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東海が飛べば~助かる船が多少は増える

────

 陸上哨戒機「東海」(Q1W1)は、第二次世界大戦の日本海軍の陸上対潜哨戒機である。

 設計・開発は九州航空機。

 1944年1月に制式採用された本機は終戦までに315機が生産され、86機が残存した。

 連合国によるコードネームはLorna。


──ネット百科事典 東海(航空機)より


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 一九四四年七月一八日

南シナ海 台湾高雄市沖約百キロメートル



 眼下を三匹のトンボが飛んでいる。


プレキシガラス製の眼を光らせてゆるい編隊を組んで飛ぶその機体は陸上哨戒機『東海』。

双発三座の対潜専用機で長時間の哨戒飛行を可能としている。

独国ユンカース爆撃機に似たシルエットを持つその機体は、なるほどトンボに似たガラス張りの機首と細い胴体をもっていた。


低馬力ながら信頼性のある天風発動機を双発で装備したこの機体は、決戦一辺倒の帝国海軍が送り出した最初で最後の対潜水艦専用機である。

開戦直前の9月、対米英開戦に備えた長期持久体制の構築のために沿岸哨戒機を欲した海軍が十六試哨戒機として試作を命じたのが後の本機となる機体だった。

一説にはとある中央の参謀が、「艦隊決戦結構、長期持久結構。ただよしんば勝ったとてアングロサクソンがそう簡単に諦めるはずがない。それまでに敵は必ず無制限潜水艦作戦をもって我が船団を攻撃してくる。この魂を賭けたって良い」と長官に直訴して計画を通したという。

この噂が真実であればぜひ無謀な開戦そのものを止めて欲しかったものだが、流行りの未来人が出てくる空想小説でもあるまいしそういうわけにも行くまい。

それはさておき、開発試作を命じられたのが本機と震電ぐらいしか有名な機体のない渡辺鉄工所(後の九州飛行機)という無名のメーカーというのが海軍のやる気の無さを物語っている。

機体の設計自体は零戦や陸攻のように過大な要求がなかったことから順調に進んだ。

具体的な要求は、低速で長時間飛行が可能なこと(航続時間は10時間以上)と急降下攻撃が可能なことのみであり、参考資料としてJu88双発爆撃機の資料も提供されたという。

試作機の結果が良好であったことから制式化を待たずに増加試作と先行量産が開始された。


このころ私は海軍第九〇一航空隊高雄派遣隊の一員として南方航路の防衛にあたっていた。

九〇一航空隊は本土と南方を結ぶ重要航路の防衛を任務とする航空隊で、前線で使えなくなった中攻や艦攻に新鋭の哨戒機や水上機など雑多な機種で構成されていた。

一つの航空隊という体裁ではあったが、このころ佳境を迎えていたマリアナ方面の船団護衛にも駆り出されている都合上各地へとバラバラに派遣されていた。

先年に錬成訓練を卒業した私と同期の面々は台湾は高雄へと分派された隊に爆撃隊として配属されていた。


ここで東海の対潜水艦戦術について説明しておく。


まずは敵を見つけなければ話にならない。敵発見の手段としては目視、電探、磁探の三種類がある。順に述べていこう。

目視というのは読んで字のごとく見張の視力でもって見つけるものだ。浮上中の潜水艦、潜望鏡の立てる三角波を見つけるのはもちろん、南方の澄んだ海ならばだいたい五十メートル程度の深さまで見通すことも不可能ではない。

電探とはこの頃開発された機上レーダーのことで、主に夜間使われた。この時代の潜水艦は現代のように何日も潜っていることはできず、航空機に見つかりにくい夜間には浮上していることが常だった。なので、暗くても関係のない電波探知機での索敵が行われた。

最後の磁探とはKMXとも呼ばれる日本が独自に開発した装置だ。装置の原理はいうなれば巨大な金属探知機のようなもので、数千トンの鉄の塊である潜水艦が乱す地球の地場を検知する。


具体的な発見までの流れはこうだ。

最初に敵潜水艦が居ることを察知する。方法は先に述べた夜間電探索敵の他に、定期的な哨戒飛行による痕跡の発見がある。

潜水艦に限らず船が行動するとゴミや油紋が海面に生じる。定期的に同じ場所を飛んでいれば、前日にはなかった浮遊物の痕跡に気付けるわけだ。あとはその位置を航行した味方がいないか照会してやれば、それが敵潜のものかわかる、という寸法だ。

電探なり痕跡なりにより付近に敵潜が伏在することがわかれば今度は磁探装備機の出番だ。この時代の潜水艦は水中速力が低く、一度潜航してしまうとそう遠くへは逃げられない。

磁探搭載機は三機ないし五機で一定の編隊を組み、海面を舐めるように飛んで敵潜水艦を探す。海中の潜水艦をも発見するKMX装置だが一つ欠点があり、探知距離があまり長くないのだ。

空港での手荷物検査を受けたことのある人なら想像がつくだろうが、金属探知機の輪っかは体を舐めるようにかざさないと金属を探知できない。潜水艦を探知できる距離はせいぜい百五十メートル程度で、敵ガトー級は百メートルは潜れるので差し引き海面高度五十メートルを飛び続けることになる。

