群青という男
生きなければ。死にたくないのなら。
人は死に対して恐怖を感じる。どんなに生きることに投げやりな者でも、死を避けるには生き続けなければならないと考える。
生きたくないとしても、死ぬよりはマシだと思うからだ。
だがそんな想いで生きる『生』は『死』に比べてどれほどの価値があるのだろう。
我々は生きる。我々は生き続ける。
だが生きることには本来、理由があるべきではないか。
何のために生き続けるのか、強い生への執着を感じる理由があるべきではないか。
これは理由を探す物語だ。
群青譲一は生きることの幸福を忘れていた。自殺衝動に駆られたり鬱病を患ったりしているわけでは無かったが、ただ前向きに生きていこうという気力が無かった。
同い年の学生は勉強やスポーツや、何らかの趣味に夢中になっている。家族や友人や恋人といった他人との繋がりを重要視している。しかし群青にはそれが無かった。趣味が無く、友情を抱けず、家族への愛が失せていた。
思春期は誰しもが悩み、一時的にせよ孤高の道を歩む者もいる。だが群青はそうでは無かった。その精神状態は思春期によるブレでは無く、もっと根本的な部分での問題だった。
群青にとって致命的なのは何らかの主義や思想をもって孤高に生きているのではなく、純粋な無気力ゆえに何にも興味を得られず、何の繋がりも求めていないということだった。
現状を打開しようという気力も無かった。それは群青という人間にとって最大に致命的なことだった。焦燥も危機感も無かった。もっと精神的に豊かな人生を過ごしたいという憧れが絶滅していた。
身体は健康で十六歳らしく体力に溢れて、生命力に満ちていた。だが心は死んでいた。若くて強い身体の内部は腐りつつあった。いずれは内部から滅びて一切が駄目になり、世の中から消え失せて、誰からも忘れられてしまう未来が待っていた。
今生きているのは、ただ死にたくないから。
それだけの理由で漫然と生きているような、そんな少年だった。
五月中旬、ゴールデンウィークも終わったこの時期になると、自然とクラスメイト達は打ち解け始めてあちこちでグループが生まれる。しかし群青はいずれにも属していなかった。
「群青くん、皆内先生が入部届け出してないのは残り群青くんだけだって、さっき気にしていたよ」
朝礼前、自席で本を読んでいる群青にクラスの女子が話しかけてきた。声をかけられた群青は本から目を離して顔を上げる。
「ああ、ごめん。あの用紙無くしてしまったんだ」
「選ぶ部活の有り無しを決める用紙だから、どっちを選ぶにしても出さないといけないんだよ」
「入部はしないとは決めてはいるんだ」
「じゃあ私が先生に伝えとくよ」
「ごめんね」
「ううん、学級委員の仕事だし」
快活に答えた女子はそう言って教室を出た。先生の居る職員室へ向かったのだろう。あの女子が学級委員であることを、群青はその時初めて知った。
(名前は何というんだっけ…)
忘れたというより最初から知らなかったのだろう。答えは決して出てこない。すぐに諦めて読書に戻った。
自分は恵まれている、と思っていた。自分のように無気力でつまらない人間をクラスメイト達は温かく受け入れてくれていた。少なくとも入学してからのこの一ヶ月間半、学校生活で不愉快な思いをしたことは一度も無かった。
群青がいる西武高校、一年A組の生徒達は穏やかで、程良く陽気でそれなりに真面目だった。
だが群青自身が周囲の陽気や活気に影響を受けることは、特に無かった。
昼休み、校舎内の食堂で自前の弁当を食べていると、テーブルを挟んで向かいの席に男子生徒が座ってきた。
「オッス」
「やあ」
顔見知り、同じ中学だった筒井司だった。
「また一人で食べているのか」
「落ち着くからね」
「まぁそれならそれが一番良い」
そう言いながら筒井は自分の弁当包みを広げ出した。
「筒井、手をどうしたんだ」
気づいた群青が筒井の左手を指差す。左手の甲には大きめの絆創膏が貼られていた。
「…ああ、これ部活でコケちゃってさ。怪我した」
筒井は陸上部に入っている。グラウンドで練習している姿を群青は何度か見かけていた。
「部活はいいぞ。群青はどこに入るのか決めたのか」
「今朝、先生に入らないことを伝えたばかりだよ」
「もったいないな。時間や体力に余裕があるなら、何でもいいから何か始めた方がいいぞ」
筒井の助言には説教臭さはなく、率直な感想だった。
「特に興味が湧かないんだよ」
