第10話 世界で1番長い夜
渡された華やかな美しい花束を、静かに見下ろした。
今日で、殿下たちはここを出立することになる。その記念のパーティーが、始まろうとしていた。
世話係だった私に任されたのは、「皇太子」に花束を渡す役。本物の皇太子ではないが、特に目立ったトラブルもなく、切り抜けられたようだった。
結局私の必死の努力も意味がなく、誰も皇太子の正体には気が付かなかった。ただただ、私が地味眼鏡が好きすぎる令嬢になっただけだった。辛い。
などと茶化しているが、本当は、少しだけ察していた。
殿下がこの国を試しているのは、間違いなく帝国としてこの国を評価するためで、本人もきっとそう思っている。
けれど、きっと心のどこかでは、気がついて欲しかったのではないだろうか。ヴィクターがいない、という事実に気づいてくれる人を、欲していたのではないだろうか。本人に言ったらきっと否定されるに違いないけれど、あの人は根本的なところで、寂しがり屋だ。
きっと今度こそ、もう二度と、会うことはないのだろう。
叶うならばこの先帝国に住みたいけれど、住んだところで気軽に会えるような方ではない。よくて、式典の時にちらりと姿を見ることがあるくらいだろう。
好き、だった。
最初は純粋な心配からだった。母性に近かったのかもしれない。ほっとけない、という気持ちは、気がつけば、ほっときたくない、に変化していた。
傲慢でわがままで、人を試すような真似をして、誰よりも人を信頼していなくて、信頼できないような境遇で生きてきて、けれど根本的なところでは、寂しがり屋なのだ。
そして、そのそばにいるのは、私でありたかった。
頭を振って、重い気持ちを払う。関係ない。何があろうとも、私から愛を乞えるような方ではない。
今までの気安い関係は、あくまでも殿下が望んでいてくれたからできたことだ。もともとの立場を忘れるわけにはいかない。
控室は、驚くほど静かだった。壁越しに、パーティーの喧騒が聞こえてくる。
誰もがパーティーを楽しんでいるのだろう。ここにも、珍しく誰もいない。
すぐに私の出番だ。「皇太子」に花束を渡して、それで帰るだけ。私がパーティーにいても皆対処に困るだろうし、すぐに帰った方がいい。殿下たちが帰れば、すぐにでも次の王太子の婚約者の準備が始まるだろう。
がちゃ、と音がした。
「アイリーン様、ごきげんよう」
扉を背にして立っていたのは、エリザ様だった。
「ごきげんよう。……パーティーは、どうされたのです?」
「いえ。アイリーン様に、こちらをお届けしようと思いまして」
そう言って、グラスを渡された。
深い葡萄色の液体が満たされたグラスを、軽く振る。あの彼女が、私に。明らかな悪意を感じる。十中八九、何か盛られているだろう。
「とある男性の方から、アイリーン様に届けて欲しいとのことでしたわ」
「どんな方ですの?」
「私は知らない方でした。身長の高い、赤髪の方でしたが」
全く、心当たりはなかった。そもそも、私に飲み物を届けさせるような物好きがいるはずもない。
「……本当ですの?」
「あら、疑うのですか? 証拠と言われても困りますから、私を信頼していただかなくては」
「私から婚約者の座を奪ったあなたを、信頼しろとおっしゃるのですか?」
もう外聞も何もない。どうせ2人きりだ。
どうせ嘘だろう。自分自身に嫌疑がかからないように、人を雇って人前でこの飲み物を渡させたか。もしくはその人の存在そのものが真っ赤な嘘か。
逆に、なぜこの稚拙な手段で私を騙せると思ったのだろうか。私が倒れた後は、どうするつもりだったのだ。
「奪った、なんて人聞きの悪い。ただ、殿下が私を選んだというだけのお話でしょう?」
「そうかもしれません。ですが、私が立場上、エリザ様を完全に信頼するのが難しい、ということは、ご理解いただけますね?」
「どうしても、飲んでいただけませんの?」
「ええ。残念ですが」
「そう、ですか」
そう言う彼女の瞳に、強烈な色が乗った。
まずい、と思った時にはもう、彼女の手が振りかぶられていて。そのグラスから深紅の液体が飛び散るのが、ひどく遅く見えた。咄嗟に、目を瞑った。
