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今を生きろ  作者: 豆腐
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急転直下

 安住の死は事故だった?


 あのニュースは何を言っていたのだろう。教師達はどういうつもりでそんなことを言ったのだろう。


 事故なら何で自分は襲われているのか。


 懸命に走り続けた。後方にいるはずの男がどうしているのか群青には分からない。あの場に立ち尽くしているのか、それとも自分を追いかけているのか。走っている自分の足音が、自分のではない誰かの足音のようにも聞こえてきた。


 走っている通路の正面は婦人服売り場になっており、商品棚やカゴが多くある。売り場に入ると減速しかねないのでひたすら真っ直ぐ走っているわけにはいかなかった。通路は売り場の手前で右に曲がっていたので通路のとおりに曲がった。


 振り返らない方が速度が落ちないだろうとは思いつつも、恐怖から来る関心には勝てずに、曲がりざまに男が居るはずの方向へ首を向けた。


 男は群青の後方十メートル程後ろにいた。


 諦めていれば幸いだったが、男は諦めるどころか、あの夜にも見た敵意のこもった目を宿して、一目散にこちらへと走っていた。完全にこちらを追っており、諦める気配が無かった。


 見なければ良かったと群青は心から思った。依然として声は出なかった。通路を曲がってもなお人の影は見えず、自らの不運を呪った。


 だが通路の突き当たりにはエレベーターがあった。混乱しつつもこの階の構成を思い出す。階段はエレベーターからはやや離れた位置にある。選択肢はいくつかあった。


 このままこの階を走り続けてどこかに居る店員か客を探すか、あるいはさらに走って階段まで辿り着くか、あるいはエレベーターに乗り込んで一気に下に降りるか。


 最も頼りたい選択肢はエレベーターに思えた。エレベーターは二基あったが、そのうちの一基がこの階で止まっており、さらには扉が開いていた。


 つい先程に誰かがエレベーターを呼び出した可能性は高く、やはりこの階のどこかに人が居るのだと推理できたが、見当たらない以上はこの階に残るのは危険だと思えた。


 相手が追いつくより早くエレベーターに乗り付き、扉を閉める。それで助かる。ここは七階なので乗って一階まで降りることが出来れば男は追いつけず、したがって絶対に脱出ができる。一階なら確実に人が居るし通報することも容易い。


 開いている扉が閉まるよりも前に入ることができるかが不安だった。間に合ったとしても男が乗り込んできては最悪だ。


 決断は賭けだったが群青は決断して、全力を投じることにした。


 相手がどういうつもりなのかは知らないが、死にたくはないのだ。


 群青はもう後ろを振り向かなかった。既に後方の男も通路の角を曲がって追い続けているのだろうが、それを確認する必要は無かった。


 エレベーターまで二十メートルも無いが、長い長い距離に感じた。永遠に辿り着けないのではないか、という不思議な錯覚にも襲われた。


 エレベーターがチン、と短い音を出した時、群青の危機感は再度活性化した。エレベーターが閉まる音だった。


 なりふりかまっていられなかった。後何メートルなのか、あと何秒かかるのか、そんなことを考えている余裕は完全に無くなり、速く走ることに全神経を注いだ。そしてエレベーターの扉は閉まり始めた。


 最後には強く地面を蹴っていた。飛び込むように群青は一思いにエレベーターに突っ込んだ。


 身体ごと行ったが扉に激突はしなかった。閉まる扉の隙間をすり抜け、まるで吸い込まれるように何の引っ掛かりもなく、群青の身体はエレベーターの内部の空間に収まった。


 奇跡だ、と群青は思った。群青が飛び乗ったコンマ数秒後には、扉の隙間は絶対に人が入れない程まで狭まった。


 振り向いた群青は隙間から通路を覗いた。前方では男がこちらへ向かって走っていた。あと二秒程度で到着する距離感だった。間に合ってくれ、と群青は心から願い一階のボタンを押した。


 扉が閉まった。あとは開くボタンが効かなくなるその瞬間まで待つしかない。願うようにその瞬間を待つ群青だったが、新たな恐怖に襲われた。


 男は拳を振り上げた。そのまま止まることなく走り続け、そしてエレベーターの目の前に着いたと同時に、最大の助走をつけたかたちで全体重を乗せた拳を打ちはなったのだ。


 ドン!