このような難易度の高い夜間飛行を強いられる電探装備機と低空連続飛行を強いられる磁探装備機はもっぱらベテランが当てられ、我々のようなペーペーが乗ることはなかった。


今日この日の場合は、すでに近在に敵の群狼(ウルフパック)が潜んでいることがわかっていた。

台湾付近を航行していたヒ69船団から落伍したタンカー『はりま丸』が今朝攻撃を受け、かろうじて魚雷をかわして高雄港へと逃げ込んでいたからだ。

この通報を受けて海上護衛総隊は九〇一空へ潜水艦の掃討を命じ、こうして我々が飛ぶことになったのだ。

なので、今回は捜索の段階は飛ばして磁探搭載機による虱潰しの索敵から始まることになっている。

こうして眼下を飛ぶ三機の東海は、KMX装置を装備して敵潜の伏在位置を探すベテランのお歴々なのだ。


「お、磁探に反応があったぞ」


真後ろに座る電信員の言葉に海面を見下ろすと、海の一点が白く染まっている。なにか磁探に反応があった証拠だ。

すぐさま海図にプロットされた沈船の位置と反応のあった座標を見比べる。特に大型の沈船があると潜水艦がいなくとも磁気を探知してしまうため、この周囲の磁気源はくまなく調査され常に更新されている。

しばし待って結果は白、この座標に既知の磁気源はない。──すなわちこの反応は敵潜をおいて他にない。


そうこうしているうちに敵潜伏在海面を磁探機の編隊が往復する。

そのたびに機から信号弾が投下されて海面が白く着色される。これは磁探の反応があるとブザー音と共に自動で投下されるもので、中には金属粉が詰められていて海面を着色する。

磁探機が何度も往復するうちに続々と信号弾が投下され、海面に円形に白い痕跡が描かれる。

つまりこの円の中心に敵潜水艦が潜航していることがわかる、という仕組みだ。


以上のようにして敵潜水艦の潜航地点を把握すると、いよいよ攻撃、我々の出番となる。

潜爆隊の我々が抱えているのは二五番(二五〇キログラム)爆弾二発、部内ではこれを二号爆弾と呼称していた。

この爆弾は通常の爆弾のように流線型ではなく頭が平らとなっていた。これは頭が尖っていると水中をそのまま進んで投下地点からずれた位置で爆発してしまうためで、頭を切り落とした形にすることで着弾地点からそのまま真っすぐ下に沈んでいってくれる。

この爆弾には水上艦の爆雷と同じように水圧信管が取り付けられており、予め設定した深度で爆発させることができる。

このときの潜爆隊は三機編隊で行動しており、それぞれの機が別々の深度で爆発するよう調定された二号爆弾を抱えていた。これは敵艦の潜航深度がわからないためだ。


数度の往復の末に海面に白い円が描かれた。我々はいまからこの中心めがけて急降下爆撃を行う。

この日の私は二番機を占めていたので、編隊を解いて上昇していく磁探機を横目に長機に従って目標へ接近していく。

爆撃はだいたい高度約千メートルで接近し距離千メートルぐらいから急降下に入る。爆撃は向い風で実施するのが一番良い。横風だと流されて目標を外す恐れがあり、追い風だとだんだん海面に突っ込んでいってしまってやりづらいからだ。

照準器の光像に白い円を捉えて一機づつ投下していく。降下角四五度で照準して五百メートルを切ったあたりで投下離脱する。

通常の急降下爆撃と違って対空砲火を打ち上げてくる訳でなし、さらに精度もそこまで求められる訳でもないと演習と何も変わらないやさしいものだった。


投下離脱から数秒後、海面下で相次いで爆発。白い水柱が立ち上った

しばらく旋回していると大量の油膜と木片が浮かび上がってきたことから撃沈確実と判定した。

この日はあと三回同じように爆弾を抱えて出撃し、これを含めて一隻の撃沈確実と二隻の撃破を報告して終了となった。


戦後米軍の資料を調査したところによると、この時期台湾にほど近いルソン海峡方面にはガトー級潜水艦『ソーフィッシュ』『ロック』『タイルフィッシュ』で構成された群狼(ウルフパック)が展開していた。このうち『ソーフィッシュ』と『タイルフィッシュ』が失踪、喪失判定を受けていることが明らかになった。

おそらくこの二隻のどちらかが撃沈確実を報じた艦であろう。



──海軍第九〇一航空隊史 ルソン海峡掃討戦より


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・第四次遣独艦

伊号第二十九潜水艦(艦長木梨鷹一海軍中佐)

駐独大使館付海軍武官小島秀雄海軍少将ら総勢17名の便乗者を乗せ、1943年(昭和18年)12月17日にシンガポール出航。1944年(昭和19年)3月11日、ドイツ占領下のフランス・ロリアン入港。復路は、小野田捨次郎海軍大佐ら総勢18名を便乗させ、4月16日にロリアンを出航。7月14日に日本占領下シンガポール入港。8月3日呉に到着。第二次遣独艦伊8に続く2隻目の完全往復に成功した艦となった。

米軍はエニグマの暗号解読により台湾とフィリピンの間のルソン海峡を伊29が通過することを察知し、付近に展開していたソーフィッシュ以下3隻のウルフパックに攻撃を命じたがこのときすでに撃沈されており攻撃できなかった。


同艦には、Me163型ロケット戦闘機及びMe262型ジェット戦闘機に関する資料が積まれており、のちに秋水・橘花/火龍等の開発に……


──ネット百科事典 遣独潜水艦作戦 より


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― 新着の感想 ―
[良い点] 御参加ありがとうございます。なるほど、対潜哨戒機できましたか。こうした機体のチョイスもいいですね。 [一言] この機体も確かに登場が遅きに失した感のある機体ですからね。どのような活躍をする…
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