遣独潜水艦作戦が生還すれば~空に噴式の徒花が咲く
・橘花と火龍
Me262の資料と図面がMe163の資料と共に遣独潜水艦作戦によって日本に送られた。
これを参考に中島飛行機が海軍向けに開発したのが橘花、陸軍向けに開発したのが火龍である。
──ネット百科事典 メッサーシュミット Me262 より
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ゆっくりで語る㊙兵器 夏の日の丸ジェットスペシャル
3……2……1……0……
「こんに深山、解説のゆっくり白大福だぜ」
「こんばんワラウェイ、解説を聞くゆっくり水饅頭ですわ」
某有名ゲームのキャラクターを一等身にデフォルメした謎生物が2体画面に映し出される。と同時に安っぽい合成音声が字幕付きで流れ出した。
いわゆるゆっくりと呼ばれる形式の動画コンテンツだ。
他の合成音声と違い無料で作れて、訓練も何も受けていない世の中の大半の人間の生声よりは聞き取りやすい読み上げができるこの形式の動画はそれが故に動画サイトに氾濫していた。
とはいえその玉石混交の最中にあってもこのシリーズは上澄みも上澄み、競走馬で言えばG1勝利どころか宝塚や春天を連覇するぐらいの上澄みだった。なにせ書籍化までしているのだ。
そうこうしているうちに時候の挨拶が終わった。この夏は暑くて体調が悪いとかそういうのだ。
「さてさて、今回は終戦記念スペシャルということで戦争末期に飛んだ和製ジェット機を紹介していくぜ。基準としては機体が完成しているもの、だな」
「当時の日本にジェット機なんてあったんですの? ナチスドイツが飛ばしていたとは聞きますが」
「ああ、日本も何機種か開発・飛行させていたんだ。順に見ていこう。まずは橘花と火龍だな」
1.Me262の模倣、というタイトルと共に画面に双発の、Me262に似た形状の機体が2機映し出された。それぞれM7N『橘花』、中島キ201『火龍』とキャンプションがつけられている。
両機種ともにMe262を参考に設計された機体で、海軍型が『橘花』陸軍型が『火龍』となる。サイズやエンジンは両者共通で、武装(機銃と爆弾)のみが異なった。
「結局ドイツのコピーだったんですの?」
「それはそうなんだがな、これ以前に国内でエンジン開発を進めていた経験が短期間での機体開発に繋がっていたのも事実なんだぜ」
当時の日本は実用化にまでは至っていなかったものの、ネ10やネ12といったジェットエンジンの開発自体は進めていた。ネは燃焼噴射推進器の頭文字である。
推力はMe262のJumo004エンジンに比べると1/3以下であったものの、開発経験の蓄積という面では大きな意味があった。
この技術の蓄積を活かして機体の研究に入ったところでドイツから遣独潜水艦作戦によってMe262の図面とエンジンの実物がもたらされ、Me262を参考にした機体開発が海軍から中島飛行機に命じられた。
これが後の特殊攻撃機橘花となる。
「遣独潜水艦作戦について語ると動画が2~3本つくれっちまうからここでは触れないぜ」
「それにしても特殊攻撃機……やはり末期の日本機はすべからく特攻に用いられる定めなのですわね」
「そういうわけではないんだが……実情はそうだな」
元々特殊攻撃機というのは機体構造、攻撃方法、発進方法、使用目的などがそれまでの通常のものとは異なる攻撃用機体のことである。なので黎明期の急降下爆撃機もこの分類であった。
有名な特殊攻撃機の一つには潜水艦から発進する攻撃機である『晴嵐』があり、必ずしも特殊攻撃機イコール特攻機でないことがわかる。
が、1945年初頭に実戦配備された『橘花』の初陣は1945年3月の九州沖航空戦における特攻作戦であった。
「1945年2月10日に新設された第五航空艦隊司令官宇垣纏中将は長官訓示で全軍特攻を発令した。同年3月18日、空母12隻を基幹とするミッチャー中将率いる第58任務部隊が呉を空襲、これに対応する形で九州沖航空戦が始まった」
「瀬戸内海の呉を攻撃しようとすれば九州や四国に相当近付くことになります。そこを狙ったわけですのね」
「ああ。最も接近した部隊は足摺岬の沖合80kmまで迫ったらしい。そこに第五航空艦隊の450機が襲いかかった」
偵察機が発見した2群の機動艦隊に対してまず襲いかかったのは『橘花』特攻隊およそ10機だった。
