僕らは怯えて、震えている
「群青…」
腕を前方に向けた筒井は、手を群青の胸部に触れた。木田を倒した時と同じ動作をされていることに、群青は気づいた。
「筒井、木田に何をしたんだ」
「…」
ナイフを目の前に向けられているような感覚を受けて、群青は身動きすることが出来なかった。椎名も怯えて動けない様子だった。
「今さらもう戻れないということさ」
筒井はそう言うと群青から手を離した。横を通り過ぎて階段を下りる。そのまま下の階まで降りようとしていた。
「筒井!待ってくれ!」
刃物を下ろされた気分の群青は、去ろうとする筒井を思わず引き止めた。
まだ戻れるという淡い期待があった。筒井の腕を掴んだが、それを筒井は鋭い睨みで返した。
「触るな!」
その瞬間、群青の身体に衝撃が走った。膝から力が抜けて身体は崩れ落ちた。
「やることを決める、というのは良いことだ。シンプルな生き方ですごくいい。これからは自分が何をしたいかだけを考えることにするよ。俺にしかやれないことをな」
その発言はどこか正義を背負って行動している、使命感のある男の発言にも聞こえた。正義のマントを肩にかけているような佇まいすら感じた。
「木田とお前が見せてくれたんだ。裁くという行為の純正さを。悪だと思うものは、世の中にとって必要無いと思えるものは全て消すべきなんだ。そのために『コレ』はある。俺はそれに気づいたんだ」
そう言って去って行った。
どこへ行こうとしているのか。筒井の発言を聞いて、群青は勘づいた。
筒井の姿が見えなくなった後、恐怖が解けて椎名が木田に近寄る。何らかの原因により筋肉の力が抜けていた群青も、屈んだまま木田に近づく。
「木田!」
身体を軽く揺すった。反応はなかった。身体の強打によるものではなかった。身体の中で何かが起きている気配があった。
「ねえ、心臓が動いていないよ…」
椎名が言う。これ程までに弱々しくうろたえている椎名を群青は初めて見た。群青も木田の胸に触れたが、確かに何の鼓動も感じられなかった。耳を付けても一切聞こえない。
「AEDだ!」
群青が叫ぶ。
「椎名、確か学校のどこか…多分保健室の近くにAEDがあるはずだ!それを探して木田に使ってくれ!」
そして立ち上がり、どこかへ行こうとする。椎名が群青の服の裾を掴む。
「待って!私、使い方なんて分からないよ。それにどこへ行くの?」
「使い方は、AEDの箱の中に説明が書いてある!僕は筒井を止める!」
「止める?何を?」
言われて群青は苦い顔をする。群青の予想は辛いものだったが、多分当たっている気がしていた。
筒井とは、そこそこ長い付き合いなのだ。何となくだが分かっていた。
「多分、香田の家だ…!彼は正義を実行しようとしている!」
…筒井と安住は同じ高校へ入学した。その数週間後のとある放課後。
安住は極めて暴力的だった。イラついていて目つきは悪く、今もにも激怒しそうであり、今にも泣きだしそうな表情でもあった。
何があったのか筒井は全く知らない。だが呼び出されて、いつものマンションの外階段の踊り場に来た。
来るなり安住はポケットから何かを取り出した。画鋲だった。どこかの掲示板に刺さっていた物を拝借したのだろう。
「筒井、目を開けろ」
どういう意味か筒井は理解したが、理解したくはなかった。夕日を背景に佇む安住は、死神のように真っ黒なシルエットを浮かべ上がらせていた。表情は逆行で見えない。
「嫌だ」
「うるせえ、目を開けろ」
そして画鋲を持っている手とは反対の手で筒井の胸ぐらを掴むと、そのまま肘を突き出して筒井の胸に一発入れた。
「ううっ」
筒井が呻いて地面に手をつくと、安住は筒井の左手を踏みつけた。痛みで顔が歪んだ。
通常、安住は服から出ている部位はほとんど傷つけてこない。だがこの日は明らかに様子がおかしかった。これまで以上に明らかに乱暴になっていた。
安住はさらに詰め寄り、逃げられないように押さえつけた。恐ろしい速さで画鋲を顔の前まで突きつけた。
「やめてくれ!」
筒井が止めても無駄だった。
画鋲は瞼の目の前まで来ていた。あまりの恐怖で瞼を強く閉じた。だが安住はそれを指でこじ開けた。
こじ開けられて現れた視界の中央には、銀色に見える小さな点があった。画鋲の先端だった。
「やめて!!」
「これ以上動くと、マジでうっかり刺さるぞ」
身体の芯からの恐怖で、本当に刺さるかもしれないという恐怖で、身体を動かせられなくなった。点に見える画鋲の先端が僅かに大きくなっているのが分かった。近づいていた。
…あの時の恐怖はどんな言葉でも表せられない。筒井は確かに感じた。眼球の、膜の部分に何かが触れたのを。
安住は寸止めではなく、画鋲の尖端を眼球に触れさせていた。
「あと一ミリでも動かしてみろ。失明するぞ」
それは脅迫であり、事実の宣告でもあった。
筒井はあの時の視界を二度と忘れないだろう。もはや視界を大きく占めている銀の針、その根元を掴んでいる安住の指。そしてその奥で僅かに見える安住の表情。
無表情だった。怒りや憎しみを筒井にぶつけているのではない。相手が筒井である必要が無いからだ。
誰でもいい。暴力を振るえるなら誰でもいいという衝動の矛先が、たまたま筒井だっただけ。その行動には何一つも背景が無い。根拠の無い暴力が目の前に広がっていた。
それは悪だ。悪が目の前に広がっている。
ふと前に、安住に言われた言葉を思い出す。
(世の中は「する者」と「される者」で別れるんだよ)
自分はどっちだ?
