには、重大な理由があってだな」
「……はい」
「俺は、本気でこの国を見極めにきたんだ」
「と仰いますと?」
「スレニアの人間、この時点で皇太子が偽物だと、アイリーンを除いて誰1人気づいてないだろう? 偽皇太子は、確かに変身薬で簡単な背丈と髪色くらいは俺に合わせてあるが、顔はほぼ変えていない。と言うか、変身薬にそこまでの効能がないのは、お前も知っている通りだ」
私の専門は変身薬だ。言われなくても、よく分かっている。きっと殿下よりも詳しいだろう。
身体のつくりを根本的に変化させる変身薬には、もともと激烈な効能を持つものは使用できない。使用者への身体の負担が大きすぎるからだ。
ほんの少し、身長を高くしたり。髪を伸ばしてみたり、色を変えてみたり。少しだけ、鼻を高くしたり、輪郭をふっくらさせたり。できるのはせいぜいその程度だ。
しかも、数種類の同時服用は基本的に不可能だ。薬同士が反応して、拒否反応を起こすことがある。それで死に至ったケースがあることも、過去に確認されていた。
そこまで考えたところで、まさか、と殿下に確認する。
「まさか、ライアン様にも変身薬を飲ませたんですか?」
「ああ。と言うか、よくライアンだと分かったな」
「いや、ライアン様以外の何者でもありませんでしたよね?」
ライアン様は、殿下の側近だ。腐れ縁と本人はよく嘆いている。そうして、こういう時に犠牲になるのは、大抵彼だ。不憫で仕方がない。とびきりの面倒を背負った彼に、心の中で手を合わせる。
「話をそらさないでください。殿下が変身薬を複数乱用するのはもう諦めましたが、側近にまで身体的負担をかけるのはどうかと思うのですが」
「アイリーンが調合した拒否反応の解毒薬を渡しているさ。それなら無害だ」
「まだ持ってたんですか?! 正式な権利は帝国の研究所に渡しているんですから、そちらから新しいものを買ってください! 改良もされているはずです!」
「お前が作ったやつの方が効きが良いんだよ。ああ、そうだ、追加注文。身長調整と髪色と――」
「ですから、待ってください。私の調合はあくまでも趣味です。帝国の皇太子様に気軽に飲ませることなどできるわけがありません。そんなことより、ライアン様にどれを飲ませました? 組み合わせによっては、解毒薬が」
「問題ない、お前の残した辞書には目を通してある」
辞書。
一瞬訳が分からなかったが、すぐに思い出す。変身薬の効能と、各組み合わせごとに発生する拒否反応、その解毒薬をまとめた私のレポートだ。複数の研究所にも認められたもので、訳あって私の名前で発表こそできなかったが、少なくとも正しいことに自信はある。
確かに分厚くなったが、辞書とまではいかない。辞書の、せいぜい3分の2くらいだ。いや、4分の3かもしれない。
「それなら、大丈夫かもしれませんが。なんでそんな面倒なこと……」
「そういえば話が逸れたな。俺は試すために来たんだよ。この王国を、な。偽の皇太子に気づくか、気づいた後どうするか、皇太子ではない一介の役人として見にきたというわけだ。何度も言っただろう、皇太子とそれ以外で露骨に態度変える奴にろくな人間はいない」
「……面白がってるのが何割ですか」
「俺は至って真剣だが?」
今更、わざとらしく真剣な表情を作って見せる殿下を、一発殴りたい衝動を抑える。
「今更、私相手に取り繕っても無駄だと思いますよ」
「さすが、俺のことをよく分かっている。3割だな」
「本当のところはどうですか」
「……半分と言ったところだ」
「だと思いました」
「ああそうだ、俺の正体を誰かに明かしたら、俺の計画を台無しにしたということで、不敬だからな?」
「っ都合よく不敬を乱用しないでください!」
こういう人だ。
もともと、変身薬を乱用し、視察と称して市井に潜り込むのが趣味のような男だ。一応視察もしているようだが、前は肉屋の主人と意気投合したと聞いている。酒場の妖艶なお姉さんと良い仲になったとも。
ふらふらと歩き回って、周囲を困らせる天才。だが、本人も皇帝になるまでの期限付きだと言っているし、公務はしっかりとこなしているから周囲も何も言えないのだという。
私の元婚約者と言い、どこか頭がおかしくないと国の頂点には立てないのだろうか。
そう考えた瞬間に一瞬揺らいだ顔を、殿下は見逃してはくれなかったようだった。
「それで、大丈夫か」
「私ですか」
「他に誰がいる」
「別に、あまり気にしてません」
「強がるなよ」
「別に」
ぐっと、腰を引き寄せられた。急な密着状態に驚いて強張った私の身体を安心させるように、殿下の手が背中を軽く叩き、私の頭に乗る。どうやら、慰めようとしてくれているらしい。
留学時代も、面白がりながら何かと理由をつけて私に触れようとしてくる殿下を、婚約者がいるからと断っていたのだが、今はもうその必要もない。拒否するのも面倒で、私は殿下の触れるままに任せた。