「今を大切に生きろよ。本が好きなんだから文芸部にでも入ったらどうだ」
言われて群青は苦笑する。
「筒井は文系の部活に全然興味が無いんだろ。ここは文芸部は無いんだ。昔は校舎の隅の教室で細々やってたらしいが、僕らが入学するだいぶ前に廃部になったんだ」
「本当に全然知らなかったわ。それならお前が作って復活させればいい」
――筒井とは中学二年生の頃からの付き合いだった。中学の三年間は全て同じクラスだったが、一年目には殆ど関わりは無かった。二年に進級してから何となく会話するようになり、三年目には最も近しい知り合いになっていた。
そして特に進学先について話し合ったわけでは無かったが、たまたま同じ高校に入学していた。今ではクラスは違うが、こうして昼休みに一緒に弁当を食べる程度の関わりが続いている。
筒井との昼休みの他愛無い会話について、居心地は悪くないと群青は思っていた。だが特別楽しいというわけではなく、筒井に対して群青はどこか淡々としていた。筒井に話す言葉にも込められている感情は希薄だった。
「僕にそんな行動力は無いし、本を読むだけなら部活を作る必要は無いよ」
筒井とは一度も休日に遊んだことが無い。一緒に登下校したことも、昼休みや放課後に一緒にコンビニに行ってお菓子を買ったこともない。
連絡先は交換しているが学校行事の連絡などにしか使ったことがなく、筒井がどこに住んでいるかも知らなかった。遊びたいと思ったことも、家がどこか知りたいと思ったこともない。
「そうか。でももし部活を自分で作って精力的に活動させれば、さぞかし高校生活というものが豊かになるだろうなあ」
「そういう願望は、僕は特に持っていないよ」
話しつつ群青は物思いにふける。これは友情なのだろうか。きっと違うと思う。
これはただの顔見知りだ。
「群青くん、放課後に十五分くらい話せないかな」
終業のホームルームが始まる前に、担任の皆内先生に声をかけられた。
「今、順番に皆と面談をしているんだ。入学して一ヶ月経ってどんな感じかとか。あとは進路とか」
「はい、分かりました」
特に放課後の約束事も無ければ、部活も無い群青は二つ返事で承諾した。
…放課後、指定されていた部屋の進路指導室へ行くと、既に皆内先生は座っていた。
「どうぞ座って~」
気楽な感じで座るよう促す。皆内先生は平静から穏やかな話し方をしてくる人だった。
皆内先生の年齢は二十五歳、高校教師達の中では断トツに若い。
教育実習を終えて最初に赴任してきたのがこの西武高校だった。ややおっとりした性格だが明るく快活で、美人でもあったので男女共に人気だった。
群青が座ると皆内先生は早速質問してきた。
「どう?高校生活は」
「今のところ、中学と特に変わらないです。普通です」
そっけない言い方ではあるが虚飾しても仕方が無いと考えていた。
「そっか。ある意味リラックスできてるのかな。そういえば今日聞いたんだけど、部活には入らないんだって?」
「はい。特に興味のある部活は無いんで」
「確か中学の時も特に入らなかったんだっけ…。何かやってみたいスポーツとか、スポーツでなくても始めてみたい趣味とか、ない?」
「特に…無いです」
「そっかー。まぁ趣味は多ければ多いほど良いのかというと、そういうわけでもないしね…」
そう言うと皆内先生は「うーん」と考え出す。
「この面談の趣旨として、卒業後の進路についても聞かないといけないんだけど、群青くん多分『特に決めてない』って答えるでしょ」
「そうですね。特に今のところ決めて無いので。というか入学したばかりなのに進路の話なんて早いですね」
「一応進学校だからね。でも群青くんに関しては、そんな話は脇に置こうか。もっと日常の話をしよう」
提案されるが、その話題になったとしても回答にやや困ってしまう。
「放課後はどっかに寄ったりするの?」
「とくに。家に直帰するか、あるいは市の図書館とか、公民館の休憩ブースに寄ったりします」
「へぇ。そこで何しているの」
「本を読んだり、宿題があればそれを片付けたり…あるいは、何もしないです」
「何も?」
「はい」
「椅子に座っているだけ、みたいな?」
「そうです」
皆内先生がこちらの意を汲もうとしているのは感じられたが、これについては共感を得られていない気配が伝わってきた。
「うーん、それは楽しいのかな」
「楽しくはないです。ただやりたい事が無いと、そんな感じです」
「休日は何をしているの」