『橘花』は800kg爆弾を装備した状態でも700km/h近い速度を出すことができる。これはP51マスタングの最高速度に迫り、F6Fヘルキャットでは捕捉することすら容易でない速度となる。
この比類なき速度性能によってヘルキャットやコルセアからなる防空網を突っ切り、次々と輪形陣中央の空母へと突入していった。
この戦いがジェット機との初戦となる米艦隊は阻止に失敗、空母『イントレピッド』他3隻が損傷する被害を受けた。
翌日、さらに接近した米艦隊に15機の『橘花』が攻撃。ちょうど艦上に攻撃隊を並べていた空母『フランクリン』には3機が突入し炎上。突入の衝撃で放水系統が故障して消火不能に陥り自沈処分となった。
大本営は数日にわたる一連の攻撃で空母5、戦艦2、その他4の撃沈を報じた(実際は空母2、軽巡1)。
「特攻作戦というのが残念ですが、末期にしては戦果をあげているのですね」
「その代わり戦力のほとんどを失っているんだがな。『橘花』の活躍に関しても燃料事情と航続距離の2点が味方したのが大きいんだ」
ジェット機の長所として、使用する燃料がレシプロ機よりも低品質で良かったことが挙げられる。
この時代のレシプロ機はオクタン価の高い燃料を使わないとカタログ通りの高性能を発揮できなかった。この点日本はハイオクタン燃料の開発でアメリカの遅れを取っており、連合国に不利な戦いを強いられていた。
だがジェット機は燃料の制限がゆるく、レシプロ機では使えない粗悪な油でも性能を発揮することができた。
わかりやすく現代でいうと、レシプロ機の燃料はガソリンスタンドで売られている高価なハイオク燃料、ジェット機の燃料はケロシン、日本語で言えば灯油に似た成分である。
一例として、代用燃料で有名な松根油も燃料として使用できたとされる。
このことにより、燃料状況が逼迫した末期においてもそれなりの訓練時間を確保することができた。
そして米艦隊が本土近辺まで不用意に踏み込んだことがプラスに働いた。
『橘花』の航続距離は1000㎞弱、爆弾を装備した際の攻撃半径はおよそ300㎞しかない。これは通常の海軍機の半分以下となる。
さらにジェット機はコンクリート舗装した飛行場からでないと運用できない。
この制限はMe262や他の機体でもそうだが、異物をジェットエンジンが吸い込んでしまう未舗装滑走路やジェット噴射が舗装を溶かすアスファルト滑走路からは飛び立てないのだ。
つまり『橘花』を運用できる基地はかなり限られる。それこそ専用の基地か大飛行場かだ。そんな基地は内地にしかなく数が少ないからますます近くに寄ってくれないと攻撃できない。
「なるほど、それで特攻、と。そもそも洋上の艦隊を攻撃するには航続距離が足りなかったんですのね」
「ああ、このときだって呉を攻撃するという理由があったから接近してきたのであって、これ以降米艦隊はほとんど本土へ近寄らなくなっている」
実際、終戦間際まで水上艦隊は本土へ接近しないよう命令されており、攻撃対象も重要工場や飛行場への精密爆撃に限られた。
代表例として室蘭空襲や釜石空襲などがある。
「海軍の『橘花』についてはわかりましたわ。陸軍の『火龍』についてはどうなんですの?」
「武装が違うが機体はほぼ共通だな。『橘花』が800kg爆弾1発以外に固定武装なしもしくは五式30mm機銃2丁なのに対して、『火龍』は五式30mm機銃4丁と1トンまでの各種爆弾と重武装だ」
両者の違いはその攻撃目標だ。
海軍の『橘花』はあくまで洋上の艦艇を目標としている。
それがゆえに装甲を貫ける800㎏爆弾の搭載にこだわるし、艦船への機銃掃射は効果が薄いので機銃の搭載には消極的だった。
そして初期型ジェット機の宿命として航続距離が短いにもかかわらず遠く洋上の敵艦を攻撃するため片道切符の特攻作戦を前提とした。
なので機体の分類が特殊攻撃機となっているのである。
対して陸軍の『火龍』の目標は地上軍や舟艇である。
より具体的に言えば、本土決戦時の橋頭堡や上陸用舟艇を攻撃する襲撃機や戦闘爆撃機としての運用を想定していた。
だから多数の大口径機銃と複数の爆弾を搭載できる設計となっていた。主に地上の動目標や軟目標をたたくためだ。
「この差と……後で言う理由が終戦時の残存数の差につながるわけだな」
「あくまで機動艦隊を攻撃するつもりで積極運用された『橘花』と、本土決戦に備えて温存された『火龍』というわけですか」