その日から筒井は何度も繰り返し考えた。自分はどっちだ?自分は永遠に悪を『される者』なのか?安住は永遠に悪を『する者』なのか?
そんなことはおかしいはずだった。許されないはずだった。しかし安住は悪で強く、筒井は悪ではないのなら正義のはずだが、しかし弱かった。
ふと筒井は自分の内面を覗く。安住が知らない筒井の秘密が一つあった。それは自分にとって『何のためのもの』なのか見当が付いていなかった。完全に持て余していた。
もしこれを上手く使えたら、もしこれを正義に使えたら、自分は『される者』では無いかもしれない。
考えは止まらなかった。妄想は推測になり、計画になり、現実になった。
人気の無い橋に呼び出して不意をつき、身体に触れて『ソレ』を発動した。筒井が考えていた以上に『ソレ』の力は絶大だった。
直後、一瞬安住は呻いた。その声を聞いた時に、筒井の中で恐ろしくどす黒い感情が一気に溢れた。止めどない憎しみだった。そして、これは正義なんだという実感を覚えた。
安住が橋から落ちた時、激しい水音を聞いて筒井は震えた。そこから走って逃げ出したが、しばらくして死んだかどうかちゃんと確かめなくては、と不安に駆られて戻った。
怖かった。しかしやはり正義の感覚は消えていなかった。自分は間違っていない、この世の悪を消したのだ、そう言い聞かせていた。
しかし橋に戻って下を覗いた時、安住の他にもう一人が川に居て、その人物がこちらを睨みつけていた。そして、
「筒井?」
横を見ると、群青が居た。
何故、どうして。何かがおかしいという感覚が芽生えた。
全てが上手くいったと思ったのに、何かおかしなことが起きつつある――。
香田の家に行く、そう椎名に告げて群青は走った。
無我夢中だった。走っている最中、胸に突きつけられた筒井の手と、その時の筒井の表情を思い出す。
あの時、殺すつもりだったのだろう。事実木田を殺すつもりで攻撃していた。だが自分は結局殺されていない。
それであれば、まだ間に合うはずだ。
高校から香田の家へは十五分ほどかかった。一度しか行っていない家なので、正確な道筋を辿ることができなかったのだ。
間に合ってくれ、と群青は願うばかりだった。
倉庫が見える所まで近づくと、シャッターが開いていることに気がついた。
「筒井!」
中に居るであろう香田のことは気にせず、敷地に入るなり群青は叫んだ。
シャッターまで走り手で触れてみるが、香田の『マングラー』は発動されておらず、縁に触れても傷つかない。
一階には誰の姿も見当たらなかった。見回していたその時、ロフトから物音と呻き声がしたので、群青はハシゴをかけ登り上へ向かった。
ロフト内を見るとそこは香田の居住空間だった。
前回来た時は見なかったが、中は四畳半程度の広さで、成人でも問題無く立てる高さがあった。ベッドやタンスなどの家具や、細々とした生活用品が置いてあった。
そしてそこに筒井が居た。何かを握っていて、それをベッドの上で横になっている香田に向けていた。
香田は起きているが、様子が変だった。仰向けになったまま口で激しく呼吸しており、胸部が大きく上下に動いているのが群青の位置からでも分かった。まるで重度の病人のようだった。
また香田は、筒井が持っている物を見て心底震えているように見えた。
筒井が持っていた物はあの時、香田が使用していたエアガンだった。
「筒井!」
群青はハシゴを登る途中のまま、頭だけ出して筒井の名を叫んだ。
「それ以上近づかないでくれ。群青」
筒井はこちらを見ず冷静に言葉を放った。エアガンを香田に突きつけ続けている。危険な状況と判断して、群青は動きを止めた。
「寝ているコイツを叩き起こして『マングラー』とやらでもう一度弾を鋭利にしてもらった。相当拒絶されたけどな。自分が撃たれる予感もしていただろうし」
「香田に何かやったのか」
そこでようやく群青の顔を見た。筒井は興奮しているのか顔色が紅潮しており、微笑んでいるのが薄暗がりでも分かった。
「俺はこれを『ハプニング』と呼んでいるが、人間に使うと色々な効果があることは最近になって知ったよ」
「『ハプニング』…それは『振動』だな?」
群青が指摘すると、筒井の笑みが急速に消えていった。
「もう、分かったのか」
群青の洞察力に警戒しているようだった。
「木田の胸に手をやって『能力』を使った後、すぐに木田は倒れた…。外傷は無かったが心臓が止まっていた。身体の内部に何かをしている。そして君を掴んだ僕の手は途端に震え出して、その震えは身体にまで上ってきて足にも伝わって、とても立っていられなかった。その時に理解したんだ」
「確かに直接自分が感じたのなら、どういうものか分かってくるか。木田や安住はそれが分かる時間の余裕も無かっただろうがな」
「君は木田の胸部に手を付けていた。それは、そうする必要があったからだ」
群青は筒井の『能力』の秘密を完全に解いていた。それ故に木田への攻撃と安住を殺した攻撃が同じ手段であったことに、悲しみを覚えていた。
「心室細動、だな」
「そうだ」
筒井の『ハプニング』は触れたものに振動を与える能力である。腕や足に触れて振動を伝わらせても、全身が痺れたり力が抜けたりする程度で殺傷性は全く無い。
だが胸部、心臓に直接振動を伝えた際は心臓が『心室細動』を起こして意識を失う。
そのまま放置されれば、心不全により死に至るのだ。