「似たような感じです。家で本を読んでいるか、特に何もしていないか。あるいはファーストフード店に行ったり、街を歩いていたりしています」
「あ、散歩が好きなんだ」
「好きというか、特にやることが無いので、延々と歩いているだけです。買い物とかは特にしないです」
「公園とか歩くのかな」
「そういう時もあるけど、デパートとかショッピングモールとかも歩きます」
「でも買い物はしない?」
「歩くだけです」
「風景を楽しんでいる?」
「いえ、歩くだけです」
皆内先生は納得しかねる、と言いたげな感じで肩をすくめた。今の様子は生徒の性格を分析する先生というより、一個人としての素直な反応に見えた。
「それじゃまるで時間つぶしじゃない」
「そうかもしれないですね」
「普通の時間つぶしって、次の用事が出来るまでって終わりが決まっているものだと思うけど、群青くんは?」
言われて少しの間考える。十秒ほど群青なりに真剣に考えたが、
「無いのかもしれないです。用事なんて、そんなものは考えないまま、時間つぶしだけをやっているのかもしれません」
決してふざけているのではなく、からかってもなく、素直にそう答えが出た。
普段なら学校を出て帰路に向かうのは午後四時頃だった。しかし今日は面談があったので校門を出た時は五時前になっていた。
直帰するという選択肢もあったが、何となくの判断で公民館へ向った。
群青は徒歩通学なので移動も徒歩だ。公民館は午後九時まで開いており、休憩ブースは喫茶店などと比べると客は少なく、滅多に人が来なかったので時間つぶしの場所として群青は重宝していた。
公民館でやることは皆内先生に話したとおり読書するか勉強するかで、それらに疲れるともう何もせずぼんやりと過ごすのだった。
家が嫌いというわけではない。家族に愛されていないことも無いはずだ。だが何となくまっすぐ家へ帰りたくない時がある。そんな時、群青は適当な場所へ寄り道して、家族に心配されない午後七時くらいまで外に居るのだった。
この日も午後七時くらいに公民館を出て帰路に就いた。公民館から自宅まで徒歩で十五分弱というところなので、当初の予定より帰るのがやや遅くなってしまった。
季節は五月、寒くはないが外はすっかり暗くなっていた。
公民館からの帰り道の途中には大きな国道がある。国道の横には川が並行して流れており、公民館を出た際には信号で国道を渡った後、橋で川を渡らねばならない。
川の横幅は二メートル半ほどで、道路から五十センチほど下を流れている。川の両端はコンクリートで作られた堤防で囲まれている。川の上に架けられた橋は数百メートルおきに設置されているが、公民館から家への最短距離の途中にある、普段最もよく使う橋を今夜もいつもどおり渡った。
群青の住む西武町は閑静な住宅街だった。商店も少ないので夜はいつも静かだ。群青が今歩いている地域も人通りが少なく、家までの間に誰ともすれ違わないということも多々あることだった。
だが今夜は珍しく、橋に人が立っていた。
街灯は橋より少し離れた場所立っているため橋の上は薄暗い。それでも立っている人物はシルエットからして男であることが群青には判断できた。
男は橋の端に立ち欄干に手を乗せて、下を流れている川を眺めていた。だが薄暗い橋の下にある川は殆ど闇で、遠くの街灯の微かな明かりや月の光などで僅かに水面がきらめている程度だ。明確に見える物は何も無いはずだ。
郡司は男を意識しつつ信号を渡って道を越えた。何となく不気味な印象を抱いたので、橋を渡る際には男とは反対側の端を歩いて通り過ぎようとした。
男とすれ違う時にチラリと顔を見る。その行為は好奇心というよりかは、ただの何となくの所作だった。
だが大きな気づきがあった。男は同級生の筒井だった。
群青は立ち止まった。関心を引かれたのは相手が知り合いだったからというだけではない。
薄暗がりの中で群青は確かに気づいた。筒井は恐怖で目を見開かせて、口を半開きにさせていた。その表情のまま下の川を眺め続けている。只事では無い様子だった。
…この時、群青にはいくつかの選択肢があった。相手が知り合いとはいえ構わずに立ち去ることも当然できた。
だがこの時はそれを選ばなかった。その理由は何なのか、興味本位なのか、群青は自己分析することなく筒井に近づいた。
人生とは小さなきっかけで、大きく動くものだ。
変化は突如として現れる。それによって起こる事柄が幸福か災厄かは、それが起きて、事が過ぎるまで誰にも分からない。