終戦時の残存数は『橘花』が34機、『火龍』が152機であった。
「実際には陸海軍のセクショナリズム的対立という面も大きいんだがな」
「と、いいますと?」
「本土決戦となったら主導権は陸軍が握るだろ? 海軍としては当然面白くない。ならその前に戦力を使い切ってしまえ、ってとこか」
「今際の際に至ってなおそのような下らない……」
気を取り直して話題は次へ移る。
2.既存機の噴式化、というタイトルとともに何機種かの画像が画面に映される。
「けっこう種類がありますのね?」
「戦争末期で試行錯誤の時間も資源も惜しかったんだろうな。それこそジェットエンジンが積めそうな機体には片端から試しているぜ」
一番有名なのはこれだな、とエンテ型の機体が拡大された。キャンプションにはJ7W2『震電改』とある。
「この機体は試作中だったレシプロ戦闘機『震電』のエンジンをジェットに載せ替えたものだな」
「零戦なんかと違ってもともと後ろ向きにプロペラがついている戦闘機でしたのね」
実際この頃の戦闘機は高速化を狙って推進式にエンジンを搭載する形式を取っている機体がままあり、『震電』と同じようにジェットエンジンに載せ替えられた機体もいくつかある。
『震電』の場合は戦争末期の45年6月に試作1号機が初飛行した際に、ハ43エンジンに起因する様々な問題が発生したため試作2号機はその修正を、3号機はエンジンをジェットエンジンに換装することで問題を解決しようとしたものとなる。
「エンジンが問題ならそもそも取り替えてしまえ、というのはなかなか合理的ですわね。どのような問題が発生していましたの?」
「エンジンが爆熱で全然冷えなくて壊れかけるだろ、機体が右に傾いたまま立て直せないだろ、あと吹かすと異常振動が起こる」
「とんだ欠陥機じゃないですの!?」
正直、後世のアニメやゲームで夢の新兵器扱いされているのがおかしく思えるほどの有様である。
エンジンが爆熱なのは位置が機体後部で空冷が不十分であること、機体が傾くのはプロペラのカウンタートルクを打ち消しきれていないこと、異常振動はプロペラ延長軸の剛性不足が原因であった。
ジェットエンジンに換装した試作3号機は8月9日に初飛行した。
軽荷状態かつ脚を出したままの飛行であったが時速321㎞/hを記録、これが『震電改』における最初で最後の飛行となった。
「……これだけですの?」
「本当に飛んだだけだな。逆に活躍を想像する余地があったからこんなに人気になったのかも」
「つまり夢がある、ということですわね」
「逆になまじ飛んで実戦投入されてしまったがためか『震電』より不人気なのが『閃電改』だな。色々面白いエピソードもあるんだが」
J4M2『閃電改』。機体略符号の数字でわかるように、J7Wの『震電』よりも早期に計画された機体である。
もともとこの機体は『雷電』に次ぐ十七試局地戦闘機として三菱が試作した機体であった。海軍の高い速度や上昇力に対する要求に応えるために三菱の技術者が考案した双胴推進式の機体が特徴である。
ただしその経験のない機体形状そのものが開発の足を引っ張った。
機体そのものの問題は44年7月にはおおむね解決していたものの、同じエンジンを搭載する後発の『震電』のほうが性能優秀であるということで一旦機体整理の対象となった。
「一旦、ということはここから逆転があるのですね?」
「ああ、第一の転機はこの直後に遣独潜水艦作戦によってBMW003ジェットエンジンがもたらされたことだ」
同時にもたらされたMe262の図面をもとに開発されたのが『橘花』だが、『橘花』は大型の双発機であるために対戦闘機戦闘に向かない鈍重な機体となることが予想されていた。
この問題を解決すべく、海軍航空本部より機体整理対象となった『閃電』の機体を流用した単発戦闘機の開発計画が立ち上がった。これが『閃電改』である。
「こう言うと非常にマトモな計画に聞こえるんだが、計画を強行に推進した手原中佐が中々な人物でな。開戦前後の頃には対潜哨戒機『東海』の開発を本部長に談判したりと先見性に溢れた人物だったんだが、44年頃には悪化する戦局に心身のバランスを崩したのか奇行が目立つようになっていたぜ」
「奇行といいますと……謎の神様のお告げが聞こえるようになったり風水に凝りだしたりとかでしょうか?」
「おっ、流石だな。ほぼ正解だぜ」
