安住という男
筒井司が小学四年生に進級した時に虐めは始まった。クラス替えで安住彰と一緒のクラスになり、それからだった。
きっかけは何だったのだろう、とふとした時に筒井は思い出して考える。何故自分が選ばれたのだろう、と思いにふけるが、しかし答えは出ず何一つ思い当たらない。
つまりきっかけなどは無く、あの時の虐めはただ純粋に不条理な暴力だったのだ。
虐めてきたのは安住をリーダー格とするグループだった。最初はすれ違った時に小突かれたり、前を歩く時に足を引っ掛けられたりされた。
次第に先生の見えない所で身体を殴るようになり、体育の時間やグループ行動の際に除け者にされるようになった。
この頃になるとクラスメイト達も状況を把握し始めたが、それを止める生徒は居なかった。
体育服が無くなり、探した挙句に誰も使っていない埃だらけの汚い下駄箱に突っ込まれていた。水着が無くなり、女子トイレの中に落ちていることをクラスの女子に教えられた。女子トイレに入って水着を回収した時、何故か蔑まれたのは安住達ではなく筒井だった。
登校拒否をしようと思ったことが何度かあった。だが実現することはなかった。筒井は両親に虐めのことを話さなかった。
意図しているのかは不明だったが安住の虐めは巧妙で、傷や痣が残るような暴力は行わず、服を激しく汚すといった行為もしなかった。ただ筒井の精神に傷を刻み込むような虐めを毎日行っていた。
はっきりとした物証は残っていないことが、両親や教師へ告白する勇気にブレーキをかけていた。信じてもらえないかもしれないという不安があった。
だが筒井は、両親にバレていないことにむしろ安堵すら覚えていた。虐めにより卑屈になった筒井は、隠すことばかりを覚えてしまい、打ち明けることや悩みを他人に共有することを忘れてしまった。それを思い出させる人は周りに居なかった。
小学四年生は孤独な一年間だった。
たった一人だけで生きていけるならどれだけ楽か、と何度も考えた。しかし実際は同年代が多数居る大きなコミュニティにおいて、耐え難い孤独を強制されていた。それは卒業まで続いた。
卒業して、筒井は家から少し離れている公立中学へ進んだ。違う地域の学校に行ってみたいという筒井の希望を受けた結果だった。
安住を恐れてのことだったが、一方で安住は受験して進学校へ行った。
筒井は解放された。
中学の筒井は、失っていた青春を取り戻すように学生生活を楽しんだ。部活にも入って大いに楽しんだ。それまで絶望と無気力に苛まれて、ろくに出来なかった事柄を全てやり始めた。
何のしがらみも無い生活というのがこうも楽で明るいものだとは、と筒井は素直に嬉しんだ。勉強にも励むことができた。
クラスメイト達と戯れてグループを作り、色々なテーマで語り合い笑い合う楽しみを覚えた。
それらはこれまでのどこかで落としてしまい無くしてきたものだったが、それらを一つずつ、拾い集めた。
結果的には卒業までには別れてしまうのだが、彼女が出来た。人生の楽しみを知った筒井は恐れを持たず、積極的に残りの青春を味わうべきだと思っていたので、何事においても同級生より意欲的だった。
群青とも知り合った。群青はその頃も無気力で無関心だった。周囲からも無個性と思われていた。それ以上でも以下でもなく悪さも働かなかったので、学校の誰も群青のことを、疎んじず、厚遇はしないが冷遇もしないで共同生活を過ごしていた。
筒井は群青を見て、かつての絶望の日々を過ごした自分を見ているような気がして頻繁に話しかけた。
群青は誰かに虐められていたわけではなく、生来の性質で暗かったが、こういう人間の暗さもあるのか、と筒井は群青の姿勢を観察していた。
中学三年生になり受験生になった。筒井は塾に入学した。意欲は依然として漲っており、どこまでも能動的に行動しようと考えていた。それゆえに自ら入塾を決めた。
しかしこの選択は良くなかった。間違いだったという表現は適切ではない。筒井は間違っていないのだ。
ただ決定的に運が悪かった。
通った先の塾には安住が居た。それまで安住が住んでいるとされる地域には行かないようにするなど努めてきたというのに。