 全力の拳の衝突だった。轟音が響いた。衝撃がエレベーターの内部を走り、群青にも伝わった。


 拳から勢い良くぶつかった男の姿は、エレベーターの扉に窓が付いていたので、群青は一部始終を真向かいから見ることになった。


 激しくぶつかった拳には当然痛みがあるはずだが、男は意に介さないかのように窓を通してエレベーターの内部を見ていた。つまりは群青を睨んでいた。刃物のような鋭い目付きだった。


(化け物だ)


 群青にはその感想しか出てこなかった。もしエレベーターに間に合っていなかったらこの勢いのままに襲われていたのだ。相手の安否を一切鑑みないような、あの勢いの拳で殴られていたのだ。殴られるだけで済んだのだろうか、殺されていたのではないだろうか。


 暴力的というよりこれはもはや狂気だと群青には感じられた。そうした印象が生まれるのに併せて、一つの結論も生まれていた。


 やはり、こいつが安住を殺したのだ。


 恐ろしい事実に受け入れ難い気持ちはあったが、しかし事実として自分は狙われたのだ。目撃者の口封じなのかは確信がつかないが、恐ろしい現実だった。


 しかしどうにか狂気の男からは絶対に侵入できないに場所にたどり着けた。そう確信したのは睨んでいた男が一手遅れて外の開閉ボタンを押した時だった。


 エレベーターは反応しなかった。既に降下に向けた機械処理を始めていた。これではもうどうやっても開くことはない。あと一秒程度でエレベーターは下降し始めるはず、と群青は考えた。


 心に余裕が戻ってきたのを実感した。その時だった。


 突如鈍い音がして激しくエレベーターが揺れた。また男が勢い良く殴ったのか、と最初は考えたが、男はただこちらを睨んでいるだけだった。


 それに先程の振動とは比較にならないほどの揺れだった。機械が擦れるような鈍く不快な音も聴こえていた。とても人の拳で扉を殴って起きるような音では無かった。


 群青は辺りを見回して探るがエレベーターの内部は、見た限り異常な様子は無かった。だが平衡感覚の異常に気づいた。


 エレベーターが微かに傾いている。


 再び異音がした。エレベーターの上部から聞こえてくるようだった。只事では無いと思える程の、何かの部品が潰れていくような圧壊音だった。


 ガクンと大きく揺れた瞬間、ほんの僅かな時間だったが浮遊感を感じた。どうしてこんなことに、と群青は心の中で呻いた。


 エレベーターがわずかに落ちたのだ。


 窓の外を見ると依然男はこちらを眺めていた。エレベーターがわずかに落ちたことで、男から見下ろされるかたちになっていた。


 男が極めて冷静でいるように群青には見えた。目の前でエレベーター事故を、偶然に目撃した人間の表情では無かった。その表情は静かなる敵意と確かな殺意を宿しているように見えた。


 その眼差しを見たとき、群青の脳裏には男がエレベーターを殴りつけたあのショッキングな光景が広がっていた。


 あの拳、あの攻撃はただの感情に任せた一撃だったのだろうか、何故あのような愚行に走った男が、数秒後にはこんな冷静な面持ちでこちらを観察しているのだろうか。


 ――男はエレベーターが故障することを分かっていたのだ。


 そうとしか思えなかった。そしてエレベーターはもう安全運行で一階に降りていくことは無いということも分かりかけていた。機械の異音はどんどん大きくなり、もはやエレベーターの上部だけでなく下部からも聴こえてきた。


 群青は何も喋らなかった。恐怖で言葉を紡げなかったからでもあり、喋ったところで扉を挟んでいる相手には聴こえないと思っていたからでもあるが、一番の理由は既に事態を理解しつつあるからだった。


 聞かずとも相手が何をやったのかを、既に感覚的に理解していたからであった。


 確信していた。こいつが、この男が壊したのだ。先程のあの拳で。


(このエレベーターを、何らかの『力』で…)


 エレベーターからどこかの部品が取れたようなバキッという不愉快な破壊音がした。その事象がエレベーターにとっては致命的だったらしく、その場に留まることを諦めてしまった。


 ほんの一瞬で真下へと恐るべき速さで落ち始めた。刹那の時間で群青の視界から男が消えた。逆もそうだった。


 容赦のない速度は確実に生命を殺す速さだった。自分の不運を呪う余裕も無く、高速でエレベーターと群青は暗闇に消えていった。


 それで全てであり、それで終わりだった。


 ほんの数秒後に、デパートの一階を通り越して地下一階で重機が不時着する音が、デパート全体に激しく響き渡った。


 機械が潰れる音も響き、衝撃は既に見えなくなったエレベーターを見下ろしている男のもとにも届いていた。


 残酷を宿した破壊音だった。死は決定的だった。

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