「……こんなのを士官にしておくなんて、海軍はよっぽど人手不足か精神病院のベッドが足りてないかですわね」
一応彼の弁護をしておくと、終戦間際になって変な宗教にハマったのは彼だけではない。有名所だとロケット迎撃機『秋水』の実験部隊の大佐が新興宗教に傾倒していたことが知られている。
また、海軍自体もパイロットの選抜時に骨相学という似非科学を参考にしていたり水から石油が作れるなどというホラ話を真に受けたりとまあまあ変な組織ではある。
「確かにやべー奴なんだが仕事は精力的ににやってたようでな、当時の技術陣の回想によるとかなりの勉強家で最新の航空理論にも詳しかったそうだぜ。熱心かつ有能な担当者がついたというのが第二の転機だな」
「どうしましょう、そこだけ聞くとすごくまともですわ」
「まあ試験基地の選定を風水でやったり飛行試験スケジュールを”しらおき様”とかいう謎の神様のお告げで決めたりもしてた訳だが」
「頭が痛くなってきましたわ」
なお”しらおき様”の正体は戦後の混乱期に資料が散逸したため不明である。
一説には競走馬スペシャルウィーク号やウオッカ号の牝系にあたる繁殖牝馬シラオキ号と関係があるともされるが、シラオキ号は1946年生まれであり時期が合わないことから無関係と見るのが自然であろう。
そんなこんなで計画再始動から1年弱で『閃電改』は初飛行を遂げる。1945年6月のことだった。
機体の形状は原型機の『閃電』から大差なく、機首に五式30mm機関銃4丁を装備し、コックピットの後方にネ20ジェットエンジン(BNW003エンジンの国産名称)を搭載、その後ろに双ビームに支えられた垂直尾翼とジェットエンジンの排気を避けるために垂直尾翼の上部に移設された水平尾翼を持っているのが特徴となる。
原型機と最も異なる部分として主翼があげられ、エンジンの重量が原型の『閃電』からおよそ2/3となっていることから重心を保つために主翼に後退角がつけられている。
このことよりMe262と同じく期せずして高速時の操縦性改善効果を得ているが、試験中に翼端失速を起こしやすくなることが判明し境界層分離板を両翼に2枚づつ装備している。境界層分離板は戦後第一世代ジェット機にも装備されており、開発陣の先見性がうかがえる。
類似の機体として同じく双ビーム推進式機をジェット化したスウェーデンのSAAB21R、イギリスの双ビームジェット機デ・ハビランドヴァンパイアがある。
「飛行試験は順調に推移し、結果良好として1946年初頭までに1000機の量産が計画されることになったぜ」
「幸いにして8月には終戦となったわけですが、ということは先程言っていた実戦というのは試作機によるものですか?」
「ああ、武装を施した試験機と増加試作機の数機が飛行可能状態にあり、降伏間際の8月に何度か出撃して戦果をあげているぜ。例えば8月6日には四国上空で広島方面へ飛来した偵察型B-29の3機編隊を試作1号機と3号機が迎撃、一航過で2機を撃墜しているな」
「それはすごいですわね! ……惜しむらくは、あと登場が1年早ければ空襲も防げたかもしれませんのに」
実際、爆撃に護衛戦闘機が随伴するようになる前の段階でまとまった数のジェット戦闘機が投入できていれば戦果をあげることもできただろう。
しかし、硫黄島が陥落しP−51マスタングが護衛に付きだした頃にはまだ双発の『火龍』は実戦配備についておらず、後に紹介する対戦闘機戦闘も考慮された陸軍の単発ジェット戦闘機『雷切』は終戦間際にようやく機体が完成したところであった。
あくまで結果論だが、一からの開発にこだわった陸軍機は戦機に間に合わなかったことになる。
「その後も『閃電改』は単機または少数機で侵入する偵察任務のB−29を執拗に狙って出撃。ソ連参戦後の13日に艦載機の空襲で出撃基地が破壊されるまで戦闘を続けた」
「わざわざ艦載機で基地を狙うなんて、よっぽどアメリカ軍も腹にすえかねたのでしょうね」
重コンクリートの滑走路こそ破壊されたものの掩体壕に隠されていた機体は無事で、終戦時には3機全てが残存していた。
総生産機は28機で、戦後は破壊を免れた全機が連合軍に接収されて試作一号機が国立航空宇宙博物館に展示されている。
「で、既存機の改造シリーズの最後がこれだな。個人的にはこれを飛行機とは言いたくないんだが」