「筒井」
群青が呼びかけると、筒井はハッと我に返ったように固まった顔を解いた。だが振り向いて群青だと分かると驚愕で再び目を丸くさせた。
「…群青?」
「やあ。帰り道なんだけど、何しているんだ」
群青は筒井の横まで来ると同じように欄干に手を乗せて、筒井が見ていたように川が流れているはずの闇を見下ろした。
当初はほんの数秒を眺めて止めるつもりだった。だが闇だと思っていた川は思いのほかよく見えた。そこに何があるのかも。そこには人が居た。
人は二人居た。一人は男で、服を着たまま川に入っていた。川の水深は浅く男の膝下程度の深さだったが、男は湯船に浸かるように屈んでいたので腰から下はだいぶ濡れているだろうと推測できた。
もう一人は…うつ伏せになっていた。川の中で。
川に顔を浸けてうつ伏せになっていた。屈んでいる男はその人の両脇に手を入れて、流されないようにしているのか、抱えていた。
うつ伏せになっている人はまるで人形なのではないか、と群青が感じるくらい生気が感じられなかった。反対に屈んでいる男からは明らかな生気、存在感が伝わってきた。こちらを見ていたからである。
群青の思考は凍りつくように止まった。状況を理解し切れなかった。本能的な恐怖が足元から這い上がってきて身体を浸蝕し始めた。声を出すことが出来なかった。視線を瞬時に逸らすこともできなかったため、橋の下の男とはっきりと目が合ってしまった。
獣のような目だ、というのが率直な第一印象だった。目つきから連想したのは凶暴な肉食獣だ。暴力的なイメージを宿す目であり、目から放たれてこちらに届いているのは殺気だった。
「群青…」
横に立つ筒井が、か細い声で話しかけてくる。筒井を見ると恐怖で怯えきった、まるで迷子で途方に暮れている子供のような目をしていた。
群青は直感で理解した。筒井もまた自分と同じ不運な目撃者なのだ、と。
この状況、この様子を見て予想するに、これは殺人の現場なのではないだろうか。
殺人と言う言葉に非現実感しか抱けないが、群青は筒井から目を離して再び橋の下を見た。依然として恐ろしい形相の男が居て、そのそばで人が顔全体を川に浸けて頼りなく浮いているのだ。川の僅かな動きに合わせて揺れているようにも見える。生きている気配が無い。
群青は、それが死体だと確信した。
何十秒か、あるいは何秒だったろうか。突如襲った未知数の恐怖は群青の時間感覚を奪った。呆然と男を見つめるだけだった。視界に筒井は入っていなかったが、同様に微動だにしていない気配だった。
この場において最初に行動を起こしたのは、川で屈んでいる鋭い目の男だった。それまで死体の両脇に手を入れて抱えるように持っていたが、その手を離して立ち上がった。
夜目が効いてきたのか男が身体を動かした際に、一瞬だけだったが闇に溶け込んでいた男の全貌が見えた。意外にも同年代に見えた。
しかし男は依然としてこちらを睨みつけていた。鋭い眼光を向けたまま、ゆっくりと後ろに下がり始めた。腰から下は濡れており、足は川に浸かっているため緩慢とした動きだったが、少しずつ後ずさって暗がりの川のさらに後ろ、深淵の中へ消えて行った。
姿が消えた後も男が動く際の小さな水音は聞こえていたが、次第にそれも聞こえなくなり、やがて完全に気配が消えた。
触れられず、話しかけられもせず、唐突に現れた土壇場は唐突に終息した。
何もされなかったが、明らかな敵意を嫌というほど浴びた群青は、大いなる恐怖の次に大いなる不安に襲われた。
(自分は殺人事件を目撃してしまったのか…)
男が消えて一分ほど、群青も隣の筒井も喋らず動きもしなかった。少しでも気配を出せば再び男が現れるのではないかという謎の不安が群青にはあった。
しかし流石に一分ほど経つと、男が再度現れることは無いだろうと、考える程度の冷静さが戻ってきた。
筒井を見ると、筒井は少し前から群青を見ていたらしく、目が合ったが表情は先ほど同様、泣き出しそうな弱って困り果てた表情だった。
「警察…だよな」
話しかけるが筒井からの返事は無い。まだ恐怖の最中なのだ。群青より長くここに居た分、群青より疲弊しているのだろうか。
群青はもう一度橋の下を眺めた。男に置いていかれた人、つまりは死体は川底か岩に引っかかっているのか、同じ場所で当然のように漂い続けていた。
「警察…だな」
この現状を受け入れるために、群青は同じことをもう一度呟いた。自分に言い聞かせていた。