「……っすみません、手が滑ってしまいました!」
わざとらしい言葉と共に、降りかかる液体を想像したのだが。その感触は、いつまで経ってもやってこない。その代わりにのしかかったのが、重みだった。
立っていられず、押しつぶされるようにして崩れ落ちる。
訳がわからず、とりあえずその重みから這い出た。そうして、心臓が止まった。
「殿下!?」
私を庇ったらしいということだけはわかった。けれど、その表情は苦悶に歪み、血の気がなかった。ひゅう、と一瞬、息の音がした。殿下、と呼びかけるも、反応はなく。身体を折り曲げ、ただ虚ろに床を見つめるその瞳に、心が冷えた。
「あなた!? 何を盛ったの、今すぐ吐きなさい!」
これほど強い薬を、どこで手に入れたのか。
いや、違う。この症状は、まさか。
「そ、そんなはずは!」
「何! 今すぐ吐きなさい!」
「そんな! 大したものではないの、変身薬! ちょっと肌の色が緑がかるくらいの、本当に害のないものだって聞いて!」
「は!?」
拒否反応、だ。
一瞬で悟った。きっと彼女にとっては嫌がらせくらいのつもりだったのだろう。注目の中人前に出ていく私の、肌の色を悪くしてやろうと。小物くさい嫌がらせだが、私にかかったら嫌がらせ程度で済むはずだった。
しかし、すでに変身薬を同時服用している殿下にとっては、これは猛毒だ。どんどんと血の気が失われていくその顔に、全身に鳥肌が立つ。
「何をしている!?」
私の絶叫を聞いたのか、人が集まってきた。けれど、そんなことも構っていられない。
無理やりその口を開いて、持ち歩いていた解除薬を飲ませた。留学時代に作ってそのままになっていた、私特製のものだ。
何か、殿下の変装を急遽解かなければいけない機会が来た時のためにと、ずっと持ち歩いていたのだが。こんな、最悪の形で使うことになるとは思っていなかった。
ゆっくりと彼の形が揺らぎ、その造形が変わっていく。さらりと銀糸が揺れる。現れた姿を見て、誰もが息を止めた。
「ヴィクター殿下……」
誰かが、囁く声が聞こえた。
そこからは、大騒ぎになった。その中で、私は絶叫する。
「誰か! 今すぐ公爵家に連絡して、私の研究道具を持ってこさせて! 侍女に言えば分かるから!」
「セラーズ公爵令嬢、医者を呼んでまいりましたので、交代を」
「医者です。交代をお願いいた」
「この国のどこに、変身薬の専門家がいるのよ!」
溢れてくる涙を必死で抑え、冷静さを取り戻そうと息をつく。まだ、手遅れではない。
「変身薬……?」
「この明らかな副反応の状況を見て、一目で変身薬の副作用を疑わない人に殿下は任せられないわ」
「セラーズ公爵令嬢」
「変身薬の効能についてこの場で誰よりも理解しているのは私よ。殿下の飲まれていた変身薬を知っているのも、その解毒薬を開発したのも私。変身が解けたのも、私が携帯していた解除薬を飲ませたから。あなたのところに、変身薬の解除薬はあるの?」
「……」
「ないでしょうね。使い勝手が悪すぎて、滅多に使われない薬だもの。……私に任せた方がいいと、理解したかしら?」
「……理解しましたが、隣で見ることはお許しください」
「好きにして」
時間が惜しい。研究道具が届くまでの時間が、永遠のように感じられる。
このまま床に転がしておくのもよくない。もともと、あまり綺麗な部屋ではないし、変身薬がそこらじゅうに飛び散っているのだ。近くにある清潔な部屋に、できるだけ刺激しないように移動させるように指示を出す。
その夜は、今まで生きてきた中で、一番長い夜だった。
殿下のそばに寄り添い、その容体を観察する。少しでも苦しむ様子があれば、どの成分同士が干渉しているのかを必死で分析し、その解毒薬を飲ませる。学生時代に無駄に作っていた様々な解毒薬が、こんなところで役立つとは思っていなかった。
失敗は許されない。震える手を握りしめて、ただひたすらに殿下を見つめる。
そうして、日が上り、少しだけ部屋が明るくなってきた頃。
その長い睫毛が震え、その目が、私を捉えた。