安住を見つけた時、恐怖、絶望が襲った。吐きたくなるほどの衝撃だった。だが安住は筒井にほとんど反応しなかった。目が合った際に安住はやや驚いていた様子を見せていたが、その後は話しかけてこなかった。
性格が変わったのだろうか、それとももう過去に虐めた奴のことなど、どうでもいいのだろうか。とりあえず筒井は安心した。
塾はすぐに止めようかとも考えたが、続けることにした。
しばらくは本当に何も無かった。関わりが無かった。だがある日、塾から出て帰る時に安住に話しかけられた。
「おい筒井」
凍るような思いだった。
筒井は塾の裏にある空き地に呼び出された。安住は凄むような態度で、決して友好的ではない様子だった。
「随分久しぶりだな」
「…うん」
「少し明るくなったようにも見えるな」
「…」
筒井は、この数年間に自分を取り戻していた。だがいざ安住と再会して直接話しかけられると何も言えなくなり、言葉は一つも出てこなかった。
どうなってしまうのだろう、という不安だけが支配していた。意欲も向上心もたちまちに萎んで、過去の暗い影が足元へ戻ってきたようだった。
「俺が居なくなって、ほとんど知り合いのいない中学へ行って、もう誰にも虐められなくなったのか」
「…」
黙っていると急に鉄拳が飛んできた。それは的確にみぞおちを打ち込み、筒井は「ウエッ」と蛙の鳴き声のような惨めな呻き声を吐いた。
殴られつつ思い出していた。かつて虐められていた頃から、安住は積極的に暴力を振るうタイプではなかった。嫌がらせの方が多かった。
しかし時に、唐突に暴力を振るう時があった。筒井にとって安住とは予想できない災害のようなものだった。
「随分立派になったんだな」
呻き、苦痛で身体を丸めている筒井へ見下ろすように安住は言う。
「俺が居るからって塾を辞めるなよ」
全てが戻ってしまったのだと筒井は絶望の中で感じていた。そして反抗する気が全くない自分自身を見て、また深い絶望に落ちた。
安住は不安定な男だった。基本的には明るく優しい雰囲気を漂わしている生徒だった。筒井に一切絡んでこない日もあった。
だが日によっては、誰も声を掛けられない程、陰気な気配を放っていた。そういう時は塾が終わるとすぐに筒井に声をかけてきた。
二人が行く場所は空き地であったり、マンションの誰も来なさそうな外階段の踊り場だったりした。時間は十五分、長くても三十分程度で、その間安住は筒井を殴り、蹴った。
安住は以前よりも明らかに暴力的になっていた。暴力の他にも酷い暴言を吐き散らかすなど、完全にストレスの解消になっていた。
暴言は心を閉ざして聞いていたので、自分の深奥まで響いてこなかった。辛かったのは暴力の方で、基本的には目立たない箇所ばかりを酷く打たれた。
安住は時たま酷い暴力衝動に駆られるのだった。それを満たすためだけに筒井は居た。
安住は全くの無根拠で理由のない、理不尽極まる暴力を受け止めてくる対象を探していた。
安住が何故そうなったのか、何故続けるのか、機嫌の悪い日には何が起きたのか、筒井は最後まで知ることは無かった。それは安住自身の人生にかかる話で、筒井は知りたいとは思わなかった。ただ安住の病的な怒りを受け止めていた。
安住と筒井の高校の進学希望先が同じだったことも、意図的だったのか偶然だったのか、知ることは無かった。
筒井は進学先を安住には教えていなかったが、結果として二人は同じ高校に入学することになった。
「世の中は『する者』と『される者』で別れるんだよ」
ある時、安住が言った。
「俺は常に『する者』で居たいし、そのためにはお前みたいな『される者』が多く居ないといけないんだ」
その時はもう何発も、筒井の服の下の腹や背中や腿や足を殴り蹴り、筒井は無気力に階段に座って項垂れていた。
安住は小休憩とでも言うように少し離れて、踊り場から外を眺めていた。八階だったのでそこそこ遠くまで見渡せた。
「別に、お前じゃなくてもいいんだ。誰でもいい。ただ俺はこういう性分で。こうしないと上手く生きていけない。だが俺はそれでも満ち足りて生きていきたい。だからお前みたいなのが必要なんだよ」
それはある意味で、唯一聞いた安住の弱音だったのかもしれなかった。