画面に映し出されたのは葉巻型の胴体から翼とキャノピーが突き出た異形の機体であった。機首に描かれた桜の花がこの機の名をそのまま表している。
特殊滑空機MXY-7『桜花』は日本海軍が太平洋戦争末期に開発した特攻兵器である。
初期型は一式陸攻を母機として空中発射、推力は燃焼時間九秒の三基の火薬式ロケットのみであったが、四三型はネ20ジェットエンジンを搭載して地上基地より発進、300km程度の航続距離があった。
「最初は燃焼時間の短い火薬ロケットしか持っていなかったために母機として特別に改造した一式陸攻を必要としたんだ。重量物を搭載して重くなった一式陸攻は米軍の警戒網を抜けられず攻撃が成功することはまれだった。一方で、一度発射されてしまった『桜花』を空中で阻止することは困難だった」
「なるほど、通常の機体より速く小さいため狙いづらく、木製部分が多いのでレーダーにも写りにくいと。ただ大きくて遅い母機に運ばれている間なら撃墜は容易……それで自力で飛べるようにしようと?」
「ああ。ネ20が1基で済むことやジュラルミンの消費量が少なく経済的との意見もあって本土決戦に備えて大量配備がすすんだぜ」
機体の製造に合わせて発射基地の整備も進んだ。
滑空も合わせて300kmの航続距離を持つため内陸の高所にも発射基地が設けられ、終戦までに京都の比叡山と神奈川の武山に発進用のカタパルトレールと機体を格納する掩体壕が建設された。
特に比叡山の基地では比叡山鋼索線を接収して物資集積が進められ、カタパルトでの発進試験も実施されていた。
「発進試験? まさかそれは有人で……?」
「いやいや、四三型からは着陸用のスキッドや落下傘も装備した通常の航空機に近いものになっていて、自力での基地移動も考慮されていたようだな」
終戦までに完成した比叡山と武山の基地に加え、関東と近畿を中心に10あまりの基地が建設中だった。
一つの基地あたり数基から十数基のカタパルトが据え付けられ、1基あたり5から10機程度の『桜花』を射出する計画だったので、合計で一千機近い地上配備型の『桜花』が本土決戦時には射出される計算になる。
完成した機体はおよそ200機程度であり、他の計画機より有望かつ省資源であったことから優先的に資源が分配され製造が急がれた。
「ところで、この四三型は一一型よりエンジンや燃料を積む関係で爆薬量が800kgまで減ってるんだが、これや航続距離300km、カタパルトから発進と聞いて気付くことはないか?」
「……もしや、特攻に用いるなら『橘花』の上位互換ですの?」
「そのとおりだ。威力と経済性で勝り、射程は同等、発進に目標とされやすい滑走路が不要と『桜花』四三型は『橘花』の上位互換となる。さっき言った『橘花』の残存数が妙に少なかったのは、こちらにエンジンを回したからだ」
終戦後、『桜花』四三型について調査した米軍のレポートによると「もしこの兵器(『桜花』四三型)が一度発射されれば、我が軍の現有兵器では有効に阻止することはできない」としており、米軍がいかに『桜花』を恐れていたかがうかがえる。
海軍はこの機体を優先生産機とし、46年までに2000機を生産する計画だった。
「なんつーか、1000機だの2000機だのいちいち勘定が丼ぶりなのが末期らしいぜ。ホント本土決戦しないでよかったなぁ」
「ええ、全く同意ですわ。本土決戦となれば空には特攻機が舞い、地上では血みどろの地上戦が。米軍もBC兵器の使用を躊躇わなかったでしょうし、原爆の初実戦使用が九州か関東のどこかとなったことでしょうね」
「最初の原爆実験が1945年7月16日のトリニティ実験、7月26日には原爆の初期ロットがテニアン島まで輸送されていたというから8月15日のポツダム宣言受諾は本当にギリギリのタイミングだな」
話がそれたが、日本のジェット機で終戦時に機体が完成していたものはあと2種類ある。
3.日本オリジナル設計機体、という字幕とともに表示された2つの機体がそれだ。
「最後に紹介するのはこの2機、陸軍の単発戦闘機キ210『雷切』と海軍の陸攻P2Y『星雲』だな。こいつらは資料も少ないんでサラッといくぜ」
キ210『雷切』は通常の単発単座戦闘機の尾部下にそのままジェットエンジンを取り付けたような形状をした機体だった。
設計意図としては海軍の『橘花』に対する『閃電改』と同じで、鈍重な戦闘爆撃機である『火龍』に対する純粋な戦闘機としての機体である。