「情とかは、ないですよ。もともと王太子妃なんて望んでませんでしたし。私がやりたいのは変身薬の研究で、一番楽しかったのは留学時代でした。だから解放されてすっきりはしているんですが」
「ああ」
「……まあ、一応、一生かけて身につけてきた色々が認められなかったのと、無駄になった悔しさはありますね」
「無駄ではないと思うが?」
ふっと笑った殿下が、私の顔を覗き込む。本来の透き通るような美貌には似合う表情だが、地味眼鏡下級役人には似合わない。違和感で落ち着かない。
「今からでも、王太子妃になれば良い」
「何を仰るんですか、婚約破棄されたばかりですよ」
「継承権を持つ婚約者のいない男は、世界に1人だけというわけでもないだろう?」
段々とその言葉の意味が沁みてくる。つまり、この男は。
「ご冗談を。いつも通りで安心します。……慰めてくださって、ありがとうございます」
「俺は至って本気なんだが?」
「私相手に取り繕っても無駄です。もう一度やりますか? ……まあこれでも、それなりに本気で感謝してるんですよ?」
王太子妃の座に拘りはなくても、公衆の面前でのあれはさすがに堪えていたようだった。ふっと身体の力が抜ける。器用に私を支えた殿下の表情は見えないけれど、その手つきは優しかった。
「それにしても、来賓の皇太子の前で婚約破棄なんて、何を考えているんでしょうね」
「後で覆されないようにしたかった、と言ったところか。あの女よりはアイリーンを慕う人間の方が多いだろうし、最大の証人が欲しかったんだろうさ」
「それで、帝国の皇太子の目の前で婚約破棄なんてしますか? 神経を疑います」
「誤解するなよ? 俺も心底軽蔑したし腹が立っている」
「すみません、お見苦しいところを」
「いや、そういう話ではないんだが」
ゆっくりと、殿下の身体から身を起こした。随分と甘えてしまったようだ。少しばかり、予定外だった。
「そういえば、解毒薬の注文を聞かせてください。研究所の方につてがありますから、どうにかします。効果についても、私の方から働きかけてみますよ。郵送なり手紙なり、後で連絡を取りますから」
「……断る」
「なぜですか」
「アイリーンはもう俺に会わないつもりか?」
「明日にも、私は公爵家に戻されると思いますので。殿下は城に滞在されるでしょう? それにそもそも、会いたくても、普通お目にかかれるような方ではないでしょう」
「会えるとしたら、会いたいのか?」
「……まあ、そうですね」
渋々だが、肯定した。この人は放っておくと変身薬を乱用する。いつ身体に限界が来るか分からない。会っていなかった数年の間に私の薬も使ったというし、一応責任を持って身体の状態を見ておきたかった。
そう説明した途端に不機嫌な表情を隠さなくなった殿下。この人は私が殿下の身体を心配するといつだって嫌そうな顔をする。だがこちらとしても、自分の身体そっちのけで暴走しているところをただ黙って見ていることはできないのだ。我ながら甘い性格をしていると思う。
苛立ったような様子のまま、殿下が告げる。
「それなら、俺の世話係でもやってくれ。滞在期間中だけだ」
「……世話係?」
「世話係でも接待役でもなんでも良いが、大抵人を出すだろう。俺の方でアイリーンを指名するから、受けろ」
「いや、私婚約破棄されたばかりなんですが」
「帝国の皇太子が良いと言えば、大抵のことは通るだろう」
「……分かりました。引き受けます。その代わり、健康観察だけですから。そういう世話はしませんよ」
「何、期待したのか?」
「っしてません!」
真っ赤になった頬を隠すように、俯く。
大抵こういう時につけられる世話係というのは、夜のお相手をする女性であることがほとんどだ。もちろん婚約者や妃がいれば遠慮されるが、殿下にはどちらもいない。噂によると、ずっと本人が逃げ回っているのだとか。相変わらず自由な人だ。
「なら、明日から頼むぞ」
もう少しここに残るという殿下と別れて、馬車を呼ぶように連絡を出す。まだパーティーは終わっていないが、私が戻っても空気が死ぬだけだろう。ただでさえ、重鎮たちは婚約破棄で滅茶苦茶になった場を立て直すので必死のはずだ。
家に帰った時の反応を考えて今から気が重いが、仕方がない。書類関係も膨大になるだろうが、その程度で解放されるなら構わない。家族への迷惑に関しては申し訳ないとしか言いようがないが、今更嘆いたところで変わらないのだ。
叶うなら、帝国に行きたいと思った。文化の発展したあの国は、ここよりもずっと学びが充実しているし、私のような研究に熱中する女性も受け入れられるかもしれない。
ようやく到着した馬車に揺られながら、ゆっくりと窓の外を見つめていた。




