第17話 たまには、素直になってみないこともない
「っアイリーン」
いつもは余裕を売れるほど持ち歩いているくせに、少しだけ余裕のないその声がなんだか新鮮で、嬉しくて。
ゆるりと頬を擦り寄せれば、勢いよく視界が動き。気がつけば、ソファの上で押し倒されるような格好で、抱きしめられていた。
「随分と、今日は素直なんだな」
「殿……ヴィクター様こそ。普段ほど、嫌味が冴え渡っていないようですが」
はあ、と耳元でため息が聞こえた。
「普段は、俺がしつこく言わないと呼んでくれないくせに」
「今日は、素直なんですよ」
「素直な気持ちでは、俺のことを名前で呼びたいと思っていたと思っていいか?」
「まあ、そんなところです」
ぎゅう、と、私を抱きしめる腕に力が入った。
「後悔はないか」
「なんの話ですか」
「俺との婚姻」
「……本気で言ってるんですか?」
うん、怒った。これは怒っていいはずだ、と思う。
「本気で言ってるとしたら、怒ります」
「もう怒ってるだろ。……悪い」
「別に、いいですけど」
悪い、とばつが悪そうに謝るその声に、あっという間に怒りが萎んでしまう私も、大概だ。
「後悔するわけないでしょう。こう見えても私、幸せなんですよ」
「俺もだな」
少しだけ、ヴィクター様が上半身を浮かせた。青く透き通った瞳と、真っ直ぐに目が合う。
「俺も、幸せだよ」
「……っ」
分かっている。ここで目を逸らすのは、間違っている。でも待ってほしい、恥ずかしい。
けれど無情なヴィクター様は、両手で顔を掴んで強引にヴィクター様の方を向かせる。真っ赤になっているであろう頬を、指が楽しげに撫でた。
目があった。その目が、すっと閉じられた。
さすがの私も、何があるのかを察した。
目を閉じて。ややあって、優しく、唇に柔らかいものが触れた。
温かくて、柔らかくて、同時に恥ずかしさで爆発しそうで。心臓が痛い。
離れていく熱を、少しだけ名残惜しく思った。
「そんな固く目を閉じるな。変身薬をかけられる覚悟をした顔のようで、悪いことをしている気分になる」
「……洒落にならない冗談は、やめてください」
「こうでもしないと、お前、口を聞いてくれなさそうだと思ってな」
悔しいが、その通りすぎて何も言えない。顔が熱すぎる。
「ほら、いい練習になっただろ?」
「……練習」
「明日が本番だ。まさか、忘れてたなんて言わないよな?」
「忘れて、ました」
「嘘だろ」
「残念ながら、本当です」
まあ、そんな気はしていた、と呟くヴィクター様は、明らかにがっくりと肩を落としている。
けれど、私にも余裕はない。今の、あれを、明日、人前で。
「無理です」
「無理でも、そういうものだ。誰でもやっている」
「……」
「練習が必要だったら、いくらでも付き合うが?」
「け、結構です!」
本当に練習と称して何時間も付き合わされる未来を想像して、さすがに恐怖を感じた。ただでさえ、明日はきつい1日になるだろう。早く寝なければいけないのだ。
「もう、寝るので! 部屋に戻ってください!」
「素直な時間は、もう終わりか?」
不満げにしながらも、おやすみ、と言って部屋に帰るヴィクター様を見つめる。
素直な時間。そういえば、疲れていたことすら忘れていた。もちろん身体は重いのだが、心の中に巣食っていた、余裕のなさというか、苛立ちというか、そういうものは綺麗に消えていて。
ヴィクター様のことだから、きっと、ここまで計算済みなのだろう。
「ヴィクター様」
「なんだ?」
「……好きです」
「…………帰るのやめていいか?」
少しばかり苦労しながら、どうにか口にした言葉。
それを聞いた瞬間にくるりと向き直り、少し怖いくらいの真顔でそう言うヴィクター様に、さすがに焦った。
「か、帰ってください!」
「……分かったよ」
明らかに不満そうというか、納得できないというか、そんな顔をしているのに。それでも帰ってくれるのは、私が身体を休める時間が必要だと理解しているからこそ。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
すっかり温まった心のまま、するりと寝台に潜り込む。ここで寝るのも今日が最後、と思うとなんだか気恥ずかしかった。
絶対に眠れない、と思っていたのに。身体はやはり疲れていたらしく、ややあって眠気が押し寄せてくる。
少しだけ微笑みを湛えて、私は幸せな眠りについた。
◇
そうして迎えた、結婚式当日。
他国から人は招かない、と言っていたにも関わらず、ヴィクター様は私の両親だけは招待してくれた。
人目も憚らず号泣する母と、その横で苦虫を噛み潰しながら蜂蜜を舐めているような、なんとも形容し難い表情を浮かべる父。
2人の姿は嬉しくもあり、晴れがましくもあり、少しばかり恥ずかしくもあり。スレニア式の最上級の礼を取るヴィクター様に、私の父として接するべきか、属国の公爵として接するべきか、大混乱している父の姿は新鮮だった。いつだって冷静な父のそんな姿に、母とこっそり目を見合わせて笑った。
私たちの結婚を祝福してくれる人も、想像以上に多かった。お似合い、と言われるのが、嬉しくも照れくさかった。大切そうに私に触れるヴィクター様の手も、力強く抱き上げられた時の腕も、ほんの一瞬、ちょん、と触れ合った唇も、どれも幸せで大切なものだった。
そう、間違いなく幸せな日で、大切な日だった。
けれど、あまりにも、一瞬だった。
端的に言うと、忙しさで感傷に耽るどころではなかった。
私と言葉を交わしたい貴族は多く、私も関係を築いておきたい貴族はたくさんいる。私もヴィクター様もありとあらゆるところから呼び出され、精一杯優雅に見えるぎりぎりのところで会場を駆け回った。
しんみりと感傷に耽り、ヴィクター様と落ち着いて言葉を交わす機会など、なかったのだ。これで小規模だと言うのだから、この先を思うと恐ろしい。
それでも、どうにか大きなトラブルもなく式は終わった。
しかし、残念ながらまだ終わりではない。
全体的に浮き足立っている侍女たちに、ああでもないこうでもないと言われながら全身を磨かれ、飾られ、ついもういいよ、と言ってあげたくなる。
どうせこの後は、暗殺者とのご対面、である。彼女らが想像している初夜とは程遠いものであることは明らかだ。
そうして、どうにか暗殺者を捕まえた頃には、正直、今にも寝てしまいそうなくらいには疲れ切っていた。
告げられた首謀者の名前にも、やはりそうか、としか思わなかった。ヴィクター様と顔を見合わせて、苦笑することしかできなかった。
「そうだと思っていたが……そうか、俺はヴァージルのせいで、今日のアイリーンを」
そうぶつぶつと呟くヴィクター様の目が、怖い。この人、おそらく本気だ。
「ヴィクター様」
「分かってる」
はあ、と大きな溜め息を吐いたヴィクター様が、追及を再開する。