機体そのものに奇抜な点はなかったが、機体の設計が終わっていた『閃電改』に比べ一からの設計となったこと、陸軍は対戦闘機戦闘には旧来のレシプロ戦闘機を宛てる方針だったことから試作機が完成したところで終戦となった。
「なんと言ったらいいのやら……。今までの機体に比べますと、すごく普通ですわね」
「そうなんだよなー。別の設計案ではHe162みたいな背負式装備もあったんだが、在来機に近いこの案が採用されたんだぜ。陸軍は妙なところで堅実だよな」
最後に登場したのは空技廠P2Y『星雲』。
ドイツのAr234ブリッツに触発された高速爆撃機だとされ、双発もしくは四発で、高速偵察もしくは1.5トン爆弾による急降下または緩降下爆撃を行う予定だったとされている。
「機体形状は『銀河』のエンジンをジェット化したものだとする説があるが、どうやらこれは誤りらしい。ただ『銀河』にてネ20の搭載試験を行った試験機は存在したらしく、これに『天河』という名称が与えられていたとの説もある」
「先程から『らしい』だの『とされる』だのつかみどころがありませんわね。いっそ『青雲』とすればピッタリなのでは?」
「実はそっちの字だという説もあってな。確かに偵察も用途に入っているから違うとも言い切れない」
なお、帝国海軍の命名規則では爆撃機が『彗星』『銀河』など星に関する名前、偵察機が『紫雲』『彩雲』など雲に関する名前を付けることになっている。
ただ分類は艦攻の『流星』や急降下爆撃可能な『瑞雲』など必ずしも当てはまらないものもある。
「ものもある、ではなくっ!」
「しゃーねぇだろ、終戦のときに『星雲』の試作機含めて資料全部焼いちゃったんだから。逆に機体から飛行記録から命令書から資料をきれいにまとめて耳揃えて進駐してきた連合軍に引き渡した『閃電改』の手原中佐の方が珍しいんだぜ」
「どうして何でもかんでも焼いてしまうんでしょうか……というかさっきの新興宗教中佐、時々正気に戻って有能ムーブするのはなんなんですの!?」
「ありゃあファッション狂人だな。アタシにゃわかるぜ」
そういうわけで、外観に関しては計画時のラフスケッチと不鮮明な写真数枚しか残っていないため不明となっている。
名称から外観、用途に至るまでふわふわした、まるで雲を掴むような機体であった。
そういうわけで、外観に関しては計画時のラフスケッチと不鮮明な写真数枚しか残っていないため不明となっている。
名称から外観、用途に至るまでふわふわした、まるで雲を掴むような機体であった。
「さて、少々駆け足になってしまったが、夏の日の丸ジェットスペシャルはいかがだっただろうか」
「そうですわね、太平洋戦争の時代にも日本がいくつものジェット機を飛ばしていたことがよくわかりましたわ。この系譜が現代にまで続いているのですね」
「……そうだな。ここでの経験が後の戦闘爆撃機F−1、F−2に活かされ、今日のF−35、F−3の国際共同開発に繋がっていくことになる」
厳密には敗戦から1952年の主権回復・再軍備までの期間はGHQによって航空機の開発・保有が禁じられており、丸々一世代のブランクがある。
とはいえ第一世代ジェット戦闘機の開発経験があった影響は大きく、第三世代の三菱F−1、第四世代のF−2と日の丸ジェットの系譜は国防空軍へと引き継がれていくのである。
「では、また次の動画でお会いいたしましょう」
「「ご視聴ありがとうございました」」
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・実戦投入
8月6日朝、試験飛行が行われていた宇佐海軍航空基地より閃電改2機が出撃。第509混成部隊所属B-29の3機編隊と交戦し2機を撃墜、1機を撃破した。
翌日以降も単機あるいは少数機のB-29と何度か交戦し、基地が空襲を受けて破壊される13日までにさらに4機のB-29を撃墜している。
第509混成部隊は本土決戦時に原爆投下を行う予定の部隊であり、このときもパンプキン爆弾を用いた模擬爆撃を行う予定であったとされ、通信解析によりこの部隊を察知して迎撃を行っていたとの説もある《要出典》《だれによって?》。
──ネット百科事典 閃電改 より
